雨降って、地固まる。〈七〉


「あ、雨だ」

「雨ですね」

「雨かあぁ」


 今日は、お客さんのカーディガンについた水滴の染みが、雨の訪れを報せるのに一役買った。それがまた鮮やかな紫色だったから、つい、紫陽花を連想したのもあるのだろう。

 いつかも交わしたような会話を二、三続けてから、若蔦さんが「やべっ」と声をあげた。カウンター内から慌てて事務所に移動しようとして、振り返る。


「もう傘ってないんだっけ?」

「ええ。このあいだ日下部さんが持って帰るのにあわせて、古いやつとか処分したので」

「マジかよ……」

「……ひょっとしてまた忘れたんですか?」

「でも今日は八〇%だったし」

「……バカでしょ」


 既視感を覚える流れであるけれど、ついこの間とはわけが違う。


 なにせ、もう傘はないのである。


 宗田さんが若蔦さんと長期戦になる言い合いをはじめたので、わたしはこっそりカウンターを抜け出し、店内を整理することにした。

 ハタキを持ち、店内を端から一周してゆく。語学書の乱れを直し、資格書から脱出しかけている短冊スリップをもとの位置に戻す。久万河書店はコミックの売れ行きがいいので、そのあたりを整えるのは、すこし、苦労した。

 表紙が見えるよう平積みしてある文庫を整え、どなたかが戻すときにやや飛び出したままになっている棚を撫でていると、見覚えのあるラインナップに行き着いた。


 創元推理文庫の棚である。


 指先で背表紙をなぞり、暗号にも使われていた、大崎梢の『配達あかずきん』と北村薫の『空飛ぶ馬』を手に取った。特に何かをたしかめるつもりもなく、これだけではそうすることも出来ないと知っていた。


「あら。買うの?」


 背後から、それも耳朶にそっと吹きかけるように声がかけられたので、思わずびくり、身を震わせてしまう。何を読んでいるのだ、と見咎められたような気がしたことも一因した。

 もちろん、そんな心配はない。立っていたのは店長だ。


「どちらも持ってますから」と言いながら、わたしは文庫を棚に戻す。

「残念。売り上げに繋がるのに」

「店長が買ったらいいじゃないですか」

「本ねぇ。買ってもいいけど、あんまり読まないから。読みかけの本、ぜんぶ三ページぐらいで止まってるの」

「へええ」


 本屋の店長さんなどをやっていらっしゃるから、色んな小説を網羅していらっしゃるような気がしていた。実際、「これこれこういう本なんだけど」という問い合わせに柔軟に対応する姿も見ている。

 日下部さんとは逆の意味で、意外である。


「まあでも、これぐらいは挑戦してみようかな」

「なにせ、一生忘れられない思い出ですからね」

「そうね」


 あの日、わたしたちは、日下部さんに短冊のコピーと目録を手渡して、一度その会合をお開きとした。


 改札の向こう側に軽快な音を鳴らし去ってゆくふたりの背中を見送ってから、わたしとさすがさんは、駐輪場に向かった。夏が近く、それでいて夏にはまだはやい。そんな季節だから、いちだんと静かな夜だった。


「さすがさん」


 深緑の自転車に跨るさすがさんを呼び止めた。振り向いたさすがさんに、わたしは言った。


「わたしを呼んだ理由、わかりましたよ」

「………」


 さすがさんは振り向かない。沈黙を肯定と受け取る風習はどなたが思いついたのかは知らないけれど、今日はありがたく、先人に倣うことにした。

 見えないだろうに、指を折りながら、わたしは言う。


「わたしを呼んだ理由はふたつ。ひとつは、自分の代わりに謎解き役を任せたかったこと。そしてもうひとつは――――それを適切なタイミングで、中止させたかったこと。これが理由です」


 前者に関しては、まあ予想していたことでもあったし、さすがさんの声量を思えば自然なことだとすら思った。後者の考えについては、思い至ったのが奇跡に近いけれど、それでも同じ五月を経験したからこそ、ひょっとしたら、と思った。


 真実を知る。その上で、どうするか。わたしが考えていたことを、きっとさすがさんも考えていたのだ、と、思う。


 お返事の代わりに、軽い金属音が鳴った。さすがさんが自転車から降りて、それを停めたのだ。わたしに真っ直ぐ向き合うような姿勢になる。わたしは続けた。


「わたしに暗号の詳細を教えなかったことも、あの場でわたしがすぐにたしかめるように、ですよね? 好奇心には勝てませんから」


 お預けを食らった犬が、勢いよくごはんに飛びかかっていくように。お預けを食らった好奇心は、素直にヒントへと手を伸ばし、その答えを知ろうとする。

 さらに、さすがさんが呟いた一言も、わたしのそれを煽った。


「名前が、数」


 何のことかと思ったけれど、目の前には名前がいくつも並んでいたので、いくらさすがさんほどの頭の回転がなくとも、自然と結びつけられた。

 たとえば数学の方程式を解くときなんかは、書きながら解いてゆく。実際に身体を動かしながら、頭も回転しているのだ。スポーツもそうだろう。文系として生きてきたわたしは、あまり経験がない。脳ばかりを動かして、ほかにあくせく動くのは目ぐらいだ。

 このときのわたしは、まさに数学の方程式を解くときのようだった。手を動かし、ページを捲り、それからさすがさんの言ったことを反芻する。


「目録には、創元推理文庫のすべての作品が載っています。書名に著者名、それから分類や解説」


 アガサ・クリスティだとか江戸川乱歩だとか、著者によっては、その著者の解説も多少載っていたりする。


「書名や著者名では暗号を解読できない、ということは実践済みなので省くとして、そうなると、目録のどこを見ればいいのかは消去法で決まります」


 さすがさんは、促すように首を揺らした。


「解説文、ですね?」


 解説目録と銘打ってあるだけに、書名や著者名が書かれた下には、解説文が載っている。

物語のおおまかなあらすじや、どんな賞を受賞したのかなどが書いてあるのだ。その文章は、だいたいにおいて本のうしろにある(創元の場合、開いてすぐにお目見えする)本の紹介と、すこし異なる。


 だから、単に注文された本のラインナップを見た限りでは、その暗号は解けないし、かといって本をすべて用意する必要もない。現に、五冊のうち三冊は取り寄せも難しかっただろう。

 さすがさんは頷き、手持ちの袋から文庫を出した。


 正しくは文庫目録。今回の鍵である。


 日下部さんに渡すことを見越して、二冊用意していたのだろうか。それもまた、わたしの考えの正しいことを示している気がした。

 鍵がわかってしまえば、あとは解法である。差し出されたので、わたしはそれを受け取った。


「さすがさんはおなじです、とおっしゃいましたよね。何が同じなんだろう、と思ったんです。でも、そのあとの言葉でしょ。名前が数を示す、といわれて、わたしの頭に浮かんだのは、さっき日下部さんと話していたばかりの――『街の灯』でした」


 客注は読み間違いを防ぐために、カタカナで受けるのが原則だ。だから短冊の段階ではなかなか気づかれない。


 ヨツヤ、シノヘ、フタツギ、ミタニ、イガラシ。

 漢字にするとおそらく、四谷、四戸、二ツ木、三谷、五十嵐となる。


「厳密に言うなら同じ、というわけではありません。恐らく、まだ真尋さんは『街の灯』を読んでいないはずですから。でも、鍵をこの目録とするなら、ページ数を示すのはニセの注文以外に他なりません。行数の指定がないのは、すべて一行目で済ませたからでしょう。そして注文をしたそれぞれの名前が、数を示す。『街の灯』と同じく、上から何番目ということかと思いましたが、それでは意味が通らない上に、数を名前に忍ばせられない。それに、読んでいないことを考えると、今回の場合は、上から何文字までか、が正解です」


 さすがさんから受け取った目録には、既に折り目がついていた。その個所を開く。

 すると、そこにはある一定の文字に、カラーペンで印がつけられていた。暗号には意味を為さないせいか、記号は省かれているのだろう。

 それらの言葉を星座のように組み合わせて、わたしは、頬が緩んでしまう。



 北村薫『空飛ぶ馬』の四文字は、「私たちの」

 天藤真『皆殺しパーティ』の四文字は、「誕生祝い」

 北川歩実『透明な一日』の二文字は、「結婚」

 大崎梢『配達あかずきん』の三文字は「いいよ」

 そして最後の、フリッツ・ライバー『死神と二剣士』の五文字は、「最愛の恋人」



 六月の花嫁、という言葉がある。六月に結婚すると幸せになれる、という言い伝えだ。欧米だけでなく、今では日本にも浸透していて、わたしは特に、ゼクシィ六月号の入荷数でそれを実感した。

 けれど何も、幸せになるのは花嫁だけではないのである。わたしは、これを解いたときの日下部さんの反応をこうかしらああかしらと夢想して、頬のいただきを持ち上げた。


「……ミステリが好きで、ちょっとした質問にも暗号で返してしまう、そんな『最愛の恋人』に向けて。彼女さんなりの、誕生日のお祝いも兼ねたプロポーズへのお返事だったんですね」


 さすがさんが、この謎解きを適切な場所で中止したかった理由もわかる。


「だから、本人が解かなければ意味がない」

「はい」


 さすがさんがいよいよ声でもって正解を表したので、わたしは嬉しくなって、にっこりしてしまう。そのまま自転車を押して、ふたりで駐輪場の出口まで向かった。

 見上げると、千切った綿菓子の隙間から、ちらほらと星が見えた。ありきたりな夜空はいつかの夜とも変わらないはずなのに、けれど気持ちの変化が、それをまた唯一のものにしてくれる。

 さすがさんよりひと足先に自転車に跨り、わたしは聞いた。


「ね。ね。さすがさん。わたし、よくできました?」


 カラカラ音を鳴らしながら愛車を近づけて、さすがさんは横に並んだ。真っ黒のワカメさんのおかげで相変わらず表情は読めず、ただ、見下ろしていることが顔の角度で伝わってきた。

 さすがさんのうねうね頭の向こう側に、ちょうど街燈があるせいか、その姿が眩しい。目を細めると、さすがさんの腕が、その一助を買ってでた。


 そして、わたしの頭に手のひらを乗せたさすがさんは、言った。


「あと一歩、がんばりましょう」

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