雨降って、地固まる。〈六〉
どこの世界の名探偵にも共通していることだけれど、探偵の皆さま方は、その推理の全貌を聞かせるにあたって、わたしたち読者――そして登場人物――を焦らしにかかるのがお好みである。さすがさんも、例に漏れず、そうだった。
だから、
「彼女の謎が解けたって本当ですか!」
と日下部さんが駆け込んできたときも、勤務をともにしていた宗田さんや若蔦さんと、そろって首を傾げてしまった。
宗田さんや若蔦さんに至っては、この方がどなたなのかもわかってはいないだろう。面識があるのはわたしだけなので、自然、日下部さんと話すのはわたしの役目になる。
「日下部さん、こんにちは」
「あ、どうも。すみません、突然」
「いえ。それは構わないんですが……」
どうしてここに? という意は行間に忍ばせておく。
幸い、日下部さんはしっかり受け取ってくれたらしい。
「連絡があったんです」
「連絡……というと?」
「謎が解けたから、今度の金曜日の夜に来てくれって」
なるほど、今日である。
とはいえ、そんな話をさすがさんからは聞いていないし、月曜日にも散々粘って、「すこし確認しておきたいことがある」と待ったをかけられてしまったのだ。
おまけに今日は金曜日。さすがさんはシフトに入っていない。謎を解くとしたらさすがさん以外ではありえないというのに、誰がいったいこのひとを呼び出したのだろう?
「あ。それね、私」
「店長?」
「そう」
店長は頷いてから、「まあ集めるよう言われた、ってほうが正しいかな」
誰に? とは問うまでもない。
いつのまにか日下部さんの背後から、うねうねのワカメさんが、ひょっこりと頭を覗かせていた。
「さすがさん!」
声をかけると、ワカメさんが潮の流れに乗るように、動く。
会釈をしているのだ、ということには、若蔦さんらの挨拶を見て気がついた。わたしも流れに取り残されないよう、慌てて頭を下げる。
さすがさんは、片手に提げた久万河書店のビニール袋を持ち上げて、わたしに挨拶を返してきた。声をかける前に、店長がさすがさんに近づいてゆく。日下部さんのことだろう。
さすがさんは店長と何事かを話し合ったあと、またこちらに引き返してきた。店長はというと電話のほうへ、さすがさんはというと、わたしのほうへと近づいて、肩に手を置いた。
「な、え、なんですか?」
さすがさんは、ヒッチハイクをするように親指を立てると、そのまま自分の背後を示すように、腕から先を折っていく。わたしがその先を視認したと確認すると、日下部さんにはわりかし丁重な方法で先を促し、歩き出していった。
さすがさんの指差した方向には、カフェ・ブルックリンがある。二人の殿方がそこに姿を消してゆくのをぼうっと見つめていると、「あら」と背後から声が聞こえた。
見ると、エプロンを外した店長が、
「並木さん、まだこんなとこにいたの」
「こんなとこ、って。わたし勤務中ですよ」
「貴家くんに言われなかった?」
「はあ」
「今日は並木さんも一緒に聞くって言ってたけど」
「えっ」
思わずカフェのほうを見ると、ほとんど人気のない店内に座ったさすがさんが、こちらをじっと見つめていた。視力がそう芳しくないのできちんとは見えないけれど、片手を持ち上げて、ゆらゆらと振っている気さえする。
「いや、事実振ってるでしょ」
「あ、ほんとですか。ユーレイに近い幻想かと……」
「三途の川じゃないんだから」
そんなわけで、店内に残った鳴海さん、若蔦さん、宗田さんにあとを任せ、さすがさんたちのテーブルに同席させていただいた。
テーブルは久万河書店との間に流れる通路の川に面したところにある四人席で、エスカレーター側に背を向けるようにして座っているのが、通路側に日下部さん、そして店長。それに向かい合う形で、通路側にさすがさん、そのとなりにわたし、という席順であった。
全員のもとにコーヒーが届き、さすがさんがスティックシュガーを五本と、ミルクを山もり入れ終えてから、日下部さんがいよいよと口を開いた。
「それで、あの、いったいどういうことだったんでしょうか」
窺うような視線を向けられたのは、店長である。立場としてももちろんだけれど、わたしやさすがさんは、日下部さんのような大人の男性から見れば若輩者に映るのだろう。
店長は、申し訳なさそうに眉尻を下げてから微笑んだ。
「すみません、詳細は二人から聞いてください」
「はあ……」
そこでようやく、わたしは自分の役目を理解した。
日下部さんの質問に答える前に、さすがさんはそのワカメさんで覆われた顔を、わたしの方へと向けてきたのである。
これが普通のお茶会であれば、「ああ、トイレかな?」などと人ひとり通れるぐらいの道を用意するものだけれど、相手がさすがさんなのだ。しばらくその隠されっぱなしのご尊顔と睨めっこをして、どうやら、傘の暗号のくだりの説明を任されているらしいことに気がついた。
本音を言うならば、すべて受け売りの情報である。わたしより、解読を済ませた本人にお任せしたい。
けれどまあ、重要な役目を仰せつかったことに対して、悪い気はしなかったのでお受けした。もちろん、臆病な自分が「じゃあ帰っていいです」と言われることを危惧した、というわけでは、決してない。
世間の名探偵のようになめらかな謎解きではなかったにしろ、傘の説明には納得していただけた。
傘の柄が東京創元社の創元推理文庫を示すこと。
それから、傘が置かれるようになってから注文を受けた創元推理文庫の客注短冊がおそらく暗号のピースであること。
「ってことは、彼女、注文もしていたんですか?」
「はい。でも内三冊は在庫がなくてキャンセルになりました。あったのは二冊だけ」
そう言って、『空飛ぶ馬』と『配達あかずきん』を取り出したのはさすがさんである。
見ると、日下部さんは、うれしいやらかなしいやら、といった複雑さで、顔をしわくちゃにした。
内の一冊、『空飛ぶ馬』を手に取って、
「これ、僕が真尋にお勧めしたんです。懐かしいなぁ」
「日下部さんもお好きなんですか?」
「はい。僕としては綾辻行人の、おどろおどろしい……暗黒館みたいな、ああいうのが好きなんですが、彼女、もし読むなら人の死なないミステリがいいというので。ただ僕としては、『街の灯』を早く読んでほしかったんですけどね」
さすがにパスワードシリーズなど、好きな本のお話をさせていただいたので、ピンとくる。
「暗号ですね」
日下部さんは頷いた。
「銀座のほうでしょうか。それとも、『即興詩人』の?」
「後者です」
内容を知らぬ人からすれば、この会話自体が暗号のようなものだろう。
北村薫の代表シリーズのひとつに、ベッキーさんシリーズというものがある。昭和の時代に生きた令嬢、英子さんと、その新しい運転手ベッキーさんこと別宮みつ子さんが、謎を解いてゆく物語である。『街の灯』が第一作目、『玻璃の天』と続き、最後に直木賞も受賞した『鷺と雪』。いずれも文藝春秋から、文庫化も既に済ませている。
日下部さんとわたしが話している暗号は、第一作目の『街の灯』の二編目、『銀座八丁』で出てくる。銀座のほう、というのは、英子さんの兄上のところに届けられる品物が銀座のどこを示しているか、という謎で、後者は主人公である英子さんの学校で流行っている暗号のことである。
「共通の本を鍵に指定して、あとはページに行数、それから何番目かを書いておけば、相手が何を言いたいのかわかる、という」
「主人公が漢字の読み方を教えてちょうだいよ、という名目で、お兄さんに吹っかけるんですよね。そこで使われる本の題名が『即興詩人』なんです」
「なるほどねえ。貴家くん、知ってた?」
さすがさんの黒髪が、意志を持ったかのように動いた。上下に、である。
自分だけが知らないとあって、店長は持て余した視線をちらりとエスカレーターの方に逃がしては、話題も同じ方向に追いやってしまった。
「で、その暗号がどうしたんですか?」
「……ええと、その、暗号で……」
とたんに歯切れが悪くなる。
何だろう、と思っていると、日下部さん、ぼそぼそとさすがさんほどにちいさな声で、何事かをおっしゃっていた。
「え?」
店長とふたりで聞き返し、ついでに身を乗り出すと、それでようやく、言葉の端っこを掴むことに成功する。
「………んを」
「んを?」
「もうちょっと大きい声でいいですか」と、店長、容赦がない。
それからたっぷりの――ちょうど店長の容赦のない発言時に店内へと入店してきたひとが注文を済ませ、日下部さんや店長のうしろにあたる席に腰を落ち着け、さらに二口ほどコーヒーを啜ってひと息つけるほどの――間を要してから、日下部さんは言った。
「………っっけっこんをっ! もうしこむつもりだったんですっ!!」
いきなりの声に、わたしたちだけでない、周囲の視線も集められた。日下部さんの真後ろに座った方なんかはかわいそうに、大きく肩を揺らし咳き込んでいる。むせたのだ。
「あれ? でも、最初に伺ったとき、婚約者だっておっしゃってましたよね」
「それは……まだ、彼女の承諾を得てないので」
「得てない?」
「……というか、その、正式なのはまだで、結婚とか、いいなー、ぐらいの。彼女がそれ、流してしまったんで、もう一度……その、もうすぐ僕の誕生日なんで、さすがにまじめな話をしても許されるかな、と」
「じゃあ、ご紹介がフライングしちゃったわけですね」
「まあ、はい、そうですね」
それ、ひょっとしたら婚約者にならない可能性もあるんじゃあ……とは言えなかった。既に居た堪れなさそうに身を縮めているのだ。
しかたなく、本題に戻る。
さすがさんが、わたしにも見せた短冊のコピーを机の上に並べるので、それに合わせて言った。
「これが、おそらく真尋さんが頼んだとされる注文の控えです。名前は偽名の可能性があるのでそのままに、番号だけは隠させてもらいました。見覚えのある名前はありますか?」
「いや……あ、ミタニコウキならありますが」
「それはわたしもあります……」
「……ですよね」
ここから先の謎解きはわからないので、わたしは、横に座ったさすがさんを見上げた。瞬きを三度繰り返したのは、紛れもない、エス・オー・エスのしるしなのだけれど、こちらを見ているかも定かでないさすがさんに、果たしてこの救命信号が伝わるかは謎である。
夜のカフェはひとがまばらで、音楽があるにしても、すこしならさすがさんの声も聞き取れた。
「おなじです」
何がだ。尋ねる前に、さすがさんは久万河書店の袋から、一冊の本を出す。
いや、本だと思ったけれど、それは違った。
「目録……?」
さすがさんは頷く。そして、ぼそぼそと、となりに座っているわたしにしか聞こえないほどの声量で、何事かを呟いた。
わたしは、はっ、とする。慌てて目録を手に取り、ページを捲っていった。
192ページ。218ページ。193ページ。183ページ。283ページ。
短冊のコピーと照らし合わせながら、納得する。そうか。そうだったのだ。
「ちょ、ちょっと、待ってください。どういうことなんですか!」
自分を迷子にした母親を非難するような声を日下部さんがあげて、ようやく、わたしの手は止まった。日下部さんの懇願の眼差しを受け、それから、さすがさんに同じような色合いの視線をわたしも向ける。
だって、これは。
「あの……これ、わたしたちが解いては、いけないと思います」
「え?」
「だって、わたし、わたしたち、日下部さんのプライベートに立ち入ってしまいます」
「それは別に構いません。お願いしたのはこちらですし」
「でも、真尋さんのプライベートにも入ってしまうんですよ」
「それは……」
風船が萎むように、または萎んだ風船に残念がる子どものように、日下部さんは勢いを失って項垂れてゆく。カフェの音楽もいよいよ音量を失っていっているのは、閉店が近いからだろう。気がつくと、もう二十二時半を過ぎている。
「大丈夫です。日下部さん。日下部さんなら、きっと、解けます。それに、――真尋さんもきっと、最後は日下部さんに解いてほしい筈ですから」
「……そうでしょうか」
「はい。なんていったって、これ、日下部さんのお気に入りですよ」
「え?」
「鍵は目録、暗号はこの短冊のすべてです。がんばってください」
カタン、と椅子を引く音がした。
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