番外編 オルドルと魔女
丑三つ時ってコトバは、翡翠女王国には存在しないらしい。
そんな当たり前すぎる発見も、今は楽しくって仕方がない。
深夜。
明かりを落とした室内で、ボクは目覚める。
間抜けのヒナガ君ではなく、ボクの瞳、ボクの五感で目覚める。
「ん~、いい気分♪」
実体を伴う手足をぐっと伸ばす。
眠りに落ちて力を失った手と指、足と頭とが、徐々にボクという違う意志で目覚めていく。
呼吸によって体中に酸素を巡らせて、物に触って物理世界の法則を楽しむ。
深い睡眠の間ヒトの体は意外と無防備で、そこにボクのつけこむスキができる。眠りのあいだに夢魔が入り込む手口と同じだ。
こうしてここのところ毎夜、体を拝借していることをまだバカな日長君は知らない。
さあ、束の間を楽しもう。
自由になる手足があって、触れられる現実が目の前にある、そんな贅沢はボクたちには滅多に与えられない。
これは、本来は読み手を堕ちるだけ堕としたモノだけに与えられる栄誉なのだ。
そうきたらやることは一つしかない。
追い求めるは至高の快楽。人間が日頃何をしているかなんてコトは知らないが、手と足と目と耳と考える頭が他にするべきことなんてたぶん存在してない。
――――読書だ。
*****
とてつもなく楽しい気持ちで、さっそく閲覧室に降りて数冊の書物を選び、机に並べて舌なめずりした……ところで、邪魔が入った。
「……先生? こんな時間に何をなさってるんですかにゃ?」
出たな、妖怪猫耳年増女。
ピンクのネグリジェを着た猫女が立っていた。
ランプの光が、闇に慣れたボクの目にはまぶしすぎる。
「やあ、アリスさん。ごめん、起こしちゃったかな? 悪いね、なんだか眠れなくってさ……」
「先生……ではありませんにゃ。鹿さんのほうですにゃ」
咄嗟の演技はかなり似てたと思うんだけど……どうも、この猫女、ニガテだ。
「どぉしてバレちゃってるのかなあ~……」
「ヒナガ先生の許可は取ってるんですかにゃ。使役魔が、魔術師の支配下を離れて自由に出歩くにゃんて、とんでもにゃいことですにゃ!」
「だったらどうするってのさ。ボクを捕まえてペロリと食べちゃおうって? お嬢さん、今すぐ出て行かないんなら、魔術師たちがどんなふうに闇と親しむのか講義したっていいんだよ……こんなふうにね」
節操というモノを知らないボクの唇が呪いの言葉を吐く。
魔法ってほどのシロモノじゃなく――まあ、まともな魔術師なら恥ずかしくって口には出せないような類のコトバだ。
魂が穢れる、とかいう表現もある。
ボクはまともではないからちっとも構わないが。
それは闇にひそむ魔物たちを呼び寄せるためのかわいいまじないで、彼らがまだ街の光の下で生きているのか不安だったが……たちまち喉の奥から獰猛な猛獣が発するような鋭い威嚇音が鳴り、部屋の温度を一度か二度下げて空気を震わせた。
窓がカタカタ鳴り、妙な影がうつり、ひたひたと足音が聞こえる。
いずれも小物だけど、女の子を怖がらせるくらいの仕事はしてくれるだろう。
しかし、ボクの思惑は見事に外れて、猫耳女……アリスとか言ったっけ。
彼女はちっとも怯えた様子をみせない。
「アリスをにゃめにゃいで下さい。三下魔法使いの小手先にだまくらかされたりしませんにゃ!」
彼女はネグリジェの下から金属に意匠が刻まれた護符(タリスマン)を取り出してみせた。
「ふむ……なるほど。立派な魔除けだね……」
備えが何もないワケじゃないらしい。
ただ、それが一流の魔法使いのいたずらに対峙するのに最適な態度だ、と思われてるのだとしたら心の底から遺憾の意を表明する。
「先生に言いつけますにゃ!」
目の前に知識をたっぷり蓄えたたくさんの本があるっていうのに。こうしている間のボクは餌を待たされてる犬みたいな気持ちだった。
「あのね~、いい加減にしてくれないかな。どのみち図書館の外には出れない。この建物、あのオンナノコの魔法で囲まれてるからネ」
ボクは壁をこつん、と手で突く。
図書館の全体を覆っている彼女の《音》が震えて鳴りはじめる。
これが図書館を囲んでる限り、クヨウが扱っていたような使い魔も入ってこれない。
おまけに、今は青海文書が内側にあるから、最強の守りだ。バカバカしい。
半端な護符なんて必要ない。
「《先生》を連れて逃げ出したりしたら、キミより数倍厄介なヒトたちにまた追いかけられるに決まってるのさ。しないよ、そんなコト。まだやることがあるからね」
ボクは席について、書籍を開く。
冬用のフトンみたいに分厚い辞書も手元に引き寄せておく。
こっちのセカイの辞書の引き方にも大分なれた。
だけどボクの知識はあくまでも日長君の知識と経験、そして《ボクを創造した誰か》がもたらすモノに過ぎない。そしてその誰かさんはおそらく女王国とはかかわりのない、ここでは異世界の誰か……女王国の言語は全く知らない未知の言語だ。
今はまだ辞書を引くのですら多大な苦労がある。
これだけ言語の形態が違うなら、発音もずいぶん異なるはずだ。
おそらく《門》をくぐり抜けたときに、あの術のどこかに会話や読文を補う術式が含まれていたはずだ。扉を閉じたときに一瞬だけ垣間見えた膨大な魔術のそれを思い出そうとして、やめた。複雑に組み合わさった魔術を理解しようと瞑想をはじめたら、こうしてニンゲンたちの言う本来の意味で目覚めていられる貴重な時間をムダにしてしまう。
なんにしろ、知らないことがあるというのはいい気分だ。
新しい知識の手触りはいつだってサイコーだ。退屈で持て余し気味の日常と既知の情報をグレーゾーンに引き戻してくれることだってあるんだから。
「鹿さん、もしかして語学のお勉強をしてるんですにゃ……?」
アリスは僕が読んでいる参考書や辞書やごく低級な小説なんかを眺めて、ケゲンなカオをした。
「……ああ、そうだよ」
ボクは聊か怒りに震えながら返事をした。
まったく、驚くべき発言だった。
勉強せずにどうやって語学を身につけるっていうのだろう。
もちろん一番大切な魔法は言語に拠らないものだし、知らない言葉を一瞬で理解する魔法も存在する。けれど魔法が打ち破られる度に会話が不可能になるなんてバカバカしいし、ひとつの言語を習得するのは骨が折れるが魔法を習得するより何分の一かの労力で済み、才能を必要としない。
彼女ははっとしたしぐさで本の一冊を手に取った。
「これは《少女パルマと子竜バファロの大冒険》123巻では……? その前までの122巻は!?」
「読んだ」
「パルマを追放した悪役、領主レドマ・ウノ・ツベルハーンの娘の名前は?」
「シルヴィ・アドリアナ・マヨルカ・ヨナ・ウル・ツベルハーン」
「すばらしい記憶力ですにゃ!」
いったい、彼女は何が言いたいんだ?
子供向けの読み物は実用的な言語を習得するのに最適だ。そこには読むための言葉と書くための言葉と頻出する慣用句がひしめきあっている。
ただ、アリスの瞳が妙にキラキラと輝きはじめた。
「ちょっと待っててくださいにゃ!」
アリスはぱたぱたと足音うるさく閲覧室から出て行き、一旦二階にもどってから、再び現れてボクの前に食器を置いた。
白い皿の上にはサンドイッチとクッキーが置かれている。
紅茶つきだった。
「何これ」
「深夜の読書の正しいやり方ですにゃ。全236巻まで読んだらアリスに教えてください。こちらの書架には出していない幻の237巻をお貸ししますにゃ!」
何がなんだかわからないが、ボクのことを放蕩者の使い魔だと考えるのを思い直してくれたらしい。
「あぁー……なるほど、それはとっても楽しみだヨ」
突然彼女が友好的になったのが不思議で仕方が無かったが……どうやら彼女が勘違いしてるらしいと気がつき、適当な相槌を返した。
ボクは純粋に勉強のためにその物語を読んでいるが、彼女は愛好家で、同じ巣穴に引きずり込むナカマを求めてるらしい。
「先生が寝不足にならないよう、ほどほどにしてくださいにゃ」
アリスはそう言って、ランプを置いて出て行った。
「やっと厄介なのが行ってくれた……」
できれば語学だけじゃなく、女王国の魔術体系についても、いくらか研究しておきたい。
いずれにしろ文字が読めないんじゃハナシにもならない。
ボクはいつも少しばかり考えが足りない日長君のポケットからあるものを取り出した。
黄金の林檎の形をした金色の小さなチャームだ。
「不死の象徴……意地が悪いねアイリーン、昔からキミはほんと趣味が悪い女だった」
それは卓上で本の形となり、青海文書の原典として、あるべき姿を取り戻す。
「魔法の本には正しい読み方がある」
表紙に手をかざす。
文書はひとりでに開き、いくつかの物語の中に隠された文字列を浮かび上がらせる。
巧みに隠された大切な物語だ。
「どこにいる? アイリーン」
「ここよ」
静かな声がして、頁を上品に繰る音が続いた。
閲覧室が眩く光る。
ランプよりずっと強い輝きの中で《少女パルマと子竜バファロの大冒険》123巻を読みふける女が、目の前の椅子に斜めに腰かけていた。
彼女は《アイリーン》。
青海文書の主人公であり、弱虫の日長君の前に何度も現れ、時には窮地を救って行った魔女だ。
彼女は青海文書の管理人にして、大いなる目次でもある。読み手を選び出し、相応しい登場人物と結びつくのを助けるために、文書の力を扱う大きな権限を持っている。
同じ登場人物ではあるものの、普通の登場人物とは違うのだ。
「お招きにあずかり光栄だわ、オルドル。青空の国のオルドル。こういう魔法使いの集まりも最近じゃめずらしいものね」
あまりにも眩しいからといってうかつに彼女の真の姿を見透かそうとしてはいけない。
目が潰れてしまう。
「キミと悪魔を呼び出したり、儀式をしたりするつもりはないんだよネ」
「残念ね。では読書会に切り換えましょう、このパルマって子すごく愛らしいのよ。そっちはどう、副詞の使い方はもう十分に理解したのかしら」
「フザけてないでボクの質問に答える気があるかい?」
「質問の内容によるわよね。私は傍観者でいたいのもの」
「何故サナーリアではなく……ボクに味方した?」
「マリヤではなくツバキに味方したのかって聞いてるのね」
「どちらでも同じことだろ」
「そうね」
「君は二度も助けたね、しかもボクの読み手だと知りながら。異常な回数だ」
アイリーンは本を広げ、その上に頬杖を突いた。
「そうしなければ死んでたでしょう」
「その割にボクが彼を喰いきったときは何もしなかったじゃないか」
「でもサナーリアは竜に力を貸してたわ」
「それがキミにとって問題か? キミは青海の魔術師じゃない」
彼女は自分のほっそりした顎を支える手を反対に替えた。
髪の毛が滑り落ちる気配はするのに、その姿は光のせいではっきりとは見えない。
さっきのアリスより、僕のほうがよほど悪魔との対話に縁がある。
「あのね、オルドル。よく考えてみて……マリヤはとっても賢かったわね。魔法をよく使いこなしてたと思うわ。でも単純な復讐劇なんていつまでも保つものじゃないの。つまり……なんていうか……そうね、退屈なの」
要するに、と付け加えて、彼女は笑った。
唇の両端を限界まで持ち上げて、その口腔の形は光の中にくっきりとくりぬかれて、その向こうのカウンターが丸見えになっていた。
「彼が勝ったほうが、絶対にお話が面白くなると思ったのよ。それだけよ」
それが絶対の真理だと信じているのか、その根拠がどこにあるのか知らないが、彼女は自分の発言の正しさに絶大な信頼を置いているらしかった。
「…………ああ、そう」
ヒナガツバキの意識がここにあったら、彼は憤慨しただろう。
マリヤ――あの可哀想な娘が誰もかれもに利用し尽されて死んでいったことに、その一端に手を貸し続けたのだと知ったなら。
でもそうはさせない。
泣き虫のヒナガツバキの意識は、ボクの深いところで何重もの
「読み手を守ろうとするのはいいことよ、オルドル。でもね、つまらなくなるのは絶対にダメ。役割を果たすのよ、かわいい子。――貴方が読み手の体を乗っ取って自分のものにしようとしてること、おもしろいから見逃してあげる。残さず美味しくおあがり」
光輝の魔女は逆にボクを脅してくる。
魔女は読み手を全部食べろと言っている。
それが師なるオルドルに課された使命であり――そのほうが面白いからだ。
アイリーンは管理人であり、物語の続きを待ち望む《読者》でもある。
「わかってるさ、売女め」
返事をするや否や、彼女は微笑みの気配だけを残して去って行った。
後には夜があり、さきほど呼び出した闇の者たちが物陰で震えている感じがしてた。
窓枠の外は少し明るくなっていた。
デナクこと黒曜ウヤクといい、お姫様といい、とびきり悪辣な連中ばかりが役のように揃っていく。
「――――嵐の中にいるね、ヒナガクン」
この夜明けが、次の物語の始まりかもしれない。
幕切れがどこにあるのか、カーテンコールまで誰が立っていられるのか、何の保障もない。
台風の目がどこにあるのか、見定めている時間はあまりにもわずかだった。
目には見えない何かに急かされながら頁をめくる。
朝の目覚めとともに、紙の擦れる音が室内に微かに鳴った。
竜鱗騎士と読書する魔術師 実里晶 @minori_akira
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