熟年離婚
私は七十二歳の年老いた妻。夫は七十四歳で、結婚して半世紀になる。
「おい、お茶」
お茶くらい自分で入れれば良いのにね。コーヒーも麦茶も、そして緑茶もあなたは私に指図して入れさせるばかりで立ち上がろうともしない。
「夕飯はまだか?」
まだ十七時じゃありませんか。あなたは十九時には寝てしまうから良いかもしれないけれど、私は二十三時まで起きているから寝る頃には小腹が空いてしまうんですよ。
「おい、いつまで寝てるんだ! 朝飯!」
まだ五時よ……?
「今日は天気が良いからさっさと洗濯でも干したらどうだ」
三時に起きているのなら、少しは家事を手伝ってくれたら良いのに。あなたみたいな人の事を、『無駄な早起き』って言うんですよ。
「香帆……お母さん、お父さんと別れようと思うの」
私は地方に嫁いだ一人娘に電話をしてそう打ち明けた。もう我慢の限界よ。残り少ない人生、好きに生きさせてもらうわ。
『お母さん、お父さんと離婚して生活はどうするの?』
「今は夫の年金の半分を貰える権利って法律があるのよ。それに、いくらかは蓄えもあるし、寿命まで生きるくらいのお金はあるわ」
そうよ! 夫は地位のある人で高給取りだったから、年金だってがっぽり貰っているのよ。その半分を貰えば、つましく生活すればなんとか……。
『お母さんにとって、お父さんって何だったの?』
何だったの?
何って……そういえば考えた事なかったわね。
若い頃は凛々しい夫にときめきもしたけど、そんなの香帆が生まれる前に無くなっていたし、香帆が生まれてからは娘の父親! って感じで他にどうという感情もなかったわね。
「……空気、かしら……」
そうよ、空気。そこに在るだけのもの!
『ねぇ、お母さん、知ってる……?』
何よ、何か私に秘密でもあるって言うの!?
『……空気ってね、ないと死んじゃうのよ』
あれから二年が経った。私の中の離婚騒動はすっかり治まった。
香帆が言ってくれた言葉、空気はないと死ぬ。その言葉に目から鱗が落ちた。
そうねぇ、こんな亭主関白な夫だけど、情はあるかもしれないわねぇ。いつの間にかなくてはならない存在になっていたみたい。
夫は最近朝のラジオ体操に出掛けるようになった。私はその間に朝ご飯の用意をし、夫の帰りを待つ。
私もシニアのスポーツジムに通い出した。そこでは新たなお友達も出来て、帰りにお茶をしながらお喋りをして、凄く気分転換になっている。
ねぇ……あなた……。こうやって老いて朽ちて行くのも良いかもしれませんね。
でも、あなたの介護はしたくないから、健康には気を遣って死ぬときはぽっくりと逝って下さいね。だから、私もあなたのために健康的な食事を作りますよ。
1分で読める創作小説2025【愛憎】 無雲律人 @moonlit_fables
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