第6話


 

 夜営は街道付近で行ったが、なだらかな坂を上がると小川が流れていた。


 本当にごく緩やかな坂なので、今は片腕が使えない陸議りくぎでも上がって行くのに労はなかった。

 ゆっくりと上がっていくと思った通り、少し歩いた所に徐庶じょしょがいた。

 石をいくつか乗り越えて行けば、容易く越えられるような小川だ。

 小川の向こうに続く平地の入り口に立って、彼は空を見上げていた。


 草の擦れる音に、徐庶が振り返る。


「あ……」


 陸議が立ち止まると、徐庶は一度目を瞬かせたが、小さく笑った。


「目が覚めた?」

「あ……はい……、あの……馬車でよく眠らせて貰ったので」


 別に、徐庶がいるかなと思ったが、何か話そうと思って来たわけではなかったので、彼が一人になりたいような感じだったらすぐに戻ろうと思っていたのだが、徐庶は特に何か思索に耽っていたわけではなかったようだ。


「徐庶さんも、目が覚めたのですか?」


「うん。俺も昼間馬車で眠らせて貰ったから。そういえば川があったなと思って来ただけだよ」


 徐庶が空を見上げると、白い息が上って消えた。


 それを見届けてから、陸議がゆっくりと歩き出す。

 大きな足場になる石が丁度並んでいたのだ。

 陸議がこちらへやって来るような意志を見せると、徐庶が歩いて来て、片腕の陸議に手を差し出してくれた。


「ありがとうございます」

 一人で渡れたけれど、最後の二つは徐庶の手を借りた。

 地面に下り立ち空を見上げると、一面の星が広がっていた。


「今回は……天気に恵まれて良かったですね」

 涼州からこちらへ戻る道中は、ずっと晴れていた。

 天候が悪かったらもう少し迂回路も使ったし、行程は遅れていたはずだ。


「うん」


 馬車の中でも毎日、美しい星が見えた。


 徐庶は、涼州遠征でも時折夜中に空を見上げていることがあった。

 天水てんすい砦でも夜中にふと目を覚ますと、冷たい地べたに座って、窓辺で空を見上げている姿を何度か見た。


 陸議は何となく……彼のその姿に呉の城で見た、いつも窓辺で星を見上げていた龐統ほうとうの姿が重なって、声は掛けずに目を閉じた。

 声を掛けて彼の静寂を妨げたら、何だか彼が消えてしまいそうな気がしたからだ。

 

 しかし徐庶が一人で空を見上げている後ろ姿を見ると、何故か少しだけ嬉しくて、夜中に目を覚ましてそれを見つけると、何か穏やかな気持ちで再び寝ることが出来た。


 遠征中は夜でも全ての人間が眠っているわけではないので、あまり気付かなかったが。


 ……徐庶は少し、人と活動する時間帯が違うような気がした。

 人が眠っている時に、起きていたりするのだ。

 それが例の、身を隠して生きなければならなかった時の名残なのかは分からなかった。


 ジッと横に立った徐庶を見上げていると、徐庶がこっちを見た。


「ん?」


「あ……いえ。すみません。前も徐庶さんを夜営地で夜中に見たことがあったから、眠りが浅いのかなと」


 ああ、と徐庶が笑った。


「いや。なんとなく、役人に追われる生活をしていたから、夜に目が覚める癖が付いてしまって。

 でもこれでも治った方なんだ。長安ちょうあんで役所勤めしていた時は、まともな時間に起きて、まともな時間に寝てたよ。

 ただ遠征生活になって、どうやらまた悪癖が戻って来たらしい」


 苦笑している。


 実のところ徐庶の睡眠が乱れているのは、役人に追われる、もっと前からだった。

 闇の生業に関わるようになると、平凡な暮らしとは真逆の時間感覚になるのだ。

 人々が眠る頃に起き出し、人々が目覚め始める頃、息を潜ませ眠りにつく。


 そういった元来身についていた習性が、役人から逃げる時にとても役に立った。

 だから徐庶は、長い間捕まらずに逃げ続けることが出来たのである。


(まあ自慢出来るような習性ではないけれど)


 徐庶は今もどこか夜を好んでいた。

 昼間の長閑な街並みも眺めて見るのは無論悪くはないけれど、心が落ち着くのは夜なのだ。

 

 太陽には焦がれる。

 だが、頭が冴えるのは夜だ。



「……悪癖とは限らないのではないでしょうか」



 ぽつりと陸議が言った。

 彼は空を見上げる。


「この無数の星も、静謐な夜の空気も、昼間にはない、夜にしか味わえないものです。

 私の養父は夜中まで起きて書物などを読むのを好んでいました。

 集中出来るのだそうです。

 多忙な人なのに、遅くまで起きて読んでいた。

 私も、夜中は静かで、たった一人起きているのはなんだか楽しくて、好きでした」


 徐庶が優しい表情を見せてくれた。

 別に、夜を好む人もたくさんいるという意味で言ったけど、変だったかなと誤魔化すように空をもう一度見た。


 いとも容易く、星が細く、流れた。



「そういえば君とは、夜によく会うね」



 笑いながら徐庶が告げる。


「……はい」


 白い息が天に上って行く。


 ……時々龐統ほうとうの部屋を、仕事終わりの夜遅く、訪ねた。

 眠っているようだったら帰ろうといつも思って行くのに、いつも心許なげな明かりがついているのだ。

 あまり得意でもない酒を少しだけ飲みながら、話しているのは陸議ばかりで、龐統の視線はいつも夜空に向いていた。


 こちらを見ない横顔にただ、他愛ない話を語りかけて、話すことがなくなると陸議は諦めて、そういう時は取り繕わず、口を閉ざして共に空を見上げたりしていた。


 ただ、そういう無意味な何も無い時間になっても、龐士元ほうしげんは隠さず物をはっきり言う男のはずなのに「何も喋ることがないなら帰れ」とは一度も言われなかった。


 龐統は、呉では浮いていた。

 誰とも親しくならず扉を閉ざしていたから。

 龐統の許を訪ねる時は自然と二人きりになる。

 彼と、自分しか存在しないような静寂の世界で、



(だけど、私はあの時間は……嫌いではなかった)



 もう少し時間があれば、

 そのことを龐統に伝えられていたのだろうか。



(いや。多分もう伝わってた)



 龐統は、分かっていると言っていた。

 陸議が貴方に憎しみを抱いたことはないと伝えた時、分かっていると彼は確かに言ってくれたから。



◇    ◇    ◇


 徐庶じょしょはふと、隣に立つ陸議りくぎが腰にきちんと剣を下げていることに気付いた。

 明らかにふらと夜風に当たりに出て来た感じだったのに、服装も上着を平服の上に羽織っただけの軽装だが、剣だけはしっかりと帯剣している。

 それも、今は片腕は使えないのに双剣を揃えていた。


 徐庶は今、何も武器は持ってない。


 彼は闇の生業に関わっていた時に、獲物に執着しないという習性を身につけた。

 必要な時には必要なだけ武装はするが、平時は何も武器を持たないことも多かった。

 身を守るだけの体術は身につけていたし、自分の武器に固執しすぎると、それが隙になることがあるからである。

 自分の武器を失っただけで動揺するような人間を、何人も斬ったこともあった。


 武人は己の武具を、肌身から離さない。

 同じように等しく、それは彼らの染み付いた習性だった。


 やはりこういう何気ない動作の中に、徐庶は陸議に武官の習性を感じる。

 勿論、軍の将官だけが武官というわけではない。

 豪族の元で彼らの領地を守って戦う私兵団のようなものもある。

 

 兵士。

 

 単なる兵士とは思えない、陸伯言りくはくげんには何か爪の先まで厳しく躾けられたような気配がある。

 若いが、将官のような動作が染み込んでいるし、これが私兵団の兵士だったらもう少し砕けた気配がするはずだった。


 それに彼が自分に与えてくれる言葉には、もっと豪族一つを守ればいいというようなものではなく、広い気配がした。


 だからといって、自分のように人の道に外れた闇の世界で戦うような人間とは到底思えない。


 唯一不思議に思うのが剣傷の多さだ。


(俺も子供の頃は早く強くなりたくて、無謀な修練ばかりして、とにかく無闇矢鱈に剣傷は作ったものだけど)


 徐庶の身体にも無数の傷があるが、一つだけ明確に陸議と違うことがあった。

 徐庶の背に傷はない。

 彼は、背を斬られたことは一度も無かった。

 決して敵に背を向けるなという教えから剣を始めたという理由もあるが、他の四肢は幾度も斬られたり傷を受けたことはあるが、背だけは本当に無いのだ。


 陸議は背に、傷がある。



(背の傷を受ける人間には二種類ある)



 余程剣の才が無く、敵に優位に立たれて背を斬られているか、


 ……誰かを守って背を向けると、そこを斬られる。


 徐庶は護衛仕事はほぼやったことがない。

 それに仕事は一人でいつも請け負った。

 だから守りながら戦ったことなど一度も無いのだ。

 

 涼州で【烏桓六道うがんりくどう】が本陣を奇襲した時、陸議を抱えて逃げようとした。

 そこを敵に狙われたので逃げる術がなく、初めて敵に背を向けた。

 結局馬岱ばたいに救われたので背に傷は受けなかったが、例えば、護衛が仕事の人間は必要に迫られてああいう時、背中に傷を受けることがある。


 陸伯言には剣の才がある。

 司馬仲達しばちゅうたつも迷わず危険な涼州遠征に自分の護衛として帯同させるほどだし、張遼ちょうりょうも側に置いて、十分な実力を持っていると判断したようだった。

 だから剣が下手で受けた傷ではない。

 闇に駆るから受けた傷でもなく、


 可能性があるならば、守るための傷だ。


 司馬仲達しばちゅうたつの護衛として、どれくらいの時期をこなしたのかは分からない。

 想像しているよりももっと昔からなのかもしれないし、そもそも司馬懿しばいが長らく曹操そうそうの治世において左遷されて方々を転戦させられていたと聞いた。


 まだ、彼に関しては色々分からないことがある。


 陸議の隣で空を見上げながら徐庶は考えた。


 だが、いかな理由があろうと、彼は信頼出来る人だ。

 それだけは確かだった。


「あまりこうしていると風邪を引いてしまうね。

 君を寒空の下で付き合わせて病気にしたなんて郭嘉かくか殿の耳に入ったら、江陵に出発する前にまた投獄されそうだ」


「そ、そんなことは……気にしないでください。好きで自分でこうしているんです。徐庶さんの責任とかは関係ありません」


 窺うように徐庶の方を見ると、彼は笑ってくれていた。


「うん。じゃあ、あと一つ星が流れたら戻ろうか」


 星は頻繁に流れていた。


「はい」


 陸議は徐庶が笑ってくれたことに安心して、頷く。



 まだしばらく星が流れなければいいと願っていた。





【終】

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花天月地【第102話 星を求めて】 七海ポルカ @reeeeeen13

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