雲一つ、ふわり
八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)
雲一つ、ふわり
真夏の覚めるような青空に雲が浮いていた。
きっと棒を一本刺したなら、綿菓子になってしまうだろう。
そんな雲であった。
焼き場末席の窓より、それを眺めていた谷崎洋子は、清々しい軽やかさとは正反対の、動物としての人間が、遺憾なく溢れている控室へと視線を向けた。
谷崎家の面々が、神妙な面持ちで、内に憎悪を煮えたぎらせ、喪服を着て椅子に腰かけ、人形のように滑稽な姿を晒していた。3歳以上のそれぞれの兄妹の子供達も、親に何を吹き込まれたのか、静かに椅子へと座り、ただただ、時が過ぎるのを待っている。
谷崎本家の葬儀は直系の親族だけの内輪で営まれていた。
祖母の谷崎よし子は、実業家であり慈善家でもあった。
夫と共に戦後に創業し、一代で財閥と揶揄されるほどまでに成した。金融、自動車関係など、多岐に及ぶ会社のほとんどは、息子や娘へ譲られ、今もなお成長を続けている。
祖母が唯一手放さなかったのが、「共愛の里」という複合養護施設である。
創業間もなくに設立され、堅実な会社経営を生業にした祖母には珍しく、それを度外視して営まれてきたのだ。
親族企業の多くが多額の寄付を行い、今のところ事業は継続されている。
しかし、それは祖母の影響力があってのことだ。施設がどうなってしまうのか、と新聞各紙でも報じられるほどの事柄でもあった。
「遺言状により、谷崎洋子さまに、施設と屋敷が相続されます」
亡くなった直後の親族会で、顧問弁護士がそう皆を前にして口にしたとき、誰しもが安堵し、万巻の拍手で祝福された。
卒業してから定職にもつかず、ふわふわと雲のように、祖母の手伝いを施設している不出来な小娘に押し付けることができたと喜んだわけである。
それが祖母の策略であると云うのに。
同じように外を、そして椅子に座る人々を「あえての末席」から観察しているのが、谷崎グループの金庫番を任されている若い頭取の義也だ。
カミソリの異名通りに、眼光は鋭く、細面の引き締まった容姿は人を寄せつけにくい、けれど、逆手にとっての人懐っこさを彼から受けてしまうと、誰しも特別視されたと舞い上がってしまう。
二人は祖母の計略に乗り、ここまでを成し遂げてきたのだ。
『お前たちの人生を、本当に悪いけれど、おばあちゃんにくれるかい?』
在りし日の記憶が二人の脳裏に浮かぶ、大広間で幼い二人は上座に正座し、下座の祖母から畳表に額を擦るほどに頭を下げられた。
洋子は中学3年で、義也は小学校6年生、今日のような空の日であった。
『いいよ、なにをしたらいいの? 』
そう答えたのは義也だった、大人顔負けの冷静さはすでにこの頃から片鱗を魅せていて、少し戸惑って返事をした洋子とは対照的だ。
『お家の鍵になっておくれ』
それから、洋子は成績をワザと落として粗雑になり、家庭の中で孤立し、思惑通りに祖母の元に引き取られ、進学校でない高校、一般の大学、そして定職につかず過ごしてきた。
義也も祖母が親族会でべた褒めを繰り返し、自ら教育すると叔父夫婦より取り上げて、対を成すように優秀を絵に描いた道を歩み、洋子の悪い遊びにも付き合わされながら世間を学び育った。
良くも悪くも、二人は「一般」を経験したのだ。
この親族会に居並ぶ連中が下々と考えているような「世間のありきたり」を学んだ。
洋子は施設にお手伝いとして入り浸り、祖母より人の見方や、考え方、経営などの多くを学ぶ、その独自の経営手腕を身に着けると、祖母が寝たきりになってからは、指導を受けながら、グループの数多くの裁可をこっそりと差配した。
義也は銀行の世界で若い内から才能を発揮し、あっという間に頭取の地位に5年前に就いた。その間に他行を取り込む大統合を成し遂げ、一段と飛躍を魅せて、誰しもが口をはさむことができぬ立場になった。
「洋ねぇ、ちょっといい?」
洋子にしか分からぬ、ささやかな笑みが向けられた。
「うん、いいよ」
先に行く義也のあとに黙ってついてゆく、二人は姉弟のように思われていて、小言を義也が洋子に漏らす姿は見慣れていたから、周囲の興味を引いても、またか、と割り切って、あとをつけてくることもなかった。
先ほど見送った火葬炉の控えの間に入り、二人は祖母が焼かれている炉に向かい、深々と頭を垂れた。
「今までありがとうございました」
声が重なりしめやかに響く、続けざま教え込まれた訓を言の葉に乗せた。
『やさしさは人の要であり、家の要でもある、使い方を誤ってはならない』
祖母のありがたい教え、そして、一命を賭す事柄である。
多くの友人を戦争で失い、その子供達を施設で引き取り、育て上げた祖母の思いだ。
洋子はちらりと義也を盗み見た。
現実と理想の板挟みに身を置いている男を、姉として、そして女として、今後、支えてゆくことになっている。
互いに決めた唯一の、祖母への我儘だ、納得しないのを幾度とない説得が思い浮かぶ、だが、それも祖母の教えであった。
最後のお見送りを互いに終え、二人してそっと外へと出た。
雲一つ、ふわり、と浮いている。
あのようにならなければならないのだと、二人は互いに雲へと手を精一杯に伸ばし、しっかりと握り合う。
見守るように、雲一つ、ふわりと浮いていた。
雲一つ、ふわり 八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子) @suzunokisuzunoki
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