第6話___朝日向 葵___

 玄関の灯りをつけた瞬間、家の空気が少しだけ冷たく感じた

「ただいま」

 返事はない。父は夜勤、母は病院。妹は…―。

いつもの静けさ。靴を脱いで、台所に直行する


 ボウルと泡立て器、薄力粉、卵。手が勝手に動く

 手順を覚えている料理は、考えごとをするのに向いている。――シフォンケーキ

 卵黄をほぐして、砂糖をすり混ぜる。白っぽくなっていく色が妙に落ち着く

 メレンゲを立てる音が、静かなキッチンに泡の雨みたいに散った


 今日の図書室を思い出す

 『……あさひな、くん……だよね?』

 あの小さな声。息を吸う前の、すこし震えた感じ。思い出すだけで、手首に力が入る

 危ない、泡がつぶれる

慌てて泡立て器を止めて、深呼吸


 紫雲 瑠蘭。 

 声に出さずに、何度か口の形だけ作ってみる

し・う・ん・る・か

 形のきれいな名前だな、って思った

 バニラエッセンスを一滴。香りが立って、胸の奥もふわっと軽くなる


 オーブンを予熱している間、棚にあるノートブックを取り出す

 ページの余白に、妹の字で残っているメモがある

「おにぃちゃん」

 指先がそこで止まる

視界の端に、病室の白いカーテンがよぎる

 ――やめよう。今は


 タイマーが鳴った

流れ作業みたいに生地を型に流し込む

 ふちを軽く叩くと、気泡がぷちぷち弾けた

 オーブンの扉を閉める

熱の気配がガラスの向こうに満ちていく


 焼き上がりを待つあいだ、

 勉強ノートの下に、そっと名前を書く

『紫雲瑠蘭』

 字にすると、ますます綺麗だ

 ふと、彼女がノートを胸に抱えた時の、紙の音まで思い出せる

手の中で鳴った、小さい音

 それから――鼻歌、あの短い旋律

 四小節のうち、三小節目で少し跳ねる

 口笛でなぞってみる

 ……最後の一音だけ、どうしても掴めない

 喉の奥にかかって、届かない

 ま、いっか

次に会えたら聞こう、直接

…会えるといいな


 タイマーが再び鳴る。オーブンを開けると、熱と甘い匂いが顔に押し寄せた

 型ごとひっくり返して、瓶口に差して冷ます

 逆さになったシフォンが、夕焼けの余韻みたいにふるふる震えている

「今度、半分に切って持っていこうかな」

 小さく独り言、図書室の机で並べて食べる図を想像して、頬が緩む

 分厚い本と、分厚くないケーキ――いや、シフォンは厚いか…いや、ふわふわだ

 口元を手で押さえて、ひとりで笑った。バカみたいだ


 洗い物をしながら、もう一度だけ彼女の名前を口の中で転がす


 し・う・ん・る・か。

 あ・さ・ひ・な・あ・お・い。


 名前を並べると、妙に語呂が良い、

こういうのも、歌にするのだろうか


 明日、図書室でまた会えるといいな

 本を返しにくるかな

 返さなくてもいい、返さないで、また話してくれたそれでらいい。


 洗い終えた手を拭いて、居間に移動する、棚から一冊、スケッチブックを取り出した

 薄いキリンのシールが貼ってある、由愛のだ

 ページをめくると、クレヨンの向日葵が出てきた

少し歪んでいるけど、元気な色だ

「向日葵……」

 自分の名字の「日向」に、勝手に重ねてしまう

 指の腹で、クレヨンの盛り上がりをなぞる

 胸の奥に、懐かしい痛みと、今日の新しい熱が同時に、じわっと広がった

 こんがらがった糸みたい

でも、嫌いじゃない


 スケッチブックをそっと閉じる

立ち上がって、窓を少しだけ開けた

 夜の風が入り込んで、カーテンがゆっくり揺れる

 窓際の小さな風鈴が、かすかに鳴った、夏の名残りみたいな音

 その音に合わせて、口の中でさっきの鼻歌をもう一度探す

 ……やっぱり最後の一音だけが、出てこない

「じゃあ、明日」

 小さく言ってみる

 明日、図書室で

 その一音を、君の口から、ちゃんと聞きたい


 逆さのシフォンを見に行く、まだ温かい

 スマホのメモに、一行だけ書き出した

 “明日、机の左端、ケーキ、二切れ、フォーク×2”

 心臓が、いいテンポで叩いてくれる。四拍子

 オーブンの熱がまだ部屋に残っている

 それだけで、今夜はよく眠れそうな気がした

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【君の名前を歌うまで】 @umi_one

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