第5話___紫雲 瑠蘭___


やった…話せた

またね、の言葉を最後に、図書室を出た

さっきのことを思い出すだけで、胸がキュッと締め付けられる

廊下の窓からは真っ赤な光がゆらゆらと差し込んでいて、

多分私は、この夕日に負けないくらい頬が赤くなっていたかもしれない


「葵君の声…柔らかかったな」


本の背表紙がじんわり温かく感じるのは、さっき彼の手が触れたからだろうか

葵君から借りた『奇病』の本を、胸に近づけるように抱きしめて

大事に、大事に持って帰った


「ただいまぁー…」


私の声だけが小さく響く

誰もいない家はいつも冷たいのに、今日は胸の奥だけが熱くて仕方ない


両親共に夜働だから、家事など全部私

はぁ、嫌になる

自分のことしたいからって言っても、

どうせろくなことじゃないでしょう…って


窮屈な靴を脱ぎ捨てて、向かうのは私の部屋

キィッ、と響く音をたてて私の趣味に囲まれた部屋に入る



ベッドに腰を下ろして、葵君から借りた本をそっと開く。

「奇病」――その題名どおり、分厚い紙の上には知らない単語ばかりが並んでいた。


ページをぱらぱらとめくっていくうちに、ある見出しで指が止まる。


 『消恋病』


 ――強く恋をすればするほど、恋の相手との記憶が失われていく。


「……ふふっ、なんか詩みたい」


その響きは、不思議と心に残った。まるで歌詞の一節みたいに。

思わずノートを開いて、ペンを走らせる。


『名前、教えてもらってもいいかな?』

『朝日向 葵』


さっきの声を思い出すだけで、胸が温かくなって、言葉が自然にあふれ出す。

声の調子、笑ったときの目元――思い返すたびに、鼓動が早くなる。


「葵君……」


小さくつぶやいただけで、顔が真っ赤になってしまった。

ノートの隅に書いたその名前を、指先でなぞる。


まだ恋だなんて、気づきたくなかった。

けれど、音になってしまった気持ちは、もう消せそうにない。


――でも、あれ?

葵君の声の高さも、響きも、思い出せなくなっていた。

書けば書くほど、頭の中の声は霞んでいく気がして、心がざわついた。


「……なんだろ。変なの」


胸に広がるこの不安の名前を、私はまだ知らない。

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