値札のない服:生成りのエプロン

をはち

値札のない服:生成りのエプロン

雨上がりの渋谷の裏通りは、湿った空気がまだ重く漂い、街灯の光が石畳に柔らかな影を落としていた。


「時代屋」の小さな看板は、夜の静寂に溶け込むようにひっそりと佇み、


ガラス戸の向こうでは、時代を纏った衣類が物語を紡いでいる。


店内は、古布特有の懐かしい匂いと、かすかな衣擦れの音に満ちていた。


遥(はるか)は、祖母・澄(すみ)の教えを胸に、毎夜この古着屋を開け続ける。


「時代屋」は、魂の宿る衣類が集う場所。


値札のない服が現れたなら、それをそのまま陳列するのが務めだと、澄は語った。


あの剣道の道着を含め、幾度かの不思議な出来事以来、遥は「特別な服」に宿る記憶や未練に、畏怖と使命感を抱き続けていた。


今夜、棚に新たな服が現れていた。


生成りのエプロン。


シンプルな布地は、使い込まれた柔らかさを持ち、裾には小さな花の刺繍が控えめに施されている。


ポケットからは、かすかに小麦粉とバターの甘い匂いが漂い、


胸元には擦り切れた糸の跡が、誰かの愛情深い手仕事を物語っていた。


「エプロンか…」


遥は呟き、剣道の道着の武骨な重みとは対照的な、温かな手触りに戸惑った。


だが、澄の教えを思い出し、彼女は丁寧にエプロンをハンガーにかけ、棚に陳列した。


その夜、店内の空気はいつもより柔らかく、どこか温かい。


まるで朝焼けの台所、焼きたてのパンの香りが漂うような雰囲気だった。


エプロンの近くに立つと、花の刺繍が街灯の光を受けてかすかに輝き、遥の耳に微かな笑い声が響いた。


子どもの声、女性の優しい囁き、そしてオーブンの扉が閉まる音。


振り返っても、店内には誰もいない。


ガラス戸の外では、雨上がりの路地が静かに光っていた。


数日が過ぎるにつれ、エプロンの異変に遥は気づき始めた。


生成りの布地が、夜ごとにわずかに白さを増し、まるで新品のように輝き出すのだ。


花の刺繍は逆に色濃くなり、まるで庭に咲く花のように鮮やかさを増した。


ポケットの小麦粉の匂いも、どこか甘く、懐かしい記憶を呼び起こすように強くなった。


深夜、帳簿を整理していると、エプロンの近くから小さな歌声が聞こえた。


古い童謡だった。


たどたどしく、しかし愛情深く歌う子どもの声に、女性の優しいハミングが重なる。


「もう一度…あの朝を…」


言葉は途切れ、まるで台所の温もりに吸い込まれるように消えた。


遥は息を呑み、エプロンを見た。


花の刺繍が、月光を浴びたように一瞬輝いた。


ある肌寒い秋の夜、店に一人の客が訪れた。


若い女性だった。


肩にかけられたショールは古び、瞳にはどこか遠い記憶を宿したような翳りがあった。


彼女は店内をゆっくりと見回し、奥の棚に真っ直ぐ向かった。


エプロンを手に取ると、彼女の指が花の刺繍をそっと撫でた。


動きは、まるで古い手紙を開くように慎重だった。


「このエプロン…」


彼女の声は小さく、震えていた。


「母さんが…いつも着てた。朝早く、台所でパンを焼くとき。この花、姉貴と私が刺繍したんだ。笑いながら…」


遥は言葉を失った。


女性の背後で、空気が一瞬揺らぎ、小麦粉とバターの匂いが強くなった。


女性はエプロンを胸に抱き、目を閉じた。


「病気だった。母さん、最後まで台所に立とうとしてた。


あの朝、いつもみたいにパンを焼いて、笑って…でも、その日が最後だった。」


彼女の声は涙に濡れ、言葉は途切れた。


「このエプロンだけが、母さんの温もりを覚えてる。」


その瞬間、店内に柔らかな風が吹き抜け、エプロンの布が一瞬だけ震えた。


花の刺繍が、まるで本物の花が揺れるようにかすかな音を立て、静かになった。


女性はエプロンを手に、夜の路地へと去っていった。


ガラス戸が閉まる音が、店内に小さく響いた。


遥は空になったハンガーを眺め、澄の言葉を反芻した。


「この店は、魂が旅立つための場所なの。」


翌朝、棚にはまた新たな服が現れていた。


軍服の上着。


オリーブグリーンの生地は使い込まれ、肩には擦り切れた階級章が縫い付けられている。


ポケットには、かすかに煙草と土の匂いが残り、胸元のボタンには古い傷が刻まれていた。


値札はない。


遥は深く息を吐き、陳列の準備を始めた。


深夜の「時代屋」は、今夜もまた、彷徨う魂を待ち続ける。

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値札のない服:生成りのエプロン をはち @kaginoo8

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