沈む思い出、跳ねる金魚

茶ヤマ

ばしゃん

田舎の実家に戻って、三日目。

梅雨の終わりが近いのに、空はどこまでも湿っぽく、

草むらには重たい雨粒が残り、舗装の隙間に水たまりが点々と広がっていた。


家の中には、父がひとり。

座椅子に腰かけて、テレビもつけず、じっと壁を見ていた。

声をかけても、返事はない。ただ、ときおり唇が微かに動いている。


夕方、気詰まりを感じて裏庭に出ると、雑草の隙間に濁った水たまりができていた。

なんとなく覗きこんだそのとき——


ぴちゃ。


音とともに、水面が揺れ、赤い金魚が跳ねた。


まさか、と思ってもう一度のぞきこむと、水たまりの中に確かに、数匹の金魚が泳いでいた。

水面は浅いのに、奥深く、ずっと下のほうに光が揺れている。

それはまるで、底のない井戸のようだった。


金魚が、また一匹、空に向かって跳ねた。

重力などないかのように、くるりと宙返りし、また水に、音もなく吸いこまれる。


ふと、思い出した。

昔、母が大事にしていた金魚鉢があったことを。

小学校の頃、誤って私が倒してしまい、母は何も言わなかったが、翌日から急に無口になった。


「…見えるのか」


背後で、父の声がした。

いつの間にか、父が私の背後に立っていた。裸足で。


「それ、お前のだな」


声は低く、乾いたようで、どこか…湿っていた。


私の足元。見下ろすと、そこにも水たまりが広がっていた。

先ほどよりも濃く、深く、中で何かがうごめいている。


——金魚の目だ。

何匹もの金魚が、こちらを見上げていた。


突然、ばしゃん!と水が跳ねる音がし、私の両足が沈んだ。

地面のはずなのに、まるで池に膝まで突っ込んだようだった。


「母さんはな、あれに連れていかれたんだ」

父がつぶやく。


「金魚は、最初は、かわいかったんだ…

 母さんは、だからずっとあの金魚を世話してて…


 ある日、跳ねる音がしてな。それっきり」


私の膝に冷たい感触が這い上がる。

まるで、水の中から誰かの指が伸びてくるようだった。


「見たらだめだ。跳ねる音がしても、のぞくな。

 水たまりは、呼ぶんだ。過去のものを。愛したものを。

 そして、それに足をとられたら、戻れない」


父が私の腕をつかみ、ぐいと引き上げる。

次の瞬間、私は地面に尻もちをついていた。


みずたまりは干上がり、金魚も、水も、どこにもなかった。


私は漠然と理解した。

水たまりは…飲み込む。人の心を。

跳ねるように見せて、おいでおいでと、連れていく。


父は静かに立ち去りながら、背を向けて言った。


「思い出なんか、呼び戻すもんじゃない。

 跳ねる音がしたら…耳をふさげ。今度は、間に合わんかもしれん…

 俺がいなくなった時には、どうにもならんだろ」


ーーーーーー


あれから数年。

今でも時折、「ばしゃん」と水の音が耳元ですることがある……。

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沈む思い出、跳ねる金魚 茶ヤマ @ukifune

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