第3話



徐元直じょげんちょくです」



 どうぞ、とすぐに兵が扉を開き招き入れた。

 数歩入ると窓辺の寝台に郭嘉かくかが起き上がり、手元の竹簡を見ている姿があった。

「郭嘉殿、徐庶じょしょ殿がお越しです」

 郭嘉が顔を上げる。


「ありがとう。湯を入れてくれるかな」

「かしこまりました。どうぞ、こちらへ」

 

 徐庶は寝台の側の椅子に座るよう促された。

 郭嘉を見ると彼は常のように、端正な顔に微かな笑みを浮かべて徐庶を見ていた。


 話では【烏桓六道うがんりくどう】に襲われ、相討ちになるかという死傷を腹部に受けたと聞いたが、あれから日にちがそんなに経ってもないのに今は顔色も良く、寝台の背に寄りかかってはいたが背も伸びて、いつもの凜とした空気を取り戻していた。

 聞いていたより、傷は浅かったのだろうかと思うほどである。


 副官が湯を持って来て下がった。

 部屋には留まらず、出て行く音がした。

 常駐している軍医も今は姿が見えない。

 郭嘉が人払いをしたのだろう。


「寒くて申し訳ないね。ずっと雨戸を締めて寝ていたから、暗さにいい加減うんざりして、さっき突然外の光が見たくなって開けてもらった」


「いえ……。私も雪は珍しく、部屋で眺めていましたからお気遣いなく」


「うん。まだ傷が完全に治っていなくて。

 軍医に、自分がいない時に物を口にするなと言われてる。

 だから私に気を遣わずどうぞ」


 断っても仕方が無いことなので「いただきます」と徐庶は湯気の出た椀を一口飲んだ。

 指先に暖を取るために、郭嘉も椀は手の中に持っている。


「君を呼んだのは、聞きたいことがあってね」


 徐庶も実のところ、郭嘉が面会出来るようになるのを待ってはいた。

 司馬懿しばい賈詡かくには謹慎を言い渡されているが、黄巌こうがんのことを探れと郭嘉には言われた。


 それに本陣が【烏桓六道うがんりくどう】に襲撃された時、涼州騎馬隊を連れ、敵を掃討したわけだが、そのことを司馬懿と賈詡が徐庶の軍規違反と見たが、郭嘉は何故か自分の助命をしてくれた。


 そのあたりのことを、はっきり話したいと思っていたのである。

 しかしこの人物の前でまず自分から口を開くのは慎むべきだ。


 普通に考えれば、郭嘉は徐庶などに興味を持たない。つまり、何か明確な意図が無ければこのように呼び出したりはしないはずなのだから。

 だからまずは、彼の言葉を聞かなければならない。


「はい……」


「君は司馬徽しばき門下生だったね」


 徐庶は目を瞬かせた。

 郭嘉は静かに微笑んでいる。


「……司馬徽先生にはお世話になったことがあります」

「【水鏡荘すいきょうそう】という学び舎に身を置いたことがあるんだろう?」

「確かにいました。しかしこれは司馬懿殿にもお話しましたが、私のあの様子を立派な門下生と呼んでいいものかは……」


「賈詡将軍から聞いたよ。

 君は【臥龍がりゅう】と【鳳雛ほうすう】と会ったことがあると」


 徐庶は一瞬視線を外した。逡巡するような仕草だ。


「【鳳雛】について私に教えてくれないかな」


「郭嘉殿。二人は司馬徽先生の愛弟子で、当時お尋ね者だった私が親しく出来るような相手では……」


「でも会ったことのない私よりは知っているはずだ」


 徐庶は郭嘉を見た。

 彼は穏やかな話し方をするが、噂通りの怜悧な感性も所々に見せてくることがあった。

 恐らくこれ以上拒んで郭嘉の機嫌を損ねても、自分に何も喜ばしいことは起きないと思い徐庶は諦めた。


「分かりました。大したことは分からないと思いますが、私が知っていることならお話しします」


「ありがとう」


 徐庶は曹操とも話したことがある。

 曹操そうそうも話す時は穏やかに話す男だが、あと一つ何か彼らの気に障れば一気に吹き出す、激しい感情の気配のようなものを感じることがあった。


 普段彼らはそういった激情を飲み込み、飼い慣らして生きている。

 才や力を見せることで相手に尊重させ、自分の意にそぐわないことを行い、そういった激しい感情に気安く触らせないように、そう仕向けているが。


(愚か者が彼らのそれに触れる)


 もしくは。

 ……自分のように気概の無い者が。


「何故【鳳雛ほうすう】に興味を持たれるのか、伺ってもよろしいですか」


「いいけど。特に大した理由は無い。

 探らせていた【剄門山けいもんさん】の戦いの詳細が届いてね。私は今出歩けないので、寝たきりになっていて退屈するとろくなことをしないからと、賈詡将軍がその仔細を記した竹簡を置いていってくれたんだ。読んでみて、少し彼の人となりが気になったから」


 郭嘉が竹簡の一つを指差したので、徐庶がそちらを見る。


「……よろしければ、私も読ませていただいてもいいでしょうか?」


 郭嘉は徐庶を見た。

 徐庶は視線を俯かせる。


「…………彼の最後を、あまり知らないので」


 数秒後、郭嘉が頷く。

 竹簡を取って徐庶に手渡した。


「構わないよ。貴方も今は、魏の軍師だ」

「……。」


 徐庶は受け取って、竹簡を広げた。

 郭嘉は目を通す徐庶の表情を見てはいたが、最初から最後まで特に目ぼしい感情の変化は見られなかった。


「彼と話したことはある?」


「取り留めもなくは」

諸葛亮しょかつりょうとも君は話したことがあるのかな」

「はい。どちらかというと、諸葛亮との方が話した会話は多いかもしれません」


「確か【臥龍】と【鳳雛】の名は司馬徽しばき殿が名付けたとか。

 水鏡荘すいきょうそうは才人や名門の子弟も名を連ねる。

 彼ら以外にも優秀な人材はいたはずだ。

 何故司馬徽殿は二人を対のように名付けたのだろう。

 二人だけが抜きん出ていたからかい?」


「それもあると思いますが、優れているというそれ自体より、異質なところが似ていたのではないかと」


 郭嘉が椀を置き、興味を持ったように腕を組んで、徐庶の方を見た。


「なるほど。優れてるだけではなく、異質な才か」


「そのように思います」

「彼らは昔からの同門?」

「司馬徽先生は昔から二人をご存知だったようです」

「では二人は仲が良かったのかな?」

「それが……、先生の話では、二人はお互いを知っていたようですが実際会ったことは一度も無かったと聞いています」


 郭嘉は目を瞬かせる。


「でも君は二人に【水鏡荘】で会ってるんだよね?」

「はい。けれど私も二人を同時に見たことは一度もありません。

 これは先生から説明を受けたのですが、なんでも二人は星詠譜せいえいふにおいて非常に縁の深い関係なのだとか。

 司馬徽先生はどちらかというと縁などに拘らない広く物事を視る方でしたが、この二人は世にも稀な宿縁しゅくえんにあったそうです」


「どういった宿縁なの?」


「私もさほど、星詠ほしよみは詳しくないのですが……確か、星の系譜においても臥龍と鳳雛は【ついの星】なのだとか。

 天と地のわだちは歪むことが正しいらしく、宿星しゅくせいが近ければ近いほど、地上での姿や年齢はずれているそうです。

 地上の人間が性格で似ていたり、双子のように血が元で姿が似ているのとは少し違うと聞きました。

 その言葉の通り、諸葛孔明しょかつこうめい龐士元ほうしげんも、姿も年齢も異なっています。

 二人の正確な年齢は覚えていませんが、八つ離れていることだけは覚えています。

 完全なる世界を構成する数字なので【対の星】は必ず八歳違いで生まれて来るのだとか」


「【八門遁甲はちもんとんこう】だ」


 郭嘉が瞳を輝かせると、その時は徐庶も小さく笑んで頷く。


司馬徽しばき先生は、二人はお互いに会ったことはないが、手を取るように互いを理解していると言っていました」


「星詠みの話は昔、興味を持ってある人と語らったことがあるよ。

 病などで星を見る暇も無くなり、それ以後随分怠けてしまったけどね。

 天海図てんかいずと地上を照らし合わせ、季節、吉兆、凶兆、地報ちほう水報すいほう空報くうほう人報じんほう稀報きほうの八つから膨大な情報を収集し、未来を占う。

 古の王の時代は【星詠宮せいえいぐう】が存在し、星詠師せいえいしはその詠み解きのためだけに宮殿の中で一生を終える風習があったとされる」


 郭奉孝かくほうこうは多彩な才を持つ異能だと聞いていたが、凡人ならば理解するのさえ苦労する、臥龍と鳳雛――その【ついの星】の意味を、瞬く間に理解したらしい。


 徐庶は思わず息を飲んだ。


「【対の星】は歴史においても非常に稀な存在だと私も聞いたことがある。

 王の左右を飾るほどの才だ。

 だけどあくまで彼らは補佐の星。

 対になれば万物に対して強い守りを発揮するが、互いに王や主にだけはなれない宿星とも言われている。王は二人いては、争いになるからね」


 郭嘉は少し考え込む仕草を見せた。

 

「――龐統ほうとうが最初に呉に仕官した理由を知っているか?」


 徐庶の表情に感情が出た。

「彼は蜀に行ったと司馬懿しばい殿から聞きましたが……」

「いや。蜀に行く前に呉で任官を受けている。全く大した役職ではないけれどね。

 何故か呉は龐統を全く重用しなかったらしい。

 対する【臥龍がりゅう】は最初から、国を持っていない劉備の許に行っている。

 これも天と地の正しい歪みというものかな?」


「……さぁ……龐士元ほうしげんは……。私には、あまり国に拘る男には見えませんでしたが……」


 いつもどこかから来て、どこかへ帰って行った。


 迎える者がいなそうなのに、まるで待っている者がいるかのように帰って行ったのだ。

 徐庶は行き場所がなく【水鏡荘すいきょうそう】に住み着いていたが、龐統が根本的に徐庶と違うのはそこだった。


 ああ見えて、どこかに家族がいるのかもしれない。

 きっと妻が大層怖い女で、喧嘩をするたびにここへ逃げてきているのではないかなどと仲間内でふざけたことを言って笑っていたこともある。


「【剄門山けいもんさん】の戦いを君はどう見る?」


 郭嘉が尋ねて来た。

 徐庶は手元の書簡に視線を落とす。

 正直なところ、衝撃を受けた。


 どんな思いで、あの男が戦場で死んだのだろうと考えていたからだ。


 初めて詳細を知った。

 蜀軍が【剄門山】に派兵せず、龐統も兵士達を逃がしていたとは。

 何故あの男が、そんな実りの無い戦で死んだのかが分からない。

 

 趙雲ちょううんが、龐統の死に劉備が悲嘆に暮れていると言っていたわけが、これを見て初めて分かった。


「……、」


「言葉もないか。そうだろうね。私もそんなところだ。

 だけど私は自分の中に信じる所がある。

 才ある人間は必ず何か、自分の立つ戦場に見い出せるものだ」


 徐庶は郭嘉を見た。

 郭嘉の方は徐庶ではなく、外の舞い散る雪を見ている。

 

「あるべき所に戦局を開き、

 無いならば無からでも生み出す」


 開いていた手を、ゆっくりと握りしめる。


「【臥龍】と【鳳雛】。それほどまでに呼ばれる軍師ならそう出来るはずだ。

 諸葛亮しょかつりょうは国を持たない劉備の許に馳せ参じ、国を持たせた。

 ならば【対の星】である龐士元ほうしげんも必ず何かを残したはず」


 その時郭嘉の脳裏に、かつての遼東りょうとう遠征の途上、曹操と凍える星空を見上げた景色が鮮やかに蘇って来た。

 

 死に近づくような行軍だった。


 必要だったと信じ抜いているから、やるべきではなかったとは一度も思ったことが無い。


 ただ主君たる曹操を伴うべきではなかったし、

 あの圧倒的な、歴史を越えてきた満天の星の夜を、

 安易にこれからも越えていけるだろうなどと考えるべきでは無かった。


 どんなに若くても、

 重病に倒れればそこで死ぬ。


 あの旅路で、郭嘉は凡人ならば老年になってからふとある日気付くほどの、命が続くことの尊さを学んだのだ。


 侵攻途上の村は全て略奪し、焼き払った。

 その所業は【烏桓六道うがんりくどう】に、滅びの際まで郭嘉を憎ませ呪わせるほどの傷を与えた。


 無意識に、腹の傷に手を当てる。

 痛みは完全に消えることもなく、あの日から常に郭嘉に取り憑いていた。

 ようやく痛みを忘れて眠っても、眠りから覚めると口の中に血の味がする。

 痛みと血の匂いが、まるで一生取れないのではないかと錯覚するほど、執拗に纏い付く。


 だが郭嘉はそんなものにはもう慣れた。


 生か死なら、

 安からずの生でも、しがみついてみせる。


 殺して、燃やし尽くしたが、

 


 ……あれは命の価値を知るための旅だったのだ。



 その帰還の途上倒れ、

 死ぬはずだった。


 あれで死んでいたら【郭奉孝かくほうこう】の名が一体いくつ、

 わびしく数えるほどこの世に残ったのだろう?


 

(だけど優れた軍師なら、例えたった一度きりの戦場でも鮮烈な何かを残せる)



 一度与えられた機会でも。


 江陵こうりょう


 やはりどうしても【剄門山けいもんさん】を一度この目で見ておきたい。


 郭嘉は心に決めた。

 司馬懿しばいと話さなければならない。

 そして曹子桓そうしかんともだ。


「君から見て、諸葛孔明しょかつこうめい龐士元ほうしげんはどのように違った?」


「……私には……見かけ以上の違いは探せませんでした。

 それどころか彼らは非常に似ていたと感じます。

 その場にいれば誰しもが分かる才能を持ちながら泰然として、何かを待っているかのような所があった」


「そう……でもそれでは誰しもが分かる龐士元の才覚を、孫呉は見逃したことになる。

 若い孫権そんけんはともかくとして、あの国には周公瑾しゅうこうきんがいた。

 彼は袁術えんじゅつの許から独立したばかりの、力も領地も持たない孫伯符そんはくふの許に迷わず駆けつけたほどの男だ。

 劉備の許に馳せ参じた【臥龍】と同じだよ。

 彼らは自分のいるべき場所が最初から分かる。

 例えその時はその居場所が荒れ果て、豪雨に飲み込まれていて、到底人が住めるような場所に見えなくても彼らは決して見誤ったりしない」


 そうだ。


 自分も確かに曹操に会った時、

 戦場に初めて同行したとき、

 自分の居場所はここだと強く感じた。



「もしそうなら……」



 龐士元が呉にいたことに大した意味は無い。


 ――郭嘉はそう読んだ。


 龐統が蜀に流れたことと、周瑜が龐統を重用しなかったこと、

 その鮮烈な二つの事実がまさに、そのことをどちらも示していた。


 龐統の目的の地は蜀だ。


 最初からそこへ行かなかったことが、星詠譜せいえいふにおいては正しき歪みと言うべき兆しなのだろう。


 正しき場所へ羽ばたき、降り立ったはずの【鳳雛ほうすう】が、

剄門山けいもんさん】の戦いで、何もせずに死んだ。



(つまり、あの地になにか深い意味がある)



 考え込んでいた郭嘉はふと、忘れていた徐庶の存在を思い出した。


 彼も、国を持たない頃の劉備の許に馳せ参じた。

 だが【臥龍】と違って徐庶は去った。

 母親の為という、呆れるほど凡庸な理由でだ。

 曹操が徐庶の母を洛陽に連れて行ったところで、馬鹿ではない限り殺したりしないことは分かる。

 徐庶もそれは理解しただろうが、

 徐庶は先を読み、自分の未来に絶望した。

 劉備の許で曹魏と対峙するたび、母を想い嘆く自分自身の運命に。


(だがそれは弱さだ)


 郭嘉の母は出産で亡くなっている。

 だから母親の記憶が無い。

 しかし周囲の人間を見ていれば、母親の大事さは理解出来る。

 他人事であってもだ。

 だから自分に母が無いからといって「母など」というつもりは毛頭無い。


(しかしいても、私は顧みないだろう)


 曹操の許に自分がいるならば母や、父や、他の血縁者が、例えこの世のどこにいようと、自分の行動に変わりは無い。


 呉の幕僚には諸葛姓がいたはずだ。諸葛亮の近しい親族だったはず。

 だが諸葛亮もやはり顧みない。

 そして周瑜の周家は名門で、江東でも袁家に及ぶほどの格があった。

 孫策が袁術の許から離れた時、周瑜が下手な動きをすれば家の危機になっただろう。


 ――それでも動いた。それが周公瑾という男なのだ。


 徐庶は何も捨てられず、それが己の弱さになっている。

 心を決めて母のいる曹魏にやって来たのに、曹操に対して、劉備のいる戦場には出ないなどと言った。


 賈詡が、その時のことで荀文若じゅんぶんじゃくが怒りを露わにしていたと郭嘉はいつだったか聞いた。

 荀彧じゅんいくが激しい怒りを露わにするなど非常に珍しいことだったので不思議に思っていたが、今になると何故荀彧がそれほど怒ったのか手に取るように分かる。


 その心の弱さ、

 曹操が気に懸ける価値も無いことが分かったから怒ったのだ。

 怒らなかった曹操の代わりに。



 郭嘉の心から、優しい気持ちが不意に消えた。



龐統ほうとうのことはよく分かったよ。

 ありがとう」


「いえ……」


「もし他にも何か二人のことで思い出すようなことがあったら、いつでもいい。

 教えてくれたら助かるよ」


「はい」


「賈詡などは細心だから、君の行動が読めないような所は警戒しているようだけど、私は君には割と感謝してるんだよ。

 私が敵を招き入れた本陣でも、動けなかった陸議りくぎ君を救ってくれたと聞いた。

 知ってると思うけど私は陸佳珠りくかじゅ殿にとても興味があるから、あんな所でたった一人の弟君を死なせて、彼女に泣かれて口説く前から嫌われてしまうのはとても困るんだ。だからありがとう」


「いえ……あの……はい。それは、良かったです」


「冗談で言ってると思ってるのかな? そんなことはない。

 私は長安ちょうあんに寄って殿に会った時、側近の夏侯惇かこうとん将軍に病気も癒えたんだからそろそろちゃんと妻帯しろと説教されて、これでもかなり今、真剣に求婚する相手を選んでる時期だ。

 もし陸佳珠りくかじゅ殿に会って、とてつもなく惹かれたら求婚するかもしれない。

 彼女にはまだ私は会ってもないのに、なんと妹が一足早くお世話になったらしいし。

 そういうのはとても私は珍しいんだ。

 特別な縁が彼女とはあるのかも。

 ということで、もし私が彼女に求婚して頷いて貰ったら陸議君はたちまち私の義理の弟ということになる。とても大切な人になるということだ」


「はい、それは……確かに……その通りです」


 そんなことを言ったらその辺にいる人みんな義理の弟になる可能性があるぞと思いつつ、郭嘉の瞳の輝きに押されて、徐庶はひたすら大人しく頷いた。


「だから君には本当にお礼をしたいんだよ」

「いえ……」


「望むものは? 今はこんな状態で歩くことも出来ないけど。

 傷が治ったら君の望みを何か叶えるよ。

 私に出来ることならね。


 ――そうだ。


 君の友達の馬岱ばたい君にも何かしてあげたいな」



 徐庶が息を飲んで郭嘉を見た。


 瞬間的に郭嘉が目をすがめる。

 その表情に徐庶はすぐに察したようだ。視線を落とす。


 だが遅い。


 郭嘉は側の竹簡を手に掴むと、それで徐庶の肩を二発、軽く叩いた。



「こんな子供騙しに引っかかるなんて君は三流軍師だ」



 本当に子供を咎めるような優しい声で郭嘉が言った。

 だがその瞳には強い、剣呑な色があった。


馬岱ばたいだから許せるが。

 これが今の君で、今の曹魏で、

 君が敵の軍師に鎌を掛けられたくらいで、

 魏軍に関わる私の大切な人を容易く窮地に追い込んだと思ったら、無性に腹が立つ」


「郭嘉殿、」

 

 思わず徐庶が立ち上がる。

 郭嘉は何も言わなくていい、と手で制した。


「彼は……黄風雅こうふうがは本当に【烏桓六道うがんりくどう】とは関わりがありません。

 確かに貴方の実家の潁川えいせんには行きました。

 しかし商隊の護衛の任で、風雅はあれが誰の屋敷かも分からなかったそうです。

 彼らと共に行動していた【烏桓六道】は復讐の道を捨てて、新しい人生を生きようとしていた!」



「――だが復讐の道に戻っただろう。」



 郭嘉の気配が明らかに変わった。

 抜き身の刃のような気配だ。


 恐らくこれが病に倒れる前に見せていた、曹操の側で神童と呼ばれ、あの遼東りょうとう遠征の指揮を十代の若さで任された郭奉孝の才気なのだろう。

 

 徐庶は気圧された。


「それは……、……しかし、風雅ふうがは貴方の暗殺にも、その狙いにも関わっていません!」


「……安心していい。徐庶君。

 私はね、自分の命を狙う者の正体がひたすら知りたかっただけなんだ。

 姿の見えない敵に五年間、自分が起き上がれもしない状況で狙われる気持ちが君に分かるか?

 弱い人間なら恐怖に負けてとっくに自刃を選んでただろう。

 私は強い人間だから、憎しみを覚えた。

 怒りは人を強くするんだ。


 ――徐庶。


 君も一度くらい、本気で誰かに怒ってみればいい。


 そうすれば君も失う怯えばかりに四肢を縛られるだけじゃない、

 違う己の境地が見えて来るよ。

 

 私は今更【烏桓うがん】に憎しみなんかない。

 したがって黄風雅こうふうがが【烏桓】に通じていようが通じていまいが、正直今となってはどうでもいいんだ。

 だから何か君に関連付けて彼をどうこうしようなどと一切考えてないから、全く気に病まないでいいよ。

 私が今後彼に何かをするとしたら【烏桓六道】に狙われたなどとは全く関わりの無い、私個人の事情など無関係の理由でだ」



「郭嘉殿!」



 徐庶が思わず声を上げたので、扉が開いた。

 副官がこちらを見ている。

 郭嘉は振り返って微笑んだ。


「大丈夫だ。何でもない。

 私の聞きたかったこと、全てに徐庶殿は丁寧に答えてくれた。

 悪いけれど部屋まで彼を送ってくれるかな。

 動ければ私がそうするのだけど」


「かしこまりました。どうぞこちらへ」


 徐庶は押し黙った。


「徐庶君」


 呼び止められたが、徐庶は立ち止まっただけで振り返らなかった。

 振り返った所でそこには徐庶の言葉など何一つ聞く気のない郭嘉の輝く双眸があるだけだからだ。


「陸議君の怪我は大丈夫かな?

 見舞いに行きたいけど、賈詡から固く禁じられているから見舞えなくて」


「……。腕の深い傷以外は、驚くほど元気にしておられます。

 司馬孚しばふ殿が側にいつもいるので……笑顔もよく見ます」


「そう。良かった」


 郭嘉は頷いた。

 徐庶は背を向けたまま一礼し、部屋を出て行った。

 しばらくして軍医が入って来る。


「賈詡将軍に伝えてほしい。

 黄風雅こうふうがの見張りを増やしてくれと。

 誰も近づけるな」


「すぐに伝えます」


 軍医は部屋の外にいる兵に、そのまま伝えた。


 郭嘉は傷を警戒しながら寝台に深く沈んだ。

 目を閉じる。

 数秒で、彼は徐元直じょげんちょくのことを忘れた。


 早く怪我を治し【剄門山けいもんさん】を見に行きたいとそれだけを思う。



(【鳳雛ほうすう】は必ずこの世に何かを残したはずだ)



 郭嘉の中でそれは予想ではない。


 確信だった。




【終】

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花天月地【第81話 鳳凰の影】 七海ポルカ @reeeeeen13

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