第9話
体が温まってきたので、それぞれの寝所にようやく戻る気になった。
回廊を歩きながら、分かれ道で「おやすみなさい」と挨拶を交わして別れると、数歩歩いたところで呼び止められた。
「
郭嘉殿が私の屋敷に来ました。
差し向けたのは無論、曹操殿だとは思いますが。
――『死んでは駄目だ』と声を掛けていただきました」
荀攸は振り返って息を飲んだ。
荀彧は小さな燭台を手にし、静かに微笑んでいる。
「誰に何を言われても耳を通らなかったと思いますが……。
さすがに郭嘉殿にそう言われて、冷静さを少し取り戻せた。
【
光や、生きるために必要な強い残照を、あの方は持ってるように思います」
荀彧が一礼し、ゆっくりと去って行った。
郭嘉が荀彧にそんな言葉を掛けていたとは知らなかった。
曹操の側近達も、曹操と荀彧二人だけの話であり、立ち入れないような空気を感じ取っていたからだ。
……もし、郭嘉がそういう言葉を掛けていなかったらどうなっていたのだろう?
今の荀彧の優しい表情。
死ぬつもりだったのだろうか。
温まったはずの体が、少し寒くなった。
一度立ち止まり、回廊から庭を覗くように天を見上げた。
冬の星が瞬いている。
「…………美しい輝きだな……」
無意識に呟いていた。
郭嘉も遠い涼州の地で、この星を見上げているだろうか?
しばらく眺め、寝所に戻る。
横になり目を閉じるとあの春の花が咲く、美しい庭を思い出す。
幼い頃の郭嘉を。
流れる星が見たいと待ちわびて、凍えるような冬の庭で見上げているうちに、自分の膝に凭れて眠ってしまう郭嘉を抱えて寝床にいつも連れて行った。
彼を寝かせると少しの間だけその幼い寝顔を眺めて――そうしていると不思議な安堵を感じた。
その時は分からなかったが、あれが幸福感というものだったのだろう。
凡庸だった自分の人生が、
董卓というあの怪物に出会った時に変わり、
命すら投げ打って、殺さなければならないと思った。
それが露見し投獄され、
痛みと苦しみだけが与えられた時、
これまでの人生で苦しかったことなど、痛みでも何でも無かったのだと分かった。
本当の苦しみを知った。
地獄のような闇の場所に落ちて、
全てを諦めた先に、
あの場所に巡り会った。
全ては
死の底から、
天上の花園まで、
……全ては繋がっていたのだと思えば、
何度も悪夢に見るあの雨の日の出来事が、
美しい花の記憶に覆われ、
やがて高い天の、冬の星空を見上げる一人の少年の姿へと続いていく。
寒そうな白い吐息が祈りのように天に溶けて行く姿を。
永遠に見ていたいと思うような、あの場所での最初で最後の冬のことだった。
再び眠りについた荀攸は、
その日はもう魘されることはなかった。
【終】
花天月地【第76話 流星を待つ】 七海ポルカ @reeeeeen13
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