第12話《ヴィーナスの誕生》

1 女神の姿


 展示室に足を踏み入れた瞬間、玲奈は光に包まれた。

 そこには海から立ち上がる女神の姿。ティツィアーノ派の《ヴィーナスの誕生》だった。


 波間から立ち上がる裸身の女神。豊満な肢体、黄金の髪が風に舞い、滴る水滴が雫となって肌を滑り落ちていく。背景の空は明るく澄み、泡がきらめいていた。


 玲奈は息を呑んだ。

「……失われても、雫は残る」


 悠馬が隣で眉をひそめる。

「雫?」

「そう。海に溶ける水は消えるけど、雫は女神の存在を証明する。生まれた瞬間を語る証拠なの」



2 ティツィアーノ派の解説


 玲奈は声を整えて解説を始めた。

「《ヴィーナスの誕生》といえばボッティチェリの方が有名。でもティツィアーノ派は違う。彼らは理想化された線より、肉感と写実を重視した。女神は象徴じゃなく、生身の存在として立ち現れるの」


 悠馬は腕を組んで絵を見つめた。「確かに……こっちは柔らかい幻想じゃなく、触れられそうな体だな」


「その身体を彩るのが光と雫よ。滴は小さいけど、確かに“ここに生まれた”という証拠を残す。誕生は後から証明されるもの。雫があるから、起点を知れるの」


 玲奈は画面に描かれた泡を指差した。

「ほら、泡の粒子ひとつひとつに光が宿ってる。ティツィアーノ派は雫を“始まりの証人”として描いたのよ」



3 報告書の雫


 資料室に戻った玲奈は、兄の事故現場の写真を改めて広げた。

 何度も見返したはずなのに、今回は違うものが目に入った。


「……ここ。靴跡の横に、小さな液体痕がある」

 玲奈の指が震えた。


 悠馬は覗き込み、静かに頷いた。

「乾いて黒ずんでるな。飲料か血か……少なくとも“報告書には書かれてない”」


「つまり、消しきれなかった雫」玲奈は声を強めた。「兄の死の夜、第三者がいた証拠よ」



4 雫の解釈


 悠馬はメモを取りながら言った。

「雫は小さいが、時間を語る。乾き方、付着の角度で逆算できる。もし現場保存が正しく行われていたなら、雫の状態は“事故時刻”と一致しない可能性がある」


 玲奈は拳を握った。

「つまり、均衡を守るために“上塗りされた時刻”と、本当の時刻がずれてる」


 悠馬は小さく笑った。「カードの塔と同じだ。どんなに体裁を積み上げても、小さな雫ひとつで崩れる」



5 感情の揺らぎ


 玲奈の胸に熱いものがこみ上げた。

「兄は最後まで痕跡を残そうとした。消されても、雫だけは残るように」


 目に涙が滲み、頬を伝った。玲奈は慌てて拭ったが、悠馬が静かに言った。

「その涙も雫だ。証拠になる」


 玲奈は息をのんだ。

「……そうね。感情も雫。失われない」


 その言葉に、自分自身を支える力が生まれた。



6 次の扉


 展示室を出ると、次の案内パネルが現れた。

 ベリーニ《聖フランチェスコ》。


 岩山に立つ聖人。天空から光が降り注ぎ、だが背後にも別の光源がある。

 大地と天を結ぶ二重の光。


 悠馬が目を細めた。

「雫は光を受けて輝く。でも光源が二つあれば、影も二重になる」


 玲奈は呟いた。

「二重の光源……つまり、ふたつの視点があった?」


 二人の胸に新たな謎が芽生える。

 次なる舞台は《聖フランチェスコ》。均衡を崩す雫の証言は、光によってさらに拡大するのだろうか。



作者コメント


ここまでお読みいただき、ありがとうございます!

第12話ではティツィアーノヴィーナスの誕生を通して、「雫=失われても残る痕跡」を描きました。

兄の死の夜にも、必ず残された雫がある。体裁は崩れても、その痕跡は真実を指し示します。


次回はベリーニ《聖フランチェスコ》。

二重の光源が生む影は、真実の二重性を告げるのか。どうぞご期待ください。


湊マチ

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毎朝9時更新『キャンバスに眠る暗号 ― 名画ミステリー連作』 湊 マチ @minatomachi

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