図書館の丘

あぼがど

図書館の丘

 その頃、前線では奇妙なうわさが広まっていた。上級将校は関知せず、ただ下士官兵の間でだけささやかれる、それは図書館についてのうわさだった。


「増援に派遣される短躯タンクは1個小隊と聞いていたが」

 中隊長は憤懣を隠しもせずに連隊本部から派遣された作戦参謀に詰め寄った。

「それが僅か1両では話にならん。おまけに乗員は小娘ではないか。上は本気でこの作戦に勝つつもりがあるのか」

 短躯。今次戦役で初めて導入された新兵器である。人の背丈の倍はあろうかという円筒形の胴体から2本の脚が生える姿は、歩く水桶のようにも見える。円筒の上部には重機関銃を備えた、1人乗りの装甲突撃筐体。

 その威力も戦訓もまだ不明瞭な短躯の乗員には小柄な者が選抜されていたが、参謀と共に中隊一同の前に現れた短躯から降りてきたのは、つい先日訓練学校を出たばかりのような面皰ニキビ面の女兵士だった。

 周囲を取り巻く兵隊のなかには、軽口を叩く者とていない。むしろ短躯とその乗り手が浴びせられていたのは無言の呪詛と怒りである。

 歩兵中隊が要地を攻撃するに当たり、支援に短躯が付くというのはおよそ喜べるような話ではない。中隊自身が持つ戦力では攻略し難い目標が定められていることを意味するからだ。

 それだけ危険な任務に臨む折に約束された支援が空手形とくれば、呪詛も怒りも当然支援者たる部外者よそものに向く。中隊長が殊更参謀に向かって楯突くのは、兵隊の意識を目の前の短躯から別の相手に逸らすための方便とも言えた。疫病神が部隊の中に居座られては困るのだ。

 さりとて如何に憤懣を述べようとも、状況が改善されるわけもない。そんなことは全員が承知していた。承知のうえで形ばかりの抗議を示し、部下への面目を保つ。三文芝居の観客は短躯の傍らで独り、どこにも焦点を結ばぬ目を向けていた。ただ諦観だけが、空気を支配していた。

 所詮、完全に編制の充足した部隊などどこにもありはしない。編制表の上から下まで「欠」の一文字が並んでいるのが戦時下である。短躯1個小隊但し3両欠。と言われれば、それはただ1両の短躯ではなく3両が欠けた1個小隊なのである。

 軍隊とはそのような論理で動くひとつの機構である。現場の歯車がいくら軋みを上げたところで、巨大な機構を止められるものでは無い。この場に居合わせた誰にとっても不幸だという意味では、極めて平等で公平な状況ではあった。

――例え貴隊に与うる支援が限られていようとも、本作戦は当該戦区のみならず戦線全体で発起される一大攻勢である。両翼の部隊とも能く連携し乾坤一擲の武威を以て作戦目的の完遂を期待する。以上。

 参謀は予め用意された原稿を暗唱するかのように早口で宣うと、風を食って側車サイドカーに飛び乗り、一目散に後方へと避退した。あれではただの街頭弁士だな。などと中隊長はこれ見よがしに口に出し、市街地の廃墟に集まった兵隊の中には短躯とその乗員だけが取り残された。

「短躯は第3小隊に配属とする。行動計画の打合せに各小隊長と共に残れ。他は解散」

 第3小隊は数週間前の戦闘で小隊長を失っていた。未だ将校の補充は無く、現在は小隊軍曹が臨時に指揮を代行している。ここでも「欠」が戦場を支配し人を差配していた。

 明日払暁を期した作戦発起に関する短い会合を終え、部隊長達は行動計画を持って各々の幕舎へと戻る。猪首で大柄な第3小隊長(代理)の後を、短躯が続く。鳥脚の逆関節で覚束なく歩く姿は大型の鳥類の様にも見えたが、たとえ鳥が短躯の歩みを目にしても、自分たちの同類だなどとは、決して思わなかっただろう。


 第3小隊は中隊の中でもとりわけ雑多な構成の部隊だった。正規の編制からあぶれた者たちを、掃き溜めに寄せ集めたような集団である。欠員の補充は常に後回しにされ定数割れが常態化していた。

 反面、中隊が入手した員数外の鹵獲火器等はこの隊に優先的に回され、火力発揮や遊撃任務には重宝される一群でもあった。中隊長がここに短躯を配属するのも自然な成り行きではあり、要は隊内に於ける便利屋である。

 帰隊した軍曹は小隊一同を集めて作戦計画の詳細を詰めた。短躯乗員の少女もひとの環の端に所在無く加わる。誰かが市街地図を取り出し(これとて作戦行動中に入手した戦利品であった)、軍曹の太い指が要所と侵攻手順を示す。

 「工場」「市場」「集合住宅」などと紙の上に書かれた名称をなぞるも、長く膠着した市街戦を経た現在、そこには廃墟と瓦礫の山があるだけで、地図に描かれた街路が即ちそのように伸びている訳でもない。

 それでも、長くこの街で戦い、生き延びてきた兵士達には、地図上の表記と実際の地勢との差異を加味して各々の立ち居振舞いを考えることが出来た。考えたところで生きられる訳では無いが、考えの無い者は死ぬ。それが常である。

 しかし部外者にはわからぬ話である。小隊長会議では石像のように無言だった短躯乗員が、流石に声を上げた。

「い、意見具申であります……」口から出た言葉がそのまま内に籠るような弱弱しい声である。それでも一同は少女に目を向けた。

「こ、こちらの丘に短躯を上げれば、我経路上を側面から援護し敵陣と予想し得る地点に制圧射撃を加えることが可能であります」教本から抜き出したような定石を、教本を棒読みするかのように述べる。

「こ、この『図書館』の丘に」

 遠慮がちに小さな指が置かれたのは丁度両軍支配地域の境界線上に位置する高地であった。そこには確かに「図書館」と書かれた建物があり、小隊の進撃経路はこの丘を右側面に見て通過するように計画されていた。

 兵士たちは無言のまま目配せし、無言のまま軍曹を見た。軍曹は眉間に皺を寄せた不機嫌な顔で、唸るように短躯乗りに告げた。

「却下だ。その高地の地勢については考慮するな。短躯は小隊に追随して前進しろ」

 納得のいかない顔を睨んで黙らせ、強引に話を戻す。計画は立てられ各自時計を合わせると突撃発起時間までは小休止である。三々五々、兵士たちは各自の持ち場に帰った。


 炊事班から受け取った粥を飯盒に抱えて軍曹が戻ってくると、短躯の脚にもたれて一人膝を抱える少女の姿が目にとまった。盛られた粥に手を付けた様子もない。

「どうした、食欲が無いか。食っておかんと明日の行動にも差し障るぞ」慌てて立ち上がろうとする様を制すると、そのまま横に座り込む。「お前、名は何という」名など聞いてもどうなるものでもないとは、分かっていたが。

「アデ、です、あります」やや訛りのある声で少女は答えた。「伍勤を拝命しております」

 伍長勤務上等兵か。下士官教育すら受けていない者を単独で寄越すとは、人材枯渇どころの話ではない。あるいは最初から使い潰す程度の人員、その程度の作戦やも知れぬ。中隊の攻勢は作戦全体の中では陽動か、もしくは敵の反撃を誘引して別途攻勢を行うための、

「餌かも知れんな……」「なにか?」「いや」

 メシがな、とはぐらかす。「俺はガヴル軍曹だ。別に名前は覚えんでいいから飯は食え。不味くても食っておけ」そんなことありません。ごはん、おいしいですよ。とアデ上等兵は応える。でも、

「以前、砲弾でお腹が裂けちゃった子を見たことあるんです。直前に食べてたものが全部撒き散らされちゃって、かわいそうですた」

 アデは虚ろな目を夜空に向けて言った。

「あげなふうになるのは嫌だなって」

 戦場ならどこでも転がっている話で、新兵なら誰でも抱える悩みではある。例えどれほどありふれていても、個人にとっては唯一無二の問題であることも、それもまた普遍的であった。

「前にな」戦場で長く生きれば色々なものを見聞きし色々なものを知り得る。下士官とはそういう生き物だ。ガヴルは続けた。

「女房の手作りだとか言うジャムを後生大事に抱えてたヤツがいたよ。必ず生き残びて祝いに食べるんだとかで腰に抱えて突撃したら、まああっさり死んだな。ジャムの瓶は大勢に踏まれて割れて、ただ無駄になった」「……なんですかそれ」「なんだろうなあ」

 考えてみればこの話には何らの教訓も美徳も、一切含まれていなかった。戦場の実相とは得てしてそのようなものではある。

「腹が膨れようが減っていようが、死ぬ時には死ぬのが兵隊ってもんだ。どうせ死んだらその先は嫌も応も何もないんだから、目の前に美味いものがありゃ、さっさと食っておきな」「はぁ……」

 分かったような分からないような顔で、アデはもそもそと粥を食べ始めた。

「さっきな、」ガヴルも飯盒を抱えてガツガツとかき込みながら話を続ける。

「お前、図書館の丘に短躯を上げようとか言ったろう」「軍曹殿が却下したじゃありませんけ」丸い顔がさらに膨らむ。地が出ているのは良いことなのだろう。

「あれな、禁忌タブーなんだよ」「たぶー?」部外者には知らぬ事である。さりとて不確かな話を不用意に拡散されてもよくはない。どうしたものかな、とガヴルは思う。

「呪いとか祟りとか、兵隊が近づくと死ぬとか……うわさがあってな」ああ、これが良いか。

「あの図書館は戦争のはじめの頃に空襲を受けたんだがな、何故かその時空に純白の天使が現われて、爆撃機に矢を射かけたってうわさがあるんだ」「なに言ってんでがすか軍曹どん」呆れた顔でアデが見ていた。

「おとぎ話じゃあるまいし、天使なんていませんよ」「昔はいたんだよ」ヒヒっと、はじめてアデは年相応な笑みを見せた。

「ほんとに天使がいたらええでしょうね。戦争だって終わらせてくれるでがしょ」果たしてそうだろうか?地を這う者に天上人の道理は分からぬ。

「ともかく、あそこには近づくなよ。得てしてうわさってのは、どこか真実が含まれてるものなんだからな」「わかりましたよぅ」

 食ったら寝とけよ、と言い残してカヴルは立ち去った。アデはしばらく、夜空を見上げていた。ひとびとの営みに関与することも無く、星々はただ瞬く。


 そしていつものようにガヴル軍曹が小隊の誰よりも先に目を覚ますと、既に短躯の傍らには小柄な影が立っていた。

「頼むね」と、声が聴こえた。夜明けは近い。


 攻勢は早々に頓挫した。敵の防衛線は明らかにこちらの意図を見透かして強化が成され、第3小隊は敵前の窪地に撃ちすくめられて、たちまち半数近くが遺族年金供給者の資格を得ることとなった。

「短躯の影に隠れてください!」乗降扉を開いて半身を乗り出したアデが叫んだが、この状況下ではむしろ短躯はよい的である。銃弾や弾片は防げても、速射砲でも持ち込まれれば万事休すであろう。

 自走する機関銃座である短躯は、その運動性を活かした戦闘が本来の在り方である。複数の短躯が互いの死角を補い交互躍進すべき市街地で、わずか1両だけが歩兵直協任務に就くのはそもそも悪手であった。

 埒が明かない。後方に送り出した筈の伝令が無事に指揮所に到達していれば、せめて迫の支援は得られる筈である。筈を重ねて何も起きないのは、伝令が無事に指揮所に到達することが出来なかったからであろう。

「丘に上がります!あそこからなら、塹壕線を掃射できます!」果たしてアデは図書館の丘を指し示した。制止する声も聞かずに短躯が立ち上がる。敵弾が雨のように打ちかけられ、激しく火花を散らした。

 窪地から駆け出した短躯に火箭が追いすがる。結果的に第3小隊の残余は窮地を脱する好機を得ることとなった。ガヴル軍曹は小脇に抱えていた鹵獲品の軽機関銃を最先任の兵士に渡すと、命令を告げた。

「貴様が指揮を執って後方に退避しろ。代理小隊長は死んだとでも言っておけ」「軍曹はどうするんで!?」カヴルは戦場を疾駆する短躯を見遣る。

「あれを止める。図書館に近づけるわけにはいかん」鉄帽を脱ぎ弾帯を外すと、単身駆け出して短躯の後を追う。常人には成し得ぬ膂力、速度でガヴルは戦場を走った。

 指揮権と軽機を委ねられた兵士は、しかし軽機はその場に捨てて撤退した。アデと同様に小柄な身の上では、その機関銃は一人で担ぐには重すぎたのだ。


 ひとつの兵器として見れば短躯には欠点が多い。とりわけ視界が狭いことは大きな問題点である。筐体には四方を視察する覘視孔てんしこうが備わっているが、その小さな窓から見える範囲は極めて限定的であり、ただ1人の乗員が全周を見渡せるようなものでは無かった。ましてや、行進間射撃中に周辺の様子など分かろうはずもない。ガヴル軍曹が並走しても、アデが気づいた様子はなかった。

 こんな時、教本では手旗信号を用いよとある。しかし十字砲火の只中で旗など振り回していれば、それはただの自殺行為であろう。構造に於いてもまた運用に於いても、いまだ短躯は未成熟な新兵器であった。

「ええい、10フィート棒でも落ちてりゃいいんだがな」それはどこででも用いられる便利な道具ではあるが、生憎とガヴル軍曹の周辺にそんなものは無かった。必要な時に限って必要な物が無いというのも、それもまた戦場の常ではある。

 案じた通り短躯が図書館の丘に近づくに連れ、阻止砲火は一層激しいものになった。それでも遮蔽物や砲弾孔の窪地に身を隠して、アデは必死に短躯を進めていた。そして時折、後方からの射撃も散見された。自軍にも、誰か気づいた者がいるのだ。

「『誤射』で死んだら目も当てられんぞ、あの馬鹿が」

 止むを得んか。ガヴル軍曹は短躯に飛びつくと、遮二無二よじ登った。排気管を掴んだ手が焼け、耳元を銃弾が掠める。最上部の乗降扉に手を掛け、全力で蝶番ごと引きちぎる。全身の筋肉が悲鳴を上げ、太古の野獣のような咆哮が湧きあがった。

 乗降扉を喪った短躯の内部では、小柄なアデが縮こまって震えていた。あおい顔は血の気を失い、死の恐怖に怯えた様子であった。何者かが短躯に取りつき近接攻撃を受けたものと、誤認したのであろう。

「ぐぐ、軍曹どん!?なしで??」

 説明している暇はない。ガヴルは無言でアデの襟首を掴んで引きずり出すと、小脇に抱えて短躯の下を離れる。聞き慣れた風切り音が、二人の頭上に響いた。

 伝令は無事に辿り着いたのだろうか?短躯に迫撃砲を打ち込んだのは敵か味方かどちらの側か?僅かな窪みを見つけて咄嗟にアデに覆い被さったガヴルに、分かる筈も無かった。


「……止んだか?」やがて砲声は離れて行った。戦闘の焦点は何処かに推移した様であった。砂埃を振り払い起き上がる。アデはどこか呆けたように見えた。弾着地点の間近にいれば、最初は誰でもそうなるものだ。

「アッ!あ、あああああ!」しかしアデは何かを目撃して、漸く現状を理解した様であった。堰を切ったように涙と嗚咽がこぼれ落ちる。ガヴルは背後を振り返り、アデが見た物を見た。


 短躯は完全に破壊されていた。


「だからな、図書館の丘には近づかない方がいいのさ」泥と汗と涙が混ざったアデの頭を、ガヴルは軽く撫でる。

「軍曹ど……殿は、自分を助けてくれたのでありますか」結果的にはそうなったが。

「小隊の人たちは……」

「短躯が囮になってくれたからな、無事脱け出せたんじゃないかな」彼らも古参である。上手くやるであろう。やれなければそれまでの話である。

「さてと」自陣に戻らなければならないが、戦闘は未だ継続中である。丸腰で戦域を渡り歩くのは危険だった。陽が落ちるまでどこかに潜む必要がある。

「行くぞ、ついてこい」顎でアデを促す。

「行くって、どこへでがすか」カヴルが示した方向にはただ廃墟が残るだけである。

「どこってお前、」不思議そうなアデにガヴルは言った。

「図書館だよ」


 丘の反対斜面は比較的戦火も及ばず、草木が生い茂っていた。その中を分け入る一本の小道はやや掘り下げられていて、大柄なガヴルであっても周囲から姿を隠して歩むことが出来た。

 誰か頂の方から歩いてくる者が見え、慌ててアデはカヴルの背中に隠れた。中肉中背、茶褐色の服を纏った人間である。ガヴルは脇に避けて道を譲った。

「ディマケーション」男が微笑む。

「ディマケーション」ガヴルも応えた。背後で小さな悲鳴が漏れた。

 その人間は不思議そうにガヴルの背後を見遣ったが、特に詮索することもなく丘を降りて行った。

「い、いまのは……」通り過ぎた後に、アデが押し殺した声で囁く。

「敵じゃないですか、軍曹!」

 茶褐色の軍服はアデやガヴルの濃緑色のそれとは異なる側のもの。異なる軍隊、異なる国家体制のものである。ガヴルは何も答えない。

 アデは怯えて辺りを見回すが、無言のまま行くカヴルに離されないよう、付き従うしかなかった。

 やがて二人は廃墟の門前に立った。門扉は倒れていたが石造りの門柱は残り、傍らにはひとりの老人が門番宜しく立っていた。小柄だが、岩を削り出したかのように屈強で、眼光は鋭い。

「ディマケーション」再び、先の人間と同じ言葉が老人の口から発せられた。

「ディマケーション」やはり同様にカヴルが応える。と、アデの肩口を小突いた「ほら、お前も復唱」戸惑うアデを老人が睨みつける。

「で、でぃまあけいしょ、ん」覚束ない言葉であっても、ただ一言でその場の空気は和らぐ。

「そっちのデカいのは常連だが、お嬢ちゃんは初めて見る顔だな」「は、はい?なん、なんなんですかこれ??」当然のように発せられる疑問を無視して、規則を読み上げるように言葉が継がれる「二人とも、武器を持っているなら出しなさい」

「いつも通り、俺ぁ丸腰だぜ爺さん。アデよ、お前も武器なんぞ持っちゃいないよなあ」

「えっ、いやあのその……」あわてて作業衣を探り懐から小さな木鞘の小刀を取り出す。

「徴兵されたときに、これは肌身離さず持って行けって故郷いなかのひとたちが……」それは精々鉛筆を削れる程度の、小さな刃である。

「ほんでもしも万が一のことがあったら、そんときはこれで自分の喉を突けって言われて……」幼い少女の目が潤む。ガヴルの大きな手が、優しく肩に添えられた。

「うんうん、そういうこともあろうなあ。けれどお嬢ちゃん、いかに大切な物とは言え、ここでは武器を預けてくれないか」老人の声音も柔らかになる。

「いまワシらが立っている、この門が境界線ディマケーションなのじゃよ。ここより内側には、争いも、人殺しも、戦争もない。それらが持ち込まれないように、ワシはここで番をしておる。なあに、ちゃんと預かっておくし、あんたが出て行くときにはもちろん返すと約束するよ。そういう規則になっているのじゃ」

「規則……でがすか」しばし逡巡し、そしてアデは小刀を老人に渡した「それではよろしくです」

 岩から削り出したような老人の厳しい顔に、笑みが漏れる。「図書館に、ようこそ」


「あげなお爺ちゃん、故郷にもいますた。怖いけど優しい感じのひと」そこは、古い城館の跡だった。爆撃で生じた火災によって建物は焼け落ち、ただ一部の石壁だけが残っていた。

「ああ、そうかい」あの老人も何処かの退役軍人ではないかと囁かれていたが、本当のところは誰も知らなかった。誰も詮索しなかった。地下室へと続く階段を、二人は下った。

 火の手にも耐えそうな厳めしい扉を開けると、そこには。


 大勢のひとびと、老若男女も種族も問わない大勢のひとびとが、静かに本を読んでいた。テーブルにつく者、ソファに腰かけた者、壁にもたれる者と様々であったが、皆静かに本を読んでいた。

「こりゃあいってえ……」「だから言ったろ。図書館なんだよここは」濃緑色と茶褐色の軍服もそこかしこに混じる地下室を、わずかな窓とランプが照らしている。ただ静謐に。ただ安穏と。

 二人の姿に気づいた者が黙礼する。どうやらガヴルの顔見知りのようだった。軽く手を振ると、ガヴルは受付の卓に向かう。

「あら、お久しぶり。今日はお連れがいるのね」金髪を長く梳った女性が二人を出迎える。戦時下とは思えぬ姿に、アデが目を見張った。「またいつものでいいのかしら?」「おう、頼むよ」「あなたは、どんな本をお探しですか?」アデに優しく微笑む。

「は、はひっ、その、えと……本て、ああ、なにか馬の本はありますか?馬が出てくるもの、そういう御本が読みたいです」ふむ、とその図書館員が考えこむ。「ではお席にお持ちしますから、しばらく待っていてください」受付を同僚と交代して、奥の書庫へと向う。

「はじめて見ましたけ、綺麗……」「ああ、そうかい。あのひとが館主なんだよ」既に戦前から少数種族となっていた者たちだった。戦争が始まり、相当減ったと伝えられている。

「ほんとに耳、長いんでがすね」「あんまりひとをジロジロ見るもんじゃねえぞ」「はひっ、すません……」やがて二人の下に、書庫から本が届けられた。

「外国の本だけれど、共通語コモンズで書かれているからきっと大丈夫ですよ」そう言って館主がアデに渡したものは、図鑑のようだった。カヴルが受け取ったものは、表紙が焼け焦げて傷んだ本である。この図書館に来るたびに、いつもカヴルは同じ本を読んでいた。内容を暗唱できるようになっても、同じ本を読んだ。


“勇者は魔王を滅ぼしました。この世から悪いものはいなくなったのです。おしまい”


 居なくなったのは「悪いもの」だけではなかった。且つては実在した竜も魔法も、精霊も奇蹟も、気が付けばいつのまにかひとびとの間から無くなり、消えてしまった。ただおとぎ話だけが語り継がれた。そしていまでも、何かに見捨てられたひとびとの世に争いは無くならない。

 本当に天使がいたら、戦争を終わらせてくれるのだろうか?ガヴルは思う。だがしかし、天使などもうこの世に居ないのだ。遠の昔に消え去ってしまった。

「軍曹どん、可愛らしい本を読まれるんでがすね」「俺は歴史学の徒を志しているのだ」

「故郷では馬を飼ってたでがすよ。働きもので、ええ子じゃった」アデの緑色の指先が、本物の馬を撫でるように図鑑の絵を撫でる。

「わたしより先に軍隊に取られて、ほんで家も焼けてしもうて……」カヴルはポケットを探って仮包帯を取り出した。清潔な布などそれしか持ち合わせがなかった。

「泣くのはいいが、静かにな。本を汚すなよ」

「……あい」


 やがて陽も落ち、席を立つ者が増える。砲声も無く、戦闘も一段落したかに思える。受付に本を返却し、礼を言うアデに、「いつでもまたいらっしゃいね」と館主は微笑んだ。

「いやあ、たぶんそれ無理だす」アデは笑い返す。

「わたし短躯兵だすから、原隊戻ったらきっとまたいろんな戦区に派遣されますて。ほんで短躯が行くところなんてどこも厳しい戦いでしょから、その繰り返しで、いずれどっかで死んじゃいますけ」

 屈託なく告げるアデに、館主もガヴルも掛ける言葉が無い。

「でも、今日はとっても楽しかったですから、ありがとうございました」


「軍曹どんもねぇ、ありがとございました」

 どんよりと重い雲に隠れて、月も見えない空の下、二人は夜の丘を降りて行く。

「わたしきっと今日のうちに死んじゃうだろなって、朝には思ってたでがすよ。でも、こんな楽しいところに連れてきてもらえて、ほんによかったでがす」何かを断ち斬ったような、薄っぺらい笑顔を、背後のガヴルには見せずにアデは言った。

「あの図書館には奇妙なうわさがあってな」小さなアデの背中を見ながら、なんの気持ちも込めずにガヴルは話した。

「戦争が始まった頃に空襲があって、建物は焼けちまったんだが、

「それで街の人間が総出で火消しに努めていたら、何故だかどっちの側の軍隊からも手伝う連中が現われて、

「結局地下の書庫は無事だったんだと。

「それからこの図書館は、境界線の向こう側にある安全地帯になった。敵も味方も関係なく、誰でも好きな時にやってきて、好きなだけ居られる場所だ。避難所シェルター不可侵地域アジール、そんなところだ。

「図書館の丘の秘密は守らねばならない。それが図書館を運営し、利用する者たちの務めなのさ。

「市民も兵隊も関係ない、俺たちは図書館の義勇兵ボランティアーズなんだよ」

「格好いいですね、軍曹!」「ああ、そうかい」

「このあたりの兵隊なら、誰でも知ってることだ。だから、余所者が来て図書館の丘に上がられたら皆困るんだよ」「さいでわたし叱られたんすね、へへ」

 空は暗く、草木は深い。周囲には誰ひとりとして他者の気配は無かった。

「それでな、アデよ」「あい?」少女が振り返る。

「図書館のうわさを余所に広められたら、やっぱり困るんだ。だからな」ガヴル軍曹の太い指が、アデの細い首筋を掴んだ。

「えっ」


 あまり音は響かなかった。


 数日後。ガヴル軍曹は漸く中隊本部に出頭した。攻勢の推移に合わせて、本部の位置が進出と転進を繰り返し、判然としなかったためである。

 結局中隊本部は元の攻勢発起点に戻り、戦線は再び同じ位置で膠着した。地図上に変化はなく、しかし前線で配置に就く者たちは減っていた。

「おう、生きとったか、死んだと聞いたぞ」

 周囲に体面を取り繕う必要のない場所では、中隊長はただの横柄な上官に過ぎなかった。

「はっ」

「短躯と二人、敵前で陽動に動いたそうだが、無茶をしたな」

「はっ」ガヴルは出頭する以前に小隊の生き残りと接触し、既に口裏は合わせていた。

「第3小隊が後退し戦線に穴が開いたが、そこに浸透してきた敵を却って中隊全体で叩くことが出来た。結果としては上々だ。よくやった」

「ありがたくあります」

「短躯は失ったが、あれは我が隊の物では無いからな。所詮余所者だ」「はっ」

「……同士打ちだったという噂もあるが」「乱戦でありました、分かりかねます」

「乗員はどうした」


「死にました」


「短躯が破壊された際に重傷を負い、応急手当てを試みましたが、その場で死亡しました。遺体は埋葬し、認識票を回収しております」

 どの兵隊も等しく首から下げる金属製の標識タグを取り出す。その者の姓名や種族、血液の型などが、そこには刻印されている。楕円形の標識には割り線が備わり、死亡時には半分に割って片方を回収し、もう片方は遺体に残すのが常である。

「アーデルハイドか」

 中隊長は面白くもなさそうに言った。

緑小鬼ゴブリンにしちゃあ御大層な名前だな」

 ガヴル軍曹の眉間の皺が、少し深く寄せられた。

「こいつは短躯部隊に返送しておく。貴様は小隊に戻れ」「はっ」

「ああ、それとな」幕舎から出ようとするガヴルの背に声をかける。そんな時宜タイミングを敢えて狙ったかのような声がけ。

「近々第3小隊に新任の小隊長が補充される。隊長代理はお役御免だ。精々手伝ってやれよ」「了解であります」


 軍隊が如何にひとを平等に扱うとはいえ、根強い差別感情が残っているのも事実である。人間ヒューマンでなければ将校になるのは覚束ない。亜人デミは大抵、下士官止まりである。

 猪首オークのガヴリエル軍曹は、心底飽いた兵隊の日常に帰って行った。


 その頃、前線では奇妙なうわさが広まっていた。上級将校は関知せず、ただ下士官兵の間でだけささやかれる、それは図書館についてのうわさだった。

 そこは戦争のさなかにあっても、あらゆる種族ひとびとに平穏と安らぎを与える避難場所として、密かに運営されているという。

 最近その図書館に緑肌の少女の職員が増えたとの、もっぱらのうわさだ。

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図書館の丘 あぼがど @abogard

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