第2話

夜道を歩くと、背後に足音が一つぶん増える。


振り向けば、誰もいない。


社内の掲示板に、知らない手書きの張り紙が追加される。

「聞き取りの方 急募」とある。


冗談だと思って剥がすと、翌日には同じ文面が別の壁に現れた。


松田が廊下を曲がるたび、背後の空気が濡れる。井戸の底のような湿気が、皮膚に貼り付いて剝がれない。


祭りの翌週、保存会があの祠の改修を始めたというニュースが地域紙に載った。


地蔵の前に新しい台座が設けられ、奉納された粘土の耳を納める棚が整えられるらしい。


写真には、棚に並ぶ幾つもの白い耳が写っている。どれも不出来な形なのに、妙に生々しい。紙面の隅に小さなコラムがあり、こう記されていた。


──逢坂の耳なし地蔵は、病耳の平癒のみならず、噂や悪口から身を守る信仰としても知られた。聞きすぎる者は、耳を預け、程よく戻していただく。預けた耳は、土に還る。……耳を戻し忘れた者は、井戸へ落ち、音の底へ沈む。


松田は夜、また祠へ行った。


粘土の耳の棚はまだなかったが、台座は新しく、石の表面が乾いている。


祠の前に立つと、耳の内側で誰かが笑った。


北川からのメッセージ音が遠くで震える。


「明日、昼、一緒に食べよ」とある。返信する指が震える。


地面から湿った風が立ち上り、耳の輪郭を撫でる。


──聞いたやろ。聞いたままにしといたら、溜まるんや。


「どうしたらええ」


──わけることや。渡すことや。


「誰に」


──まだ、向こうへ渡らんでええんやったら、人に。


翌日、社食で北川と向かい合った。


彼女はいつものように唐揚げ定食を頼み、箸袋を丁寧に開き、箸を指で撫でた。


松田は深呼吸をし、彼女に耳栓を差し出した。


「……一分、黙ってくれへん?」


北川は驚き、頷く。


松田はテーブルに肘をつき、彼女の口元を見つめ、そして目を閉じた。


彼女の喉が動き、言葉にならない息が揺れる。


音にならない“音”が、松田の耳の輪郭に触れ、別の形に変わる。


──わたし、怖かったんよ。あんたが、聞きすぎて壊れてしまうの。助けたい。でも、どう助けたらええか分からん。うちも、昔からちょっと聞きすぎる方やし。


松田は目を開けた。北川は耳栓を外し、「大丈夫?」と小さく言った。


松田は笑って、「……ようやく、ちょっとだけ分けられた気がする」と答えた。


耳の中で、水の音が遠ざかる。


その日から、松田は一日に一度だけ、人の言葉を“聞き届ける”ことにした。


駅のホームで、見知らぬ老人がつぶやいた愚痴を心の中で反芻し、祠に持っていって渡す。


スーパーのレジで、若い母親の苛立ちをそっと受けとり、井戸の枠に触れて土へ逃がす。すると、夜の枕は乾く日が増えた。


秋が来る。


耳は時々濡れ、時々乾く。


聞きすぎる日は祠へ行き、粘土の耳を棚に置く。


棚ができてから、奉納された耳の数は目に見えて増えた。


どの耳も、表面に細い指紋が重なっている。


誰かが触れ、返し、また誰かが預ける。地蔵の顔は風化して、頬が少し丸みを帯びた気がした。


冬の初め、逢坂の夜は冷え込む。


祠の前に立つと、白い息が耳の輪郭を冷やす。


松田は左耳に軽く触れた。感覚は薄い。けれど、完全に失われてはいない。


遠くで電車が通り過ぎる。踏切の警報音が、布越しに包まれたような柔らかさで届く。地面の下で、水がゆっくりと巡る音がする。


──まだ、聞けるな。


「ほどほどにな」


──ほどほど、忘れたら、呼ぶで。


「忘れん」


松田は祠に背を向け、逢坂を下りた。


足元の石畳は濡れていて、滑りやすい。


街灯が少ない道で、足音が二つ重なる。


振り返ると、誰もいない。前を向く。耳の内側で、北川の笑い声が遠くで弾んだ。


明日の昼の話題。社内のどうでもいい噂。くだらない冗談。人の暮らしの音。


ほどほどの音が、戻ってきた。


ただひとつ、戻ってこなかったものがある。


松田が祠に最初に置いた、あの一万円札だ。


紙は祠の奥で薄くなり、指紋の層に沈んでいったという。保存会の老人が、笑いながら言った。


「耳の借り賃や。あんた、ええ“聞き取り”になれや」


松田は笑って頷いた。


祠の棚の一番隅に、今日も新しい粘土の耳がひとつ増えている。


表面に細い指の跡。誰かが預け、誰かが返す。そうやって、逢坂は今日も音のバランスを取り続けている。


夜、枕を濡らす水はもう落ちない。


ただ時々、夢の中で井戸の底に白いものが揺れる。


耳か、月か。区別がつかない。


目が覚めると、耳の輪郭に冷たい風が触れている。


秋の終わりの匂い。


遠くで、拍子木がカン、と鳴る。祭の練習だろう。


音は薄く、しかし確かにここに届く。


松田はそっと耳たぶを撫でた。


そこにあるのは、自分の耳の形と、幾人もの指の記憶。ほどほどの音のための、ささやかな傷。


逢坂の耳なし地蔵は今も耳がない。


けれど時折、夜露に濡れたその頬に、人の言葉が映る。


笑い声、泣き声、囁き。地蔵はそれを聞き、少しだけ持っていき、少しだけ返す。


耳栓では塞げない世界のざわめきに、今日もほどほどの境界線を引いてやるのだ。


──返すものは返す。預かるものは預かる。


それだけの、古い約束を、今の暮らしの中で守る誰かがいる。松田はその列に、静かに並んだ。


                                 了




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耳なし地蔵 山猫家店主 @YAMANEKOYA

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