耳なし地蔵
山猫家店主
第1話
京阪の準急が緩く揺れる。夕方のラッシュが過ぎた車内は、ほどよく空席が目立ち、窓の向こうを黒い山の線が流れていった。
大津へ向かうこの路線に慣れてから、松田は毎日のように同じ景色を眺める癖がついた。
山科を過ぎ、日ノ岡の手前、線路の脇が突然ひらける。古い石垣と、崩れかけの祠が見える。そこに、耳のない地蔵が立っていた。
初めて気づいたのは四月の雨の日だ。濡れた石肌に、薄橙の街灯がじっとり張り付き、顔の両側が滑らかに削がれていた。誰かが悪ふざけで壊したのだろうと、その時は思った。
「それ、見んほうがええで」
昼休み、社食でなんとはなしに話すと、向かいの席の北川が箸を止めた。山科出身の彼女は、普段は柔らかい京都弁を崩さないが、声色が少し固くなる。
「うちのほうやと“耳なし地蔵”ゆうて、昔からあるんや。耳、触ったら取られる。夜、見たら、もっと取られる」
「もっとって何やねん」
「悪口の耳。噂の耳。……人の耳やない、“聞く耳”」
冗談めかして笑うと、北川は笑わずに言った。
「ほんまやで」
六月の終わり、雨脚が強い夜だった。
クライアントの対応で残業し、終電を一本逃した。山科で降りて、タクシー乗り場は長蛇の列。松田は歩くことにした。
びしょ濡れの傘を肩越しにずらし、石段の残る古道へそれた。逢坂の関跡の案内板が暗闇に佇む。ふと耳鳴りがした。遠くで、拍子木のような音がカン、と鳴る。
祠が見えた。濡れた苔が鈍く光る。そこに、耳のない地蔵が立っていた。まっすぐこちらを向く気配がする。いや、耳がないのに、こちらを聞いている。
足が止まっていた。傘の布を叩く雨粒の音が急に重くなる。
松田は思わず祠に近づき、覗き込んだ。
地蔵の顔。目は彫りが浅く、鼻も口も風化している。なのに、頬のあたり──耳があった場所だけが、濡れたように艶めいていた。
そこに、柔らかい何かが貼り付いている。水か、苔か。指先が勝手に伸びかけた瞬間、足元の水たまりが震え、土の中から低い声が立ち上がった。
──きいたな。
飛び退いた。誰もいない。
雨の音、遠くの車の音、自分の鼓動だけ。
松田は逃げるようにその場を離れ、息を切らしてマンションに辿り着いた。部屋の明かりをつけると、左耳がズキンと痛む。鏡を見る。
耳たぶが赤く腫れている。夜のうちに熱を持ち、痛みは脈打つように強くなった。
翌朝、耳鼻科に行く。医師はライトで中を覗き、首を傾げた。
「外傷はないですね。軽い炎症かな、抗生剤出しときます」
薬を飲んでも、痛みは引かなかった。
仕事中も耳の奥でかすかな囁きが続く。最初は空調の音かと思った。
そのうち文書のキー打ちと同じリズムで、言葉のようなものが混ざるのに気づいた。
──返せ。
誰の声か、どこの声か、掴めない。
会議室で、隣の課長が顧客の悪口をこぼす。笑いのざわめきの背後で、同じ言葉が低く響く。
──返せ、耳を返せ。
夜、布団に入っても、囁きは続いた。
耳鳴りの隙間から、別の声が混じる。駅のホームで肩が触れた男の舌打ち。
コンビニの店員の心の中の文句。上の階の夫婦の言い争い。文字通り、世界は音で溢れていた。
今まで聞こえなかった“音”が、耳の皮膚の内側に染み込んでくる。
「やつれたな」
三日目の朝、北川がコーヒーを差し出した。
「……耳、いまも痛い?」
「痛いっていうか、うるさい。全部聞こえるねん。人の声か、頭の中の声か、区別つかん」
「逢坂、行った?」
松田は頷いた。北川は息を呑む。
「お参りし。わたしのばあちゃんが言うてた。あれは“切られた耳”やない。昔、人の悪口や噂でえらい目に遭わされた人が、地蔵さんに願かけて、自分の耳を“預けた”んやって。聞こえすぎる耳を、地蔵さんに預ける。ほな、代わりに“利きすぎる耳”を返されることがある。持て余したら、また返しに行かなあかん」
意味がわからない。
けれどこの三日間で、理屈のほうが意味がわからなくなっていた。
松田は辞表の提出を先送りし、定時で上がって逢坂へ向かった。
雨は止んでいたが、山の空気は湿っている。祠の前に立つと、耳の痛みがわずかに静まった。
代わりに、地面の下で何かが擦れる音がする。松田は財布から一万円札を出し、祠の前に置いた。
「──返します。耳、返します。聞こえすぎるの、いりません」
沈黙。風が木の葉をこすり合わせる。
遠くで車のブレーキ音。やがて、祠の奥から水が滴るような音がした。
松田は目を閉じた。左耳の外側に、ぬるいものが触れた。細い指の形。耳の輪郭を撫で、耳たぶをつまみ、そっと外すみたいに。熱が走った。
目を開けると、祠の前の紙幣が濡れていた。
指の跡がくっきりと残っている。左耳に触れる。形はそこにあるのに、感覚がない。音は──静かだった。
世界が、急に薄くなった。通り過ぎる車の音も、人の呼吸も、外側からガラス越しに聞いているみたいに遠い。
その夜、松田は眠れた。久しぶりに深く眠った。
翌朝、目覚ましの電子音が小さく聞こえる。
会社に行く途中、駅のアナウンスは不自然に抑えられた音量で届く。
隣の席の同僚がキーボードを叩く音は、薄い紙をめくるみたいな気配だけになった。
静かだ。世界はやわらかい。
松田は業務を淡々とこなし、午後には久しぶりに笑った。
帰宅途中、コンビニで弁当を買う。レジの青年が「箸は二膳でよろしいですか」と訊く。
松田は耳を触る。
彼は何も言ってないのに、その問いが頭に浮かんだ。……いや、違う。
青年の口が動く前に、言葉が耳の奥に入ってきた。
──二人分に見えるんやな。
振り向いた。誰もいない背後に、湿った匂いが立つ。
松田は買い物袋を握りしめ、足早に店を出た。
ビニールの擦れる音が、遅れて耳に触れる。背中に視線の感触だけが、まとわりついてくる。
日曜日の昼、北川からメッセージが来た。
「山科神社の夏祭り、来る?」とある。
人混みに紛れれば、耳の異変も紛れる気がした。
屋台の匂い、子どもの笑い声、太鼓の響き。
松田は人波の中に立ち、ようやく人間の音の厚みを取り戻しつつあった。
神社の裏手、古い井戸の枠が残っている一角に人だかりができていた。
覗き込むと、地元の保存会が古い資料を展示していた。昭和の古写真の中に、耳のない石仏を担いで移動させる男たちの姿がある。
手書きの解説板にはこう記されていた。
──耳を削いだのではなく、耳を“奉納”した。人の噂や悪口を遠ざけるため、聞きすぎる耳を地蔵に預けた。戦前は粘土で耳を作って捧げ、戦後は……写真が抜き取られていた。
角が破られた台紙に、糊の跡だけが残っている。誰かが持っていったのだ。
北川が横で小声で言った。
「昔、逢坂では“聞き取り”の人がいたんよ。葬式とかの段取りで、町内の噂や揉め事を先に察して、角が立たんようにする人。耳なし地蔵に耳を預けて、ちょうどええ聞こえ方にしてもらってたって。……けど、戻すの忘れた人は、だんだん“向こう”の声ばっかり聞くようになって、井戸に落ちたって」
祭りの喧噪が急に遠のいた。太鼓の低音だけが地面を通じて伝わる。松田の左耳の内側で、水音がした。小さな泡が弾ける音。井戸の暗闇の底で、誰かが囁く。
──まだ、返してへんやろ。
それから松田は、左耳に綿を詰めるようになった。
耳栓では防げなかった。耳の穴からではなく、耳の“形”を通じて音が入って来る。
輪郭の線が世界の音を拾い、皮膚が意味を変換してしまうのだ。
出社すれば同僚の笑い声の裏に舌打ちの影がつく。
エレベーターの天井の蛍光灯が、人の名前をひとつずつ坩堝の底に落としていく音を立てる。
帰宅すれば、階段の踊り場に貼られた掲示板の紙が、誰の悪口を吸い取ったか、紙の繊維がざわざわと話してくる。
夜中に目が覚める。枕が湿っている。
左の頬まで冷たい。起き上がると、床に水の輪がひとつ、またひとつと広がっていく。
台所の蛇口は締まっている。浴室の床は乾いている。
濡れているのは、左の耳たぶだけだった。
水滴が耳の縁にぶらさがり、落ちるたびに微かな男女の囁きが弾ける。
──あの人、出世したらしいやん。
──あそこの家、ついに別れたんやて。
やめろ、と呟くと、囁きは笑った。
──聞いたんはあんたや。
松田は祠へ行った。
夜明け前の薄青い時間。祠の前に立つと、耳の輪郭にふわりと風が触れた。
松田はポケットから、白い粘土を取り出した。
手芸店で買った軽い粘土だ。両手で温め、耳の形を作る。
子どもの工作みたいな雑な形。それをそっと祠の前に置き、手を合わせた。
「返します。これで、終わりにして」
長い間、風だけが返事をした。
山の鳥が一声鳴いて、黙った。
やがて、祠の奥の暗がりから、濡れた小さな音が近づく。
粘土の耳が、ゆっくりと湿っていく。
輪郭が柔らかく崩れ、白が薄灰に変わる。
粘土の表面に、うっすらと指紋が浮かんだ。
それは、松田の指紋ではなかった。細く、深い線。幾重にも重なる、誰かの“触った”跡。
翌朝、世界は静かだった。
通勤の人波のざわめきは音量を失い、駅のホームの金属音は乾いた紙の擦れる音に変わった。
北川は「顔色戻ったな」と言い、松田は笑った。
耳の奥で、水の音が、一滴だけ跳ねた。それから三日は平和だった。
四日目の夜、また枕が濡れていた。
左耳たぶに、細い線が走っている。鏡で見ると、耳の縁に古い傷跡のような筋が浮かんでいた。
指でなぞると、冷たい。傷の内側で、小さな声が目を覚ます。
──預けたやろ。次は、あんたの番や。
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