ゾウさん

仁木一青

ゾウさん

 俺は長距離トラックの運転手だ。

 その夜は、北関東の国道50号を東に向かっていた。PAパーキングエリアを過ぎると、街灯が途切れ、窓の外は闇ばかりになる。


 エンジンの低いうなりが、車内を一定のリズムで満たしていた。

 アスファルトの継ぎ目の単調な振動が睡魔をじわじわと呼び寄せる。


 窓を少し開けていたのは、ただの癖だ。深夜の冷たい風が顔に触れるたび、眠気がわずかに引いていく。


 そのときだ。

 視界の端で、何か白いものがふわりと揺れた。ビニール袋かと思ったが、そいつは窓枠をなぞるようにして、ゆっくりと車内に入ってきた。


 形がはっきりしたのは、ハンドルのすぐそばまで近づいてきたときだった。


 真っ白な手。

 子どものようなちんまりした手指。爪はないように見えた。肌は妙に透き通っている。

 理解する間もなく、その手が俺の鼻をぎゅうっとつまんだ。


「んぐっ……!」


 冷たい。けれど、人間の手のような骨ばった感触はなく、ゴムのような妙な柔らかさがあった。

 そして、異様な馬鹿力。引きちぎられるかと思うほど、鼻が強く引っ張られた。


 慌ててハンドルを握り直し、ブレーキを踏もうとした。

 その瞬間、鼻をつまんでいた手が、ふっと消え失せる。


「ぞ……ぅ………………ん」


 くぐもった子どものような声が、耳の奥に残った。


 数日後、休憩所でベテランドライバーのマサ兄にその話をした。

 紙コップのコーヒーを飲みながら話す俺を、マサ兄はカップラーメンをすすりながら黙って聞いていた。


「ゾウさんか」


 強面のおじさんから、かわいらしい言葉がこぼれた。思わず笑いそうになるのをこらえ、「……ゾウさんですか?」と聞き返す。


 マサ兄は、カップ麺の湯気の向こうをじっと見つめた。


「子どもの声で、『ゾウさん』って聞こえなかったか?」


 ハッとした。最後に耳に残った、あのくぐもった声。

「あれ……そう言ってたんですね」


 マサ兄は箸を置き、ゆっくりうなずいた。

「ああ。鼻をつままれて、思い切り引っ張られただろう」


 背筋に冷たいものが走る。

 俺は、笑い話にしてほしかったのだ。寝ぼけてただけだろう、と。

 だが、マサ兄の声には冗談めいた響きがまったくなかった。


「知ってるんですか?」

「知ってるも何も……」


 マサ兄は鼻をさすりながら、顔をしかめた。


「お前、ワニさんに気をつけろよ」

「ワニさん?」


 聞き返すとマサ兄はおもしろくなさそうにうなずいた。


「ゾウさんの次はワニさんなんだよ。今度はな、あの妙に力の強い手で思い切り口を開かされるぞ。アゴが外れたやつもいる」


 俺は無意識に口を押さえた。想像してしまい、ぞくりと震える。

 マサ兄の目は笑っていなかった。


「えーと、そうだ。ワニさんの次はなんですか」

 マサ兄は視線を落とし、カップラーメンの湯気を見つめた。

「キリンさん、なんじゃないかって話だ」


「そこは、はっきりしてないんですね」

「ああ。三度目になんて言われるかは、誰も知らない。……葬儀場で親父さんが何度も繰り返すんだ。『せがれの首が、首が……』ってな」

「……」

「それを聞いてたやつらが、『たぶんキリンさんだ』って噂してた」


 背中に冷たい汗がにじむ。

 無意識のうちに首に手を当てていた。

 硬直する俺の肩をマサ兄が叩いた。


「悪いことは言わねえ。あそこを走るときは窓をきっちり閉めとけよ」


 その夜、俺は初めて窓を全部閉め、エアコンを入れたままハンドルを握った。

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