怖い話『夢の逃げ道』
犬河内ねむ(旧:寝る犬)
「夢の逃げ道」
夢を見た。
男を追いかけ、殺しかける夢だ。
悪夢としてはありきたりすぎると笑う人もいるだろう。
けれど、妙にリアルで、未だに血のにおいが消せずにいる。
ナイフを固く握りしめていたせいで、震えの残る右手。
切りつけた腕から流れる血の、鉄のような匂い。
もうこのままだと、俺は人を殺してしまう。
そう思ったギリギリのところで目が覚め、大きく息を吐いた。
大丈夫、ただの夢だ。
それでも、体中にいやな汗をかいていた。
シャワーで汗を洗い流し、会社へ行こうと玄関を出る。
その途端、赤色灯が近くに見えた。
古いブロック塀が崩れていて、警察が現場を囲んでいる。
事故でもあったんだろうか?
警察があんなに来ているんだ、もしかすると子どもでも怪我をしたのかもしれない。
朝から気分が重い。
だが、そんなことを気にしている時間も惜しんで、俺は、会社へと向かった。
その夜、再び夢を見た。
同じ男だ。
顔も背格好も覚えている。
なぜか分からないが、俺はどうしても、その男を殺したくてたまらなかった。
追い詰めて、切りつける。
男の右腕。
昨日と同じ傷。
もう少し、昨日よりもう一歩進み、男を追い詰めた──というところで、崩れたブロック塀のすき間から逃げられた。
……ああ、今朝のあの道だ。
夢の中の世界が、現実と地続きになっていることに気づき、ぞっとして目が覚める。
今日も殺さずに済んだ。
ほっと息をついたのだが、なぜだか胸の奥に少しだけ、物足りなさが残っていた。
今日も会社へ向かおうと家を出る。
例の崩れた塀の向こうで、何かが動いているのに気づいた。
男だ。
夢で追いかけた、あの背中に間違いない。
包帯を巻いた右腕で、古びた脚立を立てかけ、行き止まりのフェンスを越えようとしている。
まさか、とは思った。
夢で見たのと似た男が、偶然夢で見た場所にいただけのことだ。
そう考え、俺は会社へと向かった。
その夜の夢。
男はあの脚立を駆け上がり、フェンスを越えて逃げて行く。
俺は後を追うが、手をかけた脚立を蹴り倒され、地面から男を見上げることしかできなかった。
イライラしていた。
夢なのに、本気で腹が立った。
絶対に、殺してやる。
俺は会社を休み、脚立を元の通りに立てて、奥のフェンスまで行ってみた。
そこには、金網と鉄パイプでできた、鍵のかかっていない出入り口があった。
近くのホームセンターへ向かい、買い求めた太い針金でドアをグルグルに巻く。
さらにチェーンと南京錠でガチガチに封じた。
もう逃げ道はない。
今夜で終わりだ。
そのまま塀の陰に身を潜めていると、男がやってきた。
フェンスに近づき、封鎖されていることを知って──しばらく、沈黙する。
やがて男は、絶望したようにその場を離れていった。
俺は、心の底から湧き上がる笑い声をこらえながら、帰路についた。
その夜俺は、奇妙な高揚感に包まれていた。
今日で最後だ。
やっと殺せる。
夢の中で、男はフェンスの前でもがいていた。
その背中を、夢にまで見たその背中をためらいなく突き刺す。
一度では足りない。
ずっと楽しみにしていた背中を、何度も、何度も、繰り返し突き刺した。
――目が覚めたとき、体が軽かった。
こんな朝は久しぶりだ。
ついに、殺してやったんだ。
そう思った矢先──インターホンが鳴った。
ドアの向こうに立っていたのは、二人の警察官だった。
「◯◯さんですね」
「はい。何のご用ですか?」
落ち着いて対応しているつもりだったが、たぶん俺は笑っていたと思う。
警察官は、満面の笑みを浮かべる俺に、少し身構えた。
「××さんをご存じですね?」
「えっと、はい。私の上司です」
「殺人の容疑でお話を伺いたい」
一瞬、意味がわからなかった。
「……いや、何の冗談ですか? あれは夢ですよ。夢の中の話なんです」
警察官は、顔を見合わせる。
そのうちの一人が、無言でタブレットを差し出した。
映っていたのは、深夜のフェンス。
脚立を上り、あの男……今見てみれば、よく知る課長の姿がフェンスにたどり着く。
背後から現れたのは、まさしく俺だった。
今と同じ満面の笑みで、手にしたナイフを振り上げる。
課長の背中にナイフが突き立ち、真っ赤な血が噴き出した。
何度も、何度も。
血が飛び、課長は崩れ落ちる。
──夢と、寸分違わない。
「……じゃあ……あれは、現実だったのか……」
膝が震え、喉が渇いた。
頭の中が真っ白になっていた。
警官が手錠を取り出す。
その瞬間、ふと思った。
あっちが現実だったなら、今は夢のはずだ。
だってそうだろう?
どちらも現実だなんて、そんなのありえない。
つまり。
夢の中でなら、何をしても問題は無い。
俺は、念のためにポケットに忍ばせていたナイフを握りしめた。
夢なら、目が覚めれば済む話しだ。
それと、あの背中を刺した感触が忘れられない。
俺は笑って、警官に向かって踏み出した。
――了
怖い話『夢の逃げ道』 犬河内ねむ(旧:寝る犬) @neru-inu
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