第30話

――サイレンが、近づいてくる。



 金網の向こうで懐中電灯の光が揺れ、鍵束の鳴る音、走る靴音、怒鳴り声。扉が開き、夜気に混じって人の匂いが雪崩れ込んだ。



「屋上! ここだ!」

「二名負傷、出血あり!」



 先生たちが駆け寄り、私と茜の肩に毛布をかける。

 誰かが赤く燃える発煙筒を靴先で安全な位置に蹴りやる。

 紫陽花あじさいの葉に落ちた火の粉が、ぱち、と小さく弾けた。



「大丈夫か、白瀬!?」

「腕、止血するよ」



 救急隊員がしゃがみ込み、私の右腕を抱え上げる。包帯がぐるぐると巻かれ、圧迫されるたび脈が鈍く跳ねた。ライトが顔をなぞり、質問が矢継ぎ早に落ちる。



「お名前言えますか?」

「……し、白瀬凛花」

「今日は何月何日?」

「……わかります、だいじょうぶ」



 酸素マスクが口元に当てられる。

 冷たいゴムの匂い。視界の端で、別の隊員が落ちた刃物をビニール袋に収め、先生が頷く。



 茜は……。



 毛布を肩にかけられたまま、床に座り込んでいた。

 両側から先生と駆けつけた警察官に腕を押さえられ、震える指で何度も何度も顔を拭う。



「ごめんなさい……ごめんなさい……」



 かすれた声が、夜風にさらわれる。

 その声に胸が痛む。けれど身体はもう、鉛みたいに重い。



「職員室、二階廊下にも負傷者二名! 腹部刺創!」



 無線の声に、心臓が跳ねた。



 私は担架に移され、金網の向こうへ運ばれていく。階段に差し掛かったところで、別の隊員たちがストレッチャーを押し上げてくるのが見えた。白いシーツ、血の滲み。

 酸素マスク越しの横顔――蒼真先輩。



「意識清明。バイタル安定」

「出血コントロールできてます。命に別状なし、搬送します」



 その言葉が、胸の底にまで落ちていく。力が抜けて、視界が少し明るくなる。



「……よかった」



 呟いた自分の声が、自分のものじゃないみたいに遠い。階段の踊り場で担架が一瞬止まり、私は後ろを振り返った。



 屋上の入口。赤い光に縁取られて、茜が泣きながら押さえつけられている。目が合った気がした。何か言おうとして、唇が動かない。



 世界の縁が、静かに暗くなっていく。

 最後に見えたのは――金網に揺れる紫陽花の影と、茜の頬を濡らす涙の線だった。











 夏の朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。



 ぱちり。目を開けた。

 天井。変わらない模様の壁紙と、窓の外で鳴く小鳥のさえずり。



 まぶたの裏に焼き付いた光景は、もう夢の奥に沈んでいる。

 胸の上下を確かめて、深く息を吐く。呼吸は穏やかで、心臓も静かだった。



「……もう朝か」



 呟いて、ベッドから足を下ろす。床はひんやりとして、意識が澄んでゆく。



 洗面台に立ち、鏡を覗く。

 そこに映るのは、かつてと同じ――けれど少し大人びた自分の顔。

 長い黒髪は肩より下で艶を帯び、瞳の奥にはかつての怯えではなく、かすかな決意の色があった。



 制服の襟を正す。

 セーラーのリボンを結び、鏡に立つのは――ただの一人の女子高生。

 もう「呪いの器」と呼ぶことは、できなかった。



 顔を洗い、歯を磨き、いつもの朝の身支度を終える。

 鏡の中の私は、ほんの少し大人になったように見えた。





 あの夜から――二年の月日が、流れていた。





 蒼真先輩は大学生になった。

 事件で腹部を刺され、あの夜、血の海の中で意識を失いかけていた。

 救急車のサイレンと共に運ばれていった彼の横顔を、私は忘れられない。



 何度も手術を受けたと聞いた。

 退院後もリハビリに通い続け、体を動かすことさえ最初はままならなかったらしい。

 それでも彼は諦めなかった。

 杖をついて歩く姿を見たこともある。無理に笑って「大丈夫だよ」と言ってくれた時の、震える声もまだ耳に残っている。



 今では日常を取り戻し、普通に大学へ通っている。少し痩せて、顔つきは大人びたけれど、その瞳は前と同じ優しさを宿していた。

 彼と一緒に歩くたび、私はあの血に濡れた夜を思い出す。

 あの時、もし彼が助からなかったら――そんな想像をするだけで、足元が崩れる気がする。



 だからこそ、今ここに彼がいることが奇跡に思える。

 生きている。

 その事実が、私自身をも繋ぎ止めてくれている。





 一方で、茜。



 彼女の罪は裁かれた。御子柴や葛西を含め、幾人もの命を奪ったことは覆しようがなかった。



 新聞にはこう記されていた。



『被告人は未成年であり、複数の精神鑑定において「解離性同一性障害」「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」と診断された。人格の乖離によって責任能力は著しく制限される一方で、再犯の危険性は高いと判断される』



 刑事手続では心神喪失として責任能力が否定され、無罪(相当)とされた。続いて医療観察法の審判で、指定医療機関への長期入院決定が下った。

 司法と医療の狭間で、彼女は処罰ではなく、隔離と治療のもとに置かれることになったのだ。



 幼少期の虐待、兄の死、そして心を守るために生まれたもう一人の人格。

 情状は十分に考慮された。

 けれど―― それでも赦されたわけではない。社会は、彼女を危険と呼んだ。




――私は、何度かだけ面会を願い出た。





 小さなガラス越しでもいい、声が届かなくてもいい。ただ「生きている」と確かめたかった。



 けれど、受付の窓口で職員に静かに首を振られた。



「まだ安定していません。外部からの刺激は……」



 声は穏やかで、しかしそれ以上を許さない壁のようだった。



 その瞬間、胸の奥がひどく冷えた。

 結局、あの夜以来、茜とは一度も言葉を交わせていない。



 会えないまま、時だけが過ぎていく。

 彼女はいま、どんな夢を見ているのだろう。鉄格子の窓の向こうで、泣いているのか。それとも――。





 思考を振り払うように、私はリビングに向かった。

 トーストを焼き、蜂蜜をひとさじ垂らす。

 甘い香りが広がり、部屋の空気が少しだけ明るくなる。



 かり、と一口。

 舌の上に広がる優しい甘さが、胸の奥の苦さを溶かしていくようだった。



 私は小さく息を吐き、制服のスカートを整え、鞄を手に取る。



「……行ってきます」



 玄関のドアを閉めると、蝉の声と夏の陽射しが一気に押し寄せた。

 アスファルトの照り返しが眩しく、夏草の匂いが風に混じって漂う。



 家の前には、一台の軽自動車が停まっていた。

 フロントガラスには、緑と黄色の初心者マーク。

 運転席には、少し日焼けした横顔があった――蒼真先輩だ。



 二年前よりも肩の線は逞しくなり、落ち着いた雰囲気を纏っている。

 けれど笑ったときの目元の柔らかさは、あの頃のままだった。



 私は鞄を抱え、助手席に滑り込む。



「おはよう、りんちゃん」

「蒼真くん、おはよう」



 と、挨拶をして、私たちは軽く口づけを交わした。



 私たちは、まだ付き合っていた。



「今日もお迎えありがとう」



「いやいや。受験生だし、これくらい当然だよ」



 エンジン音が低く唸り、車はゆっくりと走り出した。



「ねえ、りんちゃん。共通テストの判定……どうだった?」



 ハンドルを握ったまま、蒼真くんがちらりと私を見た。



「……BかC判定。ギリギリ。模試でも上下してばかりで、すごく焦ってる」



 思わず弱音が漏れると、彼は「大丈夫だよ」と笑いかけてくれる。

 けれど私は小さく首を振った。



「いいの。……私、絶対に蒼真くんと同じ大学に行きたいから。だから、頑張る」



 気がつけば、彼のシャツの裾をぎゅっと掴んでいた。

 蒼真くんは苦笑して、「そう言ってくれるのは嬉しいけど、無理はしないでね」と返す。

 その声がやさしすぎて、思わず胸が温かくなる。



「……ねえ、最近の小説の調子は?」



 話題を切り替えると、彼は少し照れたように頬を掻いた。



「うん、何本か公募に出しているけど、そのうち一本は最終選考の結果待ち」



「えっ、すごい! もし受かったら、作家って名乗れるね!」



 思わず身を乗り出すと、彼は片手を上げて「はは、まだまだだよ」と笑った。



「大学のサークルの先輩で、もう何人かデビューしてる人がいるんだ。クオリティがすごくてさ。……りんちゃんにも読んでほしいなあ」



 車内に、ラジオから流れてくる音楽とエアコンの涼しい風が混じって流れていく。

 いつかの血に濡れた夜とは正反対の、穏やかで幸せな時間だった。



「でも、私は青嵐真せいらしん先生のファンだから……他人の作品を面白いと思えるかなぁ?」



 冗談めかして言うと、蒼真くんの耳がほんのり赤く染まった。



「ちょ、ちょっと……やめてよ、それ。本気で照れるから!」



 ぶつぶつ言いながらも、口元は緩んでいて――思わず私も笑ってしまう。



 そんな空気を振り払うように、彼が「あ、そうだ」と話題を変えた。



「実はね、大学の先輩からおすすめの本を教えてもらってさ。りんちゃんに読んでほしいと思って、借りてきたんだ」



「え、何それ。気になる」



「カバンに入ってるよ。見て」



 ちょうど赤信号で車が止まった。

 私は後部座席に身を乗り出し、蒼真くんのカバンを引き寄せる。

 ファスナーを開けて中を漁ると――そこには、一冊の文庫本が収まっていた。



 白地の表紙に、淡い色彩で描かれた人物画。上部には大きな文字で、こう記されている。





 筒井康隆つついやすたか

『七瀬ふたたび』





 私は目を瞬いた。



「……なに、この小説?」



 思わず声に出すと、隣の蒼真くんが少し得意げに笑った。



「超能力者の少女が主人公なんだ。りんちゃん、読んだらきっと響くと思うよ」



「ふうん……」



 私は首を傾げながら、文庫本の表紙を指でなぞった。どこか胸の奥がざわめく。

 けれど、それ以上深くは考えず、そっと自分のカバンに入れた。





 やがて、車は見慣れた通学路を抜け、正門前に停まった。

 朝の光に照らされる校舎。明桜高校。

 私はカバンを抱え、ドアを開けた。



「じゃあ、またね」



 蒼真くんは軽く手を振り、アクセルを踏む。

 軽自動車は穏やかなエンジン音を残し、通学路へと消えていった。



 私は校門の前に立ち、去っていく車の後ろ姿をしばらく見つめていた。










 高校三年の夏。

 黒板に並ぶ数式と、先生の声。私はノートを取りながらも、どこか上の空だった。



 休み時間になれば、隣の席の子や、この春に同じクラスになった友達と集まる。



「模試どうだった?」

「数学だけ死んだ」

「わかる〜!」



 そんな他愛もない会話に笑い声が混ざる。

 けれど、その輪の中に――茜の姿はない。

 思わず探しそうになる自分に気づき、私はそっと視線をノートに落とした。



 ……いないのは、当たり前なのに。



 昼下がりのざわめきと、窓からの蝉時雨が、逆に静けさを際立たせる。





 放課後。

 図書室で自習をしていた私は、シャーペンを置き、大きく伸びをした。

 肩と首がこきりと鳴り、張りつめた息が解けていく。



「……ふぅ」



 カバンの中へ手を伸ばす。

 教科書とノートの下に隠れるように置いていた文庫本。『七瀬ふたたび』。

 蒼真くんから渡されたそれを取り出し、指でページの端をなぞった。



 紙の匂いがかすかに鼻をくすぐる。

 深呼吸をしてから、そっと開いた。



――人の心が聞こえてしまう少女、火田七瀬ひたななせ

 その力を隠して生きてきたが、やがて同じ能力を持つ少年ノリオと出会い、さらに仲間たちと行動を共にする。

 だが、彼らは「超能力者を抹殺しよう」とする組織に狙われ、逃亡と闘争の日々を強いられていく。



 ページをめくるごとに、胸がざわついた。



 これは、まるで私のことじゃないか。

――静かだったはずの水面に、久しぶりにさざ波が立った。




 人の心を読めるがゆえに孤独を抱き、いつか露見する恐怖に怯える七瀬。



 茜に「うそつき」と罵られた夜を、私は思い出す。



 その後、私は勇気を振り絞って、蒼真くんに自分が精神感応者テレパスであると打ち明けた。

 彼は「信じられない」と驚きながらも、時間をかけて受け止めてくれた。

 だから――彼はこの本の存在を知ったとき、迷わず私に読ませようと思ったのだろう。



 しかし、最近は精神感応テレパスの力はもう、ほとんど感じなくなった。

 誰かの心のざわめきに怯えて過ごすこともなく、隣で笑う蒼真くんの声だけが、確かに届いてくる。



――普通の女子高生に近づいた証なのかもしれない。



「……精神感応者テレパスは、幸せになれるの?」



 思わず声に出ていた。

 図書室の静けさの中、自分の声が遠くに響いていく。



 七瀬の旅は、まだ続いていた。

 その物語の行き先を追いながら、私は心のどこかで問いかけずにいられなかった。



――私の物語も、まだ続いていくのだろうか。



 本を閉じた瞬間。

 静かな図書室に、唐突に耳鳴りが走った。

 キィン、と金属音のような高い響き。

 心臓が跳ね、思わず机の端を握りしめる。



 その直後。





「……凛花」





 どこからともなく、かすれた声が届いた。

 聞き覚えのある響き――けれど、誰のものなのかは判然としない。

 


 私は息を呑み、あたりを見回した。

 窓から射す午後の光、静まり返った書架、誰もいない空気。



 ただ、胸の奥でざわめく。

 終わったはずの物語が、まだ終わっていないことを告げるように。

 門脇の紫陽花は、二年前よりもずっと濃い青をしていた。





〈完〉

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