第29話
息を切らして、階段を駆け上がった。
狭い踊り場を曲がるたび、足音が石壁に反響して、心臓の鼓動と区別がつかなくなる。
それだけ苦しいのに、後ろから迫ってくる気配が背を追い立てた。
そして――視界の先に、重厚な鉄扉が現れる。
灰色に塗られ、上部には小さな強化ガラスの窓がはめ込まれた扉。
ここが……屋上への出口。
「……っ!」
切られた右腕を押さえながら、左手でドアノブを掴んだ。
だが――。
――ガチリ。
重たい手応えが返ってきて、ドアノブは一歩も動かない。
鍵が、かかっている。
「そんな……」
喉の奥がひきつり、胸の奥を絶望が駆け上がる。
その瞬間、階段の下から声が這い上がってきた。
【……凛花ァ……待ってヨ……】
ぞくり、と全身が硬直する。
靴音がひとつ、またひとつ。
じわじわと迫ってくる。
このままでは追いつかれる――!
「開けなきゃ……!」
私は必死に周囲を見回した。
扉の上部。四角いガラス窓がはめ込まれているのが目に入る。
厚くはない。叩き割れるはずだ。
近くの壁に取り付けられていた消火器用のケースに手を伸ばした。
プラスチックのカバーを乱暴に引き剥がし、中の赤い消火器を抱え込む。
金属の冷たさが掌に重くのしかかり、ずしりと腕を震わせた。
「うああああっ!」
渾身の力で、扉の窓へと叩きつけた。
甲高い破裂音。鋭い破片が四方に飛び散り、頬や腕に突き刺さる。
「っ……!」
思わず呻き声が漏れた。
右腕の傷口からも血が滴り、指先を濡らしていく。
だが、止まっている暇はない。
砕け散った窓枠に左手を差し入れる。
破片が食い込み、掌の皮膚が裂ける。赤い血がじわりとにじみ出し、砕けたガラス片を濡らした。
「痛っ……た……!」
それでも奥へと手を伸ばす。反対側のドアノブの根元。
銀色の鍵が突き出ている。
指先が触れた。必死に回す。
重たい解錠音が鳴り響いた。
同時に、背後から這い寄るような声が迫る。
【凛花ァ……見ィつけたァ……】
私は震える手でドアノブを捻り、全身の体重をかけて押し開いた。
軋む音と共に、冷たい夜気が一気に吹き込んでくる。
熱に浮かされた身体を刺すような冷風。汗と血で濡れた頬を撫で、背筋を一瞬にして冷やした。
高校の屋上。
ざらついたコンクリートの床に、無数のプランターが並んでいる。
夜の光を吸い込むように、青や紫の花弁が風に揺れていた。
その可憐な色彩が、血の臭いに満ちた身体と、狂気に追われる足音と並ぶことで、不気味なほど異様な舞台へと変わっている。
四方を囲む金網フェンスが、夜空を区切る檻のように立っていた。
風が吹くたび、カタカタと鳴っている。
もし、ここから転落したら間違いなく死ぬだろう。
「ここなら……」
私は屋上の中央――校庭からも、街からも一番よく見える場所まで足を運んだ。
裂かれたセーラーの上に羽織った先輩のワイシャツが血で重く肌に張りつく。
スカーフを引き抜き、傷の上で固く縛って、止血をする。
そして両手で、発煙筒を握りしめた。
重みが掌に食い込み、恐怖で震える指先がなかなか安全キャップを外せない。
「どうやって……これ……!?」
爪が割れそうになるほど力を込め、ようやくキャップを外す。
中から短い紐のようなピンが覗いていた。
それを引けばいいはず――そう思うのに、指が汗で滑ってうまく掴めない。
すると背後から、靴音が階段を上りきる音が響いた。
冷たい声が、風に乗って近づいてくる。
【凛花、もウ、終わりニしよウヨ……】
「っ……!」
私は半ば叫ぶように息を吐き、紐を引いた。
しかし――何も起きない。
「嘘……なんで……っ!?」
慌てて角度を変え、爪で擦る。
カチカチと空回りする音だけが鳴り、火花は散らない。
茜の影が、紫陽花の列を跨ぎながら、ゆっくりと近づいてきていた。
「お願い……ついて……お願いだから……!」
――シュボッ!
唐突に、火がついた。
咄嗟に発煙筒をコンクリートに横倒しに置く。
白い閃光と共に、赤い煙が勢いよく立ち上る。
ごうと燃え上がる音が、夜空を裂き、暗闇に裂け目を穿つように轟いた。
「届いて……お願い……!」
私は空を仰ぎ、祈るように両手を胸の前で固く組んだ。
――職員室の前に置いてきた蒼真先輩。
出血は、いまも続いているだろう。
時間はもうない。
だが――視界の端で、影が風を切った。
赤煙に照らされ、返り血に濡れた茜が一直線に突っ込んでくる。
右手には刃。
肘は締まり、刺突の姿勢。
口元は笑っているのに、瞳の奥は黒く濁っていた。
「――ッ!」
刹那、身体を半歩ひねって肩を落とす。
切っ先は髪を掠め、耳のすぐ横で夜気を裂いた。
距離がゼロになる前に、私は胸からぶつけるように踏み込む。
体当たり。
肩と上腕で茜の胸郭を押し、足で彼女のつま先を払う。
重心が崩れ、茜の背がコンクリートに叩きつけられた。
刃物が手から離れ、私の右前方、プランターの脚の陰で止まった。
光る刃が赤い焔煙を弾いた。
――今だ。
私は倒れた茜の脇を跳び越え、刃物へ一直線に腕を伸ばす。
あと指一本ぶん――
「ひゃっ……!?」
足首を掴まれた。冷たい指が骨ごと締め上げる。
ぐい、と引かれ、膝から崩れて前のめりに倒れ込む。
背中にコンクリートの硬さ。
息が潰れて喉が鳴った。
「やっ! やめっ……!」
起き上がるより早く、茜が腰を回して起き上がり、私の足を離さない。
赤煙に照らされた顔は、笑顔と呪詛が二重写しになった異形そのもの。
もつれた体勢のまま転がり、私は背でプランターの角を打つ。
紫陽花の枝が折れ、湿った土と鉢の欠片がばさりと散った。
「ぐっ……!」
茜は落ちた刃へ腕を伸ばす。
私も身を滑らせ、同じ刃を掴みにいく。
彼女の手首を両手で抱え込むように掴んだ。骨の出っ張りが掌に当たる。
爪が食い込み、互いの手の甲に血が滲む。
優位は一瞬ごとに入れ替わる。
刃の柄がきしみ、鈍い光の縁が左右にぐらつきながら起き上がってくる。
赤い煙と血の臭いが混じる中、刃先が私の喉へと寄ってくる。
首を反らして距離を稼ぐ――それでも、冷たい金属が肌を撫でた。
薄い線が首筋をなぞり、背骨に電撃が走る。
【……コロス……喉ヲ裂イテ、凛花ノ血ヲ……】
呪詛が耳の奥で蠢く。
茜の唇が動いているのに、そこから零れているのは茜ではない何かの声。
「やめてっ……茜……!」
呼びかけに、茜の瞳が一瞬だけ揺れた。
だがすぐ、狂気の膜が戻って力が増す。
手首の腱が軋む。
私は後ろへ押され、背中がフェンスに当たった。
金網が軋み、背骨に振動が刺さる。
背後は空。落下の感覚が足裏を奪う。
刃は震えながらも、私の喉へ――切っ先まであと二指。
ダメだ。このままでは、本当に殺される。
恐怖が胸を爆ぜる。
同時に、別の熱がせり上がる。
生きたい。
そして、目の前の彼女――茜を引き戻したい。
「茜――ッ!」
私は握っていた彼女の手首を引き寄せ、空いた手で頬を掴む。
そして強引に、唇を重ねた。
――瞬間。
暗闇が弾け、奔流のように映像が押し寄せてくる。
小さな部屋。
少女が必死に扉を押さえて泣き叫ぶ。
その向こうから伸びてくる、大人の男の腕。
耳の奥に、幼い悲鳴が突き刺さる。
次の瞬間、年上の少年がその腕に飛びかかる。
「茜を守る」と叫びながら――。
刃物の光。
鮮血。
崩れ落ちる背中。
床に広がる赤の中で、少女はただ凍りついていた。
場面はちぎれるように移り変わる。
鉄格子の窓のある施設の部屋。
声をかけても返ってこない空っぽの夜。
「誰もいない」「ずっと一人だ」という囁き。
やがて――胸の奥で別の声が生まれる。
兄の声。
守るために、戦うために。
でも同時に――「凛花を誰にも渡さない」という執着も。
涙と刃、愛と憎悪が混ざり合い、茜という少女の心を裂いていく。
「……っ!」
唇を離すと、私は荒く息を吐いた。
今見たのは――茜の中に沈められてきた記憶。
茜の瞳から、ぼろりと涙が零れた。
呪詛の濁流は、かすれた嗚咽にかき消されていく。
刃を握る手が震え、力を失いかけている。
――その時、刃先がまたぴくりと跳ねた。
【……ダメダ、トドメヲ】
男の低音が奥底から押し上がり、刃が私の喉へじり、と数ミリ近づく。
私は思わず顎を引き、刃先が皮膚を撫でて薄い痛みが走った。
金網が背でびりっと鳴る。押し切られる――!
「……茜、やめて」
声は震え、空気に溶けた。
返事はない。握力が増し、刃がさらに押し込まれる。
私は片手で彼女の手首を押さえ込みながら、胸もとへ指を滑らせた。
ワイシャツの内側、裂けたセーラーの布に挟んでいた生徒手帳の角をつかむ。
引き抜きざまに、刃と私の喉の間、茜の視界へ突き出した。
生徒手帳のカバーは赤黒く染まり、角は潰れている。
それでも、中のプリクラだけは鮮やかだった。
いつかの休日。
原宿で遊んだ時に撮ったプリクラ。
肩を寄せて笑う私と茜――
『ずっと友達♡』
『今日が一番楽しい日』
光に照らされた小さな写真が、彼女の瞳に真っ直ぐ映り込む。
夜風が一拍、止まった気がした。
【……ヤ……メロ……誰ダ】
「……それ、私たちだよ。茜と、私」
刃先が、ほんのわずか震えた。
喉元の冷たさが退く。
茜の喉が小さく鳴り、睫毛にまた涙が溜まる。
「……や、やだ……うるさい……やめて……」
こめかみに指を押し当て、首を振る。
【守ル】【奪ウ】が交互に滲み、喉の奥で噛み合わない音が擦れる。
「お兄……ちゃん、もう……いい、から……」
握っていた指がふっと緩む。
――カラン。
金属がコンクリートに触れて乾いた音を立て、刃は足元で転がった。
茜は胸を押さえ、よろめきながら膝をつく。
茜の喉がもう一度、小さく鳴った。瞳にもう一度、涙が溜まった。
やっぱり……そういうことだったんだ。
胸の奥にひとつの確信が灯った。
今、私たちを殺そうとしていたのは――茜自身じゃない。
彼女の中に潜む、もうひとつの人格。
先ほど、キスの中で見た断片的な映像――
血に濡れた手、倒れ込む誰かの影。
あれは、茜の兄……彼女を守ろうとして命を落とした人の記憶。
その痛みが、茜の中に兄を模した「守護人格」を生んだのだ。
彼女を傷つけようとするものを排除するための、暴力の人格。
本来なら茜の心は私には聞こえなかった。けれど、この声だけは明瞭に――男の声として、私に響いていた。
そしてその「守護人格」は、茜自身の嫉妬や孤独とも絡み合っていた。
だから――私を守ると同時に、独り占めしようとするように牙を剥いた。
私はそう理解した。少なくとも今この瞬間、茜を動かしていたのは、茜自身じゃない。
涙に濡れた茜の顔は、狂気と正気の境目で揺れていた。
ふたつの声が混ざり合い、彼女の心をずたずたに裂いていた。
「わたし……なんてことを……」
刃を手放した茜は、震える両腕で私を抱きしめた。
嗚咽で肩を震わせながら、子供のように泣きじゃくる。
制服の胸元が涙で濡れ、濃い血の匂いの中に塩辛い涙の匂いが混ざった。
「ごめん……ごめんね凛花……! 殺そうとした……傷つけた……なのに、こんな、わたし……!」
言葉は途切れ途切れで、謝罪と後悔が入り混じっていた。
それは呪詛ではなく、確かに茜自身の声だった。
私は抱き返すこともできず、ただその背中を受け止めた。
心臓はまだ恐怖に打ち震え、腕の痛みもひどい。
それでも――この温もりを拒絶できなかった。
「……茜。私、あなたが……怖いよ」
震える声が、夜風にさらわれる。
「でも……憎むことも、できない。胸が、苦しい……」
恐怖と怒り、悲しみと……かすかな安堵。
ぐちゃぐちゃに絡まり合って、言葉にすらならない。
腕の中で泣きじゃくる茜は、かすかに笑ったように見えた。
「……そんなふうに言ってくれる資格なんて、ないのに……」
彼女の指先が、私の背から離れていく。
その動きに――嫌な予感が胸を刺した。
夜風が吹き抜け、プランターに植えられた紫陽花が揺れる。
「わたし……凛花を怖がらせた。蒼真先輩まで……傷つけて……」
かすれた声が夜気に溶け、涙で濡れた横顔がわずかに歪む。
「こんなわたし……もう、どうしようもないんだよ……」
彼女はふらりと身を翻し、フェンスの方へ歩き出す。
鉄の網が夜の街灯に照らされ、細い影を彼女の頬に刻んだ。
そして――細い指先が、フェンスを掴んだ。
「やめて! 茜ッ!」
思わず叫んだ。
だが彼女は振り返らない。
ぎしり、と金属が軋む音。
細い身体が網をよじ登り、ひらりとフェンスの向こうへ。
赤煙に照らされ、校舎の淵に立つ茜の姿が浮かび上がる。
足元には奈落のような闇。
夜風に髪が乱れ、揺れる体は今にも落ちてしまいそうだった。
「茜、戻って! そんなことしたって――」
「いいの」
茜は震える声で遮った。
「わたし、全部間違えた。……凛花を怖がらせて、蒼真先輩まで……。もう、生きてる意味なんてないの」
「そんなの、勝手に決めないで!」
声が裏返る。喉が焼けるように痛い。
「怖かったよ! 本当に死ぬかと思った! ……でも、死んで償うなんて許せない!」
茜の肩がびくりと震えた。フェンスの縁に立つ細い足が、不安定によろめく。
「……もう、戻れないよ」
涙混じりの声が、風に千切れて消える。
「そうだよ!」
私は必死に言葉を投げた。
「あなたは最悪だし、酷いよ! 忘れられない傷を残した。……でも――」
そこまで言ったとき、茜の足がかすかに滑った。
鉄の網が鳴き、影がぐらりと傾く。
「茜ッ!!」
私は駆け寄り、必死に手を伸ばした。
茜の指が鉄網から一本、また一本と剥がれていく。
金属が軋み、身体は半分以上宙へ――今にも落ちてしまいそうだった。
「やだ……離れちゃ……っ!」
叫びながら、その手を掴む。
冷たい指先が震え、汗と血でぬるつく掌を必死に握り込んだ。
握力が抜ける――それでも離さない。
「放して……凛花……私なんか、生きてちゃいけないの」
「そんなこと言わないで!」
「だって私……蒼真先輩を刺して……あなたを傷つけて……」
「だからって――!」
喉が灼ける。
けれど、この一言だけは伝えなきゃいけない。
「
「っ……!」
涙が彼女の頬を濡らし、瞳が大きく揺れる。
それでも、まだ迷いが残っている。指先が震えている。
だから、私は最後の力を振り絞った。
「だって――私たちは、ずっと友達なんでしょッ!?」
その言葉が夜風に響いた。
赤煙に照らされた茜の顔が歪み、
「り……凛花ぁ……!」
茜の指に力が戻るのを感じた。
私は屋上の内側へ茜を引き戻し、転がるように地面へ倒れ込んだ。
そして、互いの身体を強く抱きしめた。
震えている。
熱い体温が確かにそこにある。
もう絶対に離さない――そう心に誓った。
――その時。
夜の静寂を裂いて、サイレンの音が遠くから高く響いた。
校庭の向こうで赤い光が明滅し、発煙筒の煙を照らし出す。
救いが――確かに、近づいてきていた。
紫陽花の陰で赤がまたたき、夜が少しだけ色を取り戻しつつあった。
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