第9話 世界って、きれいだ
上も下も、右も左も、なにもない場所だった。
宇宙のような空間。その中を紗彩はゆっくりと、降りていく。
足先が地面をとらえて、ようやく紗彩の体は重さを取り戻す。
青い森の中だった。樹々は彫刻のように静かに立ち、紗彩を出迎える。紗彩は森の中に通じるたった一本の道の上を歩き始める。
道は雪が積もったかのように白く、森の中で発光して足元を照らしてくれている。道のわきには、ラベンダー色やグリーンの色をした石の結晶が落ちており、のぞきこむと石の結晶の中で星たちが瞬いている。
紗彩はただ、真っすぐに白い道の上を歩いた。時折、頭上を透明なものが飛んでいく。目をこらすと、それはしゃぼん玉のようなクラゲだった。ふわふわと浮かんでいき、空へと向かう。クラゲを目で追っていた紗彩はあることに気がついた。
紗彩の頭上にも、もう一つの森があったのだ。
木が垂れ下がっていて、同じように白い道がある。どちらが上でどちらが下なのか、感覚がわからなくなって、紗彩はしゃがみこんだ。
森と森の間のなにもない青い空間を、透明なクジラが泳いでいる。
こわいと、紗彩は思った。
恐怖のこわさではなくて、広い海を初めて見た時のような、川の強い流れの中にいる時のような、不思議で、とてつもないパワーを持った世界を前にした時のこわさだった。
「それで、いいんだ」
紗彩はうなずいて、立ち上がる。すると、先ほどまであった白い道が途切れて、目の前に湖が現れた。
湖の真ん中には、小さな島がある。たんぽぽと一本の木が立つ島に、お母さんはいた。
「お母さん」
紗彩は湖に足をふみ入れる。ふみ入れた足を中心に小さな水の円ができ、それが広がって大きな円となって、そして音もなく水の中に消えていく。
紗彩は水の上を歩いていた。足は水の冷たさを感じているのに、体は水にしずまない。ちゃぷちゃぷ、と心地の良い水の音に耳をかたむけながら、紗彩はお母さんの元へゆっくり歩いていった。
「お母さん」
呼びかけると、木の根元でひざを抱えていたお母さんが顔をあげる。紗彩は、お母さんの右側に腰をおろす。それから、そっとお母さんの右腕に紗彩の腕をからませ、お母さんの右肩に頭をあずけた。
お母さんはなにも言わない。
紗彩もなにも言わなかった。
ただ、二人で目の前の不思議な光景をながめていた。
たんぽぽの黄色の花がゆれる。湖は森を映す。森は、静かにそこにある。
座っている場所が、ほんのり温かく感じた。
ふと、音が聞こえた。
こぽこぽという音だ。
土の下から聞こえる。
それから、草、花、木の中から。
生命の音だ。
そして、最も大事な音を二つ聞いた。
お母さんと紗彩のゆっくりで、深い鼓動を。
「お母さん」
紗彩は言った。
「大好きだよ」
授業が終わると、小森の門を開ける。
小森に入って、祠のまわりを掃除する。持ってきた水と、プリンを三つ祠の前に置く。
「食べようよ」
声をかけると、小森さんがどこからともなく現れて、雨龍が紗彩の手にのる。
「プリン作ってきたの」
「紗彩が?」
「そう」
プリンをのぞきこんでいた小森さんが、目をぱちくりさせながら紗彩を見る。
「お供えにプリンを持ってきた子は、初めてだと思う」
「なんで? おいしいのに」
雨龍はしばらく紗彩の手にのっていたが、ふよふよとプリンの周りを浮遊したりして、最終的に小森さんの髪の毛の中に落ち着いた。
「ここが一番良い」
そう言う雨龍に小森さんは「昔の名残かな」とうれしそうに笑った。
「あの、この間はありがとう」
プリンを食べ終わってから、紗彩は姿勢を正してお礼を言った。雨龍を乗せたままの小森さんが、少しだけ頭をかしげて笑う。
「お母さん、元気になったか?」
「うん。……といっても、やっぱり自分の体に起きていることに、前向きになれない日もあるんだって」
もしも、と紗彩は思う。ある日突然、紗彩の両足が動かなくなってしまったら。毎日、前向きな気持ちで「がんばるぞ」と、リハビリを行うことは出来ないと思う。足が動いていたころの過去や、もし足が動いていたらの未来を思って、悲しみにくれる日の方が多いのかもしれない。
「わたしね、まだまだ子どもでいることにしたの」
「ほう!」
雨龍が大きな声をあげた。
「早く大人になって、お母さんを支えたり、家のことをしないとって思っていたけれど、やめたの」
紗彩は空をあおぎ見る。小森の樹々が重なる向こう側には、学校が見える。
「一人で生きているつもりだったけれど、ちがうって気がついたの。目に見えないものが、気がづいていないものがたくさんあって、わたしたち、それに支えられて生きているんだって、あの時わかったの。うまく言えないけれどね、悲しい時は悲しい。うれしい時は、うれしい。ちゃんと、好きを伝える。まずは、そこからなんだと思う。わたしが出来ることって」
自分自身にうなずいてから、紗彩はスマホの画面を確認する。
「そろそろ帰らないと。今日はお父さん、早く帰って来る日なの」
「そうか」
雨龍がきゅっと目を細めた。
小森の門を出ようとして、紗彩は振り返る。
「小森さん」
「なに?」
「森を切り崩して、小森さんたちを小さなところに押しこめて、ごめんなさい」
「紗彩が謝ることじゃないだろう?」
「ううん。でも、言わせて」
紗彩は首を横に振る。
「ここに、中学校が出来てよかったって思っている。小森さんたちからしたら、勝手なことだと思うかもしれないけれど、わたし、小森さんと雨龍様に出会えて、本当によかったって思っているんだよ」
小森さんは目を閉じて、腕を組む。どこか遠くの方に耳をすませているようだ。
「小森の番人」
うっすらと目を開けて、小森さんはふっとやさしく息を一つついた。
「その心を忘れないで」
「うん」
紗彩は門を閉めると、家に向かって走り出す。
ぽつぽつと頬に雨粒が落ちてきて、すみれ色の空を見上げる。
銀色の胴体に青い模様。身をうねらせて、雨龍が空を渡っている。
虹色の雨粒が、地上に降り注ぎ、コンクリートがぬれていく匂いがする。木の葉がゆれ、雨を吸いこむ。虫たちが雨を喜び、風が紗彩の背を押した。
「世界って、きれいだ」
小森の番人 あまくに みか @amamika
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