第8話 雨龍様
「今ね、お父さんが夕飯作っているんだよ」
紗彩は病院にいるお母さんとビデオ通話している。
「ちょっとコゲくさい匂いがするよ」
小声で言って、お母さんの反応を待つ。普段なら「あはは」と笑ってくれるはずが、その日はちがった。
お母さんの左の目から、涙が一筋流れた。
「お母さん、泣いているの?」
「え? ああ、ごめんね」
「お母さん、だいじょうぶ?」
「ごめんね。紗彩。本当にごめんね」
弱りきったお母さんを見るのは、初めてだった。
どうして泣いているのだろう。
どうして謝るのだろう。
「こんなお母さんになっちゃって、ごめんね」
時間が止まったような気がした。
目の前がチカチカした。お母さんの顔がぐにゃりとゆがんで、小さく遠ざかっていく。
元のお母さんにもどってほしいと願った紗彩の心を、のぞかれていたのではないかとドキリとした。みぞおちのあたりがギュッとつかまれたような気がして、痛みを覚えた。
「お母さん」
呼びかけた時には、スマホの画面はなにも映していなかった。真っ暗な画面の奥に、うっすらと紗彩のりんかくが見える。
「どうしよう」
頭の中はお母さんの涙でいっぱいだった。
お母さんが泣いている。お母さんが苦しんでいる。
紗彩のせいで。紗彩の願いのせいで。
体の右半分が不自由なお母さんじゃなくて、元の普通のお母さんにもどってほしいと。
お母さんは、全部知っていたのかもしれない。
紗彩が、いつもそう思いながらお母さんの崩れた右側の顔を見ていたことを。
お母さんが家にもどって来たら、紗彩がお母さんの面倒をみなければならないこと。
家の中のことを紗彩がしなければならないこと。
それが、嫌だなと思っていること。
全部、お母さんに伝わっていたのかもしれない。
だから、お母さんは泣いているのだ。
紗彩が、お母さんを追いつめているから。
「嫌なやつ! 嫌なやつ!」
ベッドにもぐりこんで、紗彩は泣いた。枕を顔におしつけて歯をくいしばる。
生きているだけでいいと、どうしてお父さんみたいに言えないのだろう。
「わたしって、どうしてこんなに嫌なやつなんだろう……」
お父さんには、言えなかった。失望させたくなかった。お母さんが泣いたことも、紗彩が、ひどいことを思っていることを。
だから、なるべく笑顔を作って、夕飯の時間には普通をよそおった。
それがなによりみじめで、悲しかった。
夢の中で、紗彩は暗い森の中にいた。小森の森とはちがう、うす汚れた霧の中にある森。
「紗彩」
お母さんの呼ぶ声がする。
「お母さん」
声を上げると、せきがこみ上げてくる。ざらざらした空気が口の中に入りこんで、むせかえる。霧をはらいながら足を前に踏み出すが、霧はよりいっそう濃くなり、紗彩の体にまとわりつくようだった。
「紗彩」
お母さんが呼んでいる。
「紗彩」
お母さん、紗彩は叫んだが言葉にならなかった。口の中に霧が入りこんで口を閉じることも出来ない。苦しさに、涙があふれる。
──楽したいだけでしょう?
──自分が荷物を持つのは、嫌なだけ。
紗彩の周りで声がこだまする。
──お母さんが、病気にならなければ、こんな気持ちにならなかったのにね。
──本当は、心配なんかしていないくせに。
──本当は、自分のことしか考えていないくせに。
「そんなこと、思っていない!」
思っていない、紗彩はくり返しながら耳を押さえた。手で押さえた指のすき間から、声はぬるりと入りこんで、紗彩をちくちくと責め続ける。
「やめてってば!」
こじ開けるように目を開く。見なれた天井のがらが視界に映り、ようやく紗彩は息をゆっくりとはききった。
ベッドからはい出すように下りて、足をついた床が思いのほか冷たいことにどきりとする。びっしょりと汗でぬれたパジャマが気持ち悪く、よろよろと立ち上がって着がえの服を取り出す。
「紗彩、ごめんね」
お母さんの途切れ途切れの声が、耳元でした。
振り返るが、誰もいない。紗彩の部屋は、うす青にそまって海の底のように動かない。
「ごめんね」
再び、お母さんの声がはっきりと聞こえた。悲しい声。
「お母さん」
紗彩は呼びかける。
「行かなきゃ」
新しい服に腕を通し、紗彩は部屋をそっと出た。お父さんの部屋から、規則的ないびきが聞こえてくる。音をたてないように、ドアを閉め紗彩は玄関に向かう。向かう間に自分に問いかける。
行かなきゃって、どこに行くのだろう?
お母さんの病院?
夜中に入れるわけがない。
じゃあ、どこへ?
どこへ?
玄関のドアを開けた時、夜の匂いがした。月の光がさあっと紗彩の顔をなでる。
覚悟はその時、決まった。
「小森へ!」
紗彩は、夜の中に飛びこんだ。
学校にしのびこむのは、たやすいことだった。小森があるのは、学校の隅だったのでフェンスをよじ登り、腕をのばして木の枝にしがみついた。そのまま、木の肌をすべって下りれば小森の中に簡単にたどり着く。
夜の小森は、静かだった。
月の光も細々としか届かない。森は黒いかたまりとなって、紗彩を抱きこんでいる。土と緑の匂いが、足をふみ入れたところから匂い立って、いっそう小森の夜を濃く深いものにしている。
祠の前に紗彩はやって来ると、ひざを折って正座した。
「雨龍様」
昼間の時とちがい、紗彩は手を合わせなかった。代わりに両の手はかたくこぶしをつくり、ひざの上に置いている。
「お母さんに会いたいの」
紗彩は祠に向かって話しかけた。そこに、雨龍がいるという確信があった。紗彩には見えない。けれど、そこに雨龍はいて紗彩を見ているような気がした。
「目的地まで、連れて行ってくれるんでしょ? だから、お願い。お母さんのところに連れて行ってください。お母さん、今、苦しんでいるから。わたし、お母さんのところに行かないといけないの」
祠は動かない。風神や小森さんのように突然、姿を現したり、光りかがやく奇跡のような出来事は起きない。
祠はなにも言わない。それでも、紗彩は辛抱強くその場に座って待った。
カサカサと音がした。
手の甲に冷たい感触があり、紗彩は手を目線まで持ち上げた。
「ずっと、そこに、いたんですね」
流星のような銀色の胴体。青く光る模様が夜の中でほのかに光っている。小森の番になった日、紗彩の手にのってきたトカゲだった。
見えないわけじゃない。
気がついていなかっただけ。
「紗彩」
トカゲの姿の雨龍が、名を呼んだ。
「ようやく会えたね」
「はい」
紗彩はぎゅっと雨龍を抱き寄せる。雨龍の声は、やさしくあたたかい声だった。涙がぽろぽろと流れた。
「さあ、泣いている時間はないよ。月がのぼっているうちに、行こう」
手にのっている雨龍が言った。
「古い友人よ、力をかしてほしい」
首をめぐらせながら雨龍が、森に向かってささやいた。森の闇がことりと動いた。
「いいよ。君のたのみなら」
夜の幕をめくりあげるように、森の中から小森さんが現れる。
「紗彩、ようやく気がついたね」
小森さんがほほ笑んで言った。
「うん。ずいぶんと、時間がかかったけれど」
「そんなことないさ」
小森さんは紗彩から雨龍を受け取ると、両手で雨龍を包みこんだ。
「古き友人と、新しい友人のために。森は祈ろう」
小森さんの指のすき間から、光が弾けた。あわいあたたかい月の光のような、きよらかな光。桃色に、水色に、だいだい色に光は変化して、やがて大きくふくらんで紗彩たちを包みこんでいく。
土の匂い、水の音、新芽のやわらかさ、風の歌声。
紗彩の体はびゅうと空を舞う。
眼下には、小森が見えた。小森さんの白い顔が、空を見上げているのがわかる。
手をのばせば、星にふれられそうだった。こんなに高いところに身一つでいるのに、不思議とこわさはなかった。
雨龍と共にいるのだと、紗彩にはわかっていたから。
「やあ、小森の番人」
耳元で声がして、紗彩が振り返ると風神がいた。若草色の髪を美しくなびかせている。
「もっと速く進みたいだろう?」
風神が片目をぱちりとつむった。
「はい!」
紗彩は大きく返事を返した。
「行っておいで、人間の子」
風神がふうっと息をはくと、新しい風がふいた。川の流れにのるように、紗彩の体は押されて夜空をすべる。
風の中で、紗彩は両手をつき出して、それをやさしくつかむ。
見えないものが、突然目の前にはっきりと形を現す。大きな龍の姿だった。
銀色の胴体に青い模様。星を集めたようなウロコがうねりながら、天をはしる。
「いいかい、紗彩。いつもそばにいる。たよっていいんだよ。どうか、忘れないで」
紗彩は雨龍の体に顔をうずめる。
「大丈夫。きっと、大丈夫」
やさしい声で雨龍はささやく。
「うん。ありがとう」
紗彩は軽く雨龍の体を両手で押すと、夜空の中に一人飛び出した。
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