第30話 長い別れ。
朝陽と共にサラサラと風に流れていったカミラだったもの。残されたのは纏っていた物のみである。人一人の終わりとしては、呆気ないものだった。
破れたドレスと共に、女物の服飾品の諸々が残されている。意外な事に煌びやかな装飾品は一つもなかった。彼女の瞳の様に鮮やかに紅いリボンと、白い左手だけの手袋が妙に印象的だった。
レンツォはふと、己の片手へ握る物に気付く。それはファビオの剣だった。鞘はない。
血液が付着していないのは消失反応によるものか。
本当に、何の痕跡も残さずに肉体だけが消え去ったカミラ。彼女がファビオへ抱いていた想いは何だったのかと考えかけて、止めた。
レンツォに女心なぞ判らぬし、考えても誰も喜ばない事である。それよりも、大切な事があった。
「返すぜ。ちょいと軽過ぎるが悪くなかった」
柄を向けて差し出す。受け取るのに何の問題もない距離である。——筈だった。
「斬るのに丁度良い、ゴホッ……」
言い掛けて、ファビオは血を吐き咳き込んだ。
それと同じ色彩で、胸へと拡がり滲む液体。
慌てて相棒を支えるレンツォは、濃い鉄錆の臭いを嗅いでいる。
「おいっ! どうした!?」
「……み、水を……」
「馬鹿野郎っ!」
ファビオを抱き支えてみれば、ぐっしよりと紅いもので濡れた。血であった。彼の左胸には、ポッカリとした穴が空いている。
それを認めたレンツォは、聖水が詰められた小瓶を取り出しファビオの唇へと当てた。
例え出血に水分の摂取は良くないと知っていたとしても。
エトナの雪解け水が聖別されている。おまけに、
果たしてそれなりの効果があった。ファビオの呼吸は落ち着いて、口内へ溢れた血を吐き出す。
「勘違いするな。お前の一撃によるものではない。話しただろう?」
「お前、洗礼はまだだったよな。探してくる。それなら——」
「無駄だ。それに、覚悟の上だ」
成人を迎えた後まで洗礼の秘蹟を授からなければ、泣きの一回と呼ばれる復活と似た秘蹟が与えられるのはよく知られた事だった。
それで傷や病が癒えるではないが、死は免れる。
この一時の猶予を用い、洗礼や治癒などを施される事で、一命を取り留める者も珍しくはなかった。
心臓の破壊の様な重傷に治癒では足りない、だが洗礼ならば。そう考えるのも自然である。
「……ちっ、しゃぁねぇな。水でも飲んどけ」
レンツォがそう出来なかったのは、もう時間がないと悟ってしまったからである。ファビオを抱え上げたまま、どかりと腰を下ろした。
「……やっぱり水だけじゃ、ちと味気ねぇな」
「贅沢言うんじゃねぇよ」
そう言う癖に、随分と美味そうに飲む。まぁいいやとレンツォは無理矢理に納得しておいた。
その権能を知っている。
ほんの少しでも、貴方の苦しみや悲しみが癒やされますように。と、想い願われた聖水だった。
「そういや、あのバールの酒な。悪くはないが、水や炭酸だけじゃちと味気ない。次はライムジュースでも用意しておくと良い」
「酒の味も判らんバカ舌が良く言うぜ。……それに、ちっとばかし早過ぎんだろう」
あのボトル。スッキリサッパリと言うものの、辛口の乾いた味わいだ。水や炭酸で割りガブガブ呑むには良いのだが、言われた通りに少々味気ない。
ライムの旬は晩秋から冬に来るものの、飲料として親しまれるのは暖かくなってからとなる。さっぱりとした酸味が、春の陽気や夏の熱気によくあった。
「まぁ、少しばかり付き合ってくれや。ここ最近、話し相手がいなくてよ。実はこないだよ……」
昔はお喋りだったファビオである。寡黙を気取ってはいたものの、地金が現れればこの通り、立板に水を流すというものだ。
ついつい誘い込まれ、様々な事柄を話してしまっている。昔の事や今の事、最も多いのはイラーリアについての交々や、マルコ達家族の事などだ。
懐かしく、楽しい時だった。やっぱりコイツの話は上手い。そして、格好付けの寂しがり屋だった。
「……なぁ、お前さんの事だ。全部判った上で、やったんだよな」
頭の回る男でもあった。
瀕死の重傷を負った場合、治癒や洗礼の他にも契約により救われる事もあるという。
ファビオこそが良い例で、心臓を貫かれていても吸血種族へと変生する事で、一命を取り留めている。
『超越者』達はそういった見返りを与える事で信奉者を増やし、力を蓄えるものだとされていた。
そんなファビオだ。必死でカミラを殺せたとして、得られるものなど僅かなものである。
理に叶わない、合理性がない。そういった事に拘る男の振る舞いとしては、不自然に思える。
「そうだ。だから、お前は何も背負うんじゃない。殺したのは俺で、満足して逝くだけだ」
その言葉に、やはり確かめずにはいられなかった。世界の中へと還元された恋する女の為にも、コイツ自身の為にも。
「……愛していたのか」
言葉にすればありふれていて、陳腐なものである。
レンツォとて、愛や恋だを烏滸がましくも語れる程に深い考えはない。言葉として漏れたものも、感覚的なものでしかなかった。
「……憎んでいたのかもしれないし、同情だったのかもしれない。本当に、恋焦がれていたのかもしれないな。雁字搦めなアイツを解放してやりたかった。気持ちなんてもの、俺も判らん。もしも、そういった全部をひっくるめた『何か』をそう呼ぶのなら——」
もう僅かにしか時間は残されてはいなかった。
ファビオの瞳孔に散大が見られ、元々蒼白かった顔色は土気色となっている。痩せ細った身体は筋肉の収縮から小さく跳ねた。
それでも、皮肉な笑顔を浮かべて。
「——んーだよ、レンツォ。泣いてんのか。相変わらず情けねーヤツだ」
「バッカ。汗に決まってんだろうが。さっさと追い掛けて行ってやれ」
昔はコイツに負けて、散々涙を飲んだものだった。その度に、「泣くなよ」などと揶揄われていた。勇敢な男は涙を湛えても流さないものなのに。
「何が汗だ。俺に負けてピーピー泣きながら剣を振ってた癖によ。泣き虫レンツォ君よぉ」
人の恥ずかしい記憶を思い出させる、嫌なヤツである。『英雄』に憧れた昔のレンツォの主武装は剣だった。御伽話や絵物語においての主人公は大抵が剣であり、影響を受けた彼が剣を握るのに不思議はない。
だが、才もなければ身に付けた修練があるのでもなく、当時はファビオに散々に打ち負かされて、悔しさに剣振りを繰り返したものである。
後にザック先生やセッシ師から教えを受ける中で、得物を得意とする斧へと変えていた。
「あーあ。だけど、惜しいよな。アイツらの子供も、お前らの子供も抱いてやれないのは。俺達みたいになるんじゃねぇぞ。幸せにしてやれ」
「ばっ、お前、何言ってんだよ」
「……ったく、素直になれって。お前らはお似合いだよ。どんな困難だって、支え合っていけるさ。何てったって、お前さんは俺の相棒で、あの方はお前が恋する女なんだからな」
「……」
だけど、優しいヤツだった。周りをよく見ていて、欲しい言葉で勇気を沸かせてくれる。
「……さて。そろそろ潮時だ。俺は一足先に冒険者を引退させて貰う。お前はこれからも毎日、困難な『大冒険』にでも挑んでくれや。ちっとばかし、長いお別れだ。あばよ」
どんどん身体はて熱を失ってゆく。高く積もった白銀の積雪のものへ、近付いていった。終わりは近い。
その癖に、瞳に宿る強い意志を失わない。
——俺の相棒は、最高に格好良い男で、凄い奴なんだ。どんな時でも誰かの幸せを祈れる、優しいヤツなんだ。
レンツォはファビオの手を握る。ゴツゴツとした瘤だらけの掌だ。それは鍛錬を積み続け、諦めずに闘い続けた男の勲章だった。
だが、ファビオは間違っている。冒険者達の別れの挨拶は既に発明されている。それが咄嗟に出て来ないコイツは、冒険者としては三流だ。
「おう。ボケが来るまで待っとけや。やさぐれファビオ君や。じゃあ、またな。相棒」
「ククッ。なり損ないのレンツォが言うではないか。ならば、ボケ切った頃にでも。またな、相棒」
冒険者はいつだって、どんな時だって再会を約束するものだ。生き残る事こそが、冒険者第一の使命。
伊達ではない。標語でもない。誓いであった。
「嗚呼……。良い夢だった……」
そしてファビオは事切れる。当然だ。心臓はとうに止まっていた。レンツォは蒼い空を仰ぎ見た。
抜ける様な、夜明け前までの雪模様が嘘の様な、澄み切った空だった。
陽光に照らされて、季節外れの鴛鴦の番達が飛んでゆく。
仲睦まじげに、しがらみなどないかの様に、空を自由に羽ばたいて。
頬を伝うものを拭うことが出来ない。それは世界の全てを想うが故に、流れてしまうモノなのだから。
「天にまします我等が父よ。願わくは御名を崇めさせたまえ。御国の来らん事を、御旨の天に行われる如く地にも行われん事を。我等に日用の糧を、今日我等へ与えたまえ。我等が人に赦す如く、我等の罪を赦したまえ。我等を試みに引き給わざれ、我等を悪より救い給われ。そうあれかし」
祈りの言葉が聴こえる。
ここは、冒険者組合シシリア州カターニア市支部、その中に置かれた礼拝堂である。年が明けた後にファビオの魂を主の御許へと送る儀式、所謂処の葬儀が営まれていた。
参列者は五名。レンツォとイラーリア、マルコ達夫妻にザッケローニ。ファビオの肉親などは既になく、少なからずも関わりのあった者達が集っても、それだけしかいなかった。
「父よ、永遠の安息を子らへと与へ、絶えざる光を子らの上に照らし給え。子らの安らかに憩わんことを。そうあれかし」
シシリア州統括にして、いと尊き『聖母』様の祈りの言葉を聴き流しながら、レンツォは棺を眺める。
その中に遺骸はない。山から連れて帰らなかった為である。僅かな遺品と遺髪のみを持ち帰っていた。
遺骸を異界内へ残さずに持ち帰るのは、冒険者としての
レンツォが敢えてそうせずにファビオの遺骸を山中へと埋めたのは、二人を引き離すのが忍びなかった為である。ただの感傷であるが、行動へ影響するものでもあった。
状況の報告をするものの、特に煩い事は言われないものだ。あくまでも努力目標であるからだった。
実際問題として異界から遺骸を引き揚げるのは難事であって、容易な事ではない。それで犠牲が増えても仕方がないからである。現実と折り合いを付けるからこその、努力目標であった。
実際に、レンツォとて六十名もの無防備な人員を下山させるのには苦労している。
その後の面倒は組合に見て貰う事となったが、大変は大変であった。
正直な話、これら個人で取れる責任の範疇を超えている。多少の目零しをして貰わねば、やっていられやしなかった。
そして理も律も異なる異界内部での出来事に対し、現界での法などか適用される事もない。
異界内部は治外法権、自己責任のみが適用される。
「父よ、我が祈りを聴き入れ給え。我が叫びを御前に至らしめ給え」
必要なのは気持ちへ区切りを着ける事。その為に儀式などがあり、また人々が縋った。
レンツォは既に区切りを着けている。
つい最近顔を会わせたばかりであろう女二人も沈んでこそいるが、問題はない。
彼女達には支えがある。アイツが望んだ様に、日常という名の『大冒険』を送っていれば、嫌でも喪失の悲しみは想い出へと変わってゆくものだ。そうあるべきだし、そうでなくては報われない。
男二人にも思う処はあるのだろうが、受け入れるしかない事だ。冒険者にとって、死は隣り合わせの出来事でしかなかった。
最も親しき現象を踏破出来なければ、次に呑まれるのは己自身である。重荷を背負っても、立ち上がるしかないものだった。
「父よ。世を去りたるこの霊魂を父の御手に委ね奉る。子らが世にありし間、弱きによりて犯したる罪を、大いなる憐れみもて赦し給え」
惜別の祈り。区切りの儀式。必要なのは残された者達にこほであった。
カミラ程の著名人が行方を眩ませた事で世間は騒然としたものだが、それもやがて収まった。
彼女は、眷属である侍女達の契約解除という状況証拠から推定死亡扱いとされた。導きの光が少数精鋭の捜索隊を出してはいるが、見つかる事はない。
それに、ガムラン自体がもうそれどころではないだろう。支配者たる母を失って瓦解する。それはない。
彼女はガムランにとっての最重要人物であったが、既に組織は個人の力を超えている。
例え心酔し、慕っていたとして、それで組織運営に支障が出る事はなかった。
だが、彼女の利権や遺産は争いの火種となるだろう。残された者達は己の為にも争いを避け難かった。
そんな事情など、レンツォ達には割とどうでも良い事である。火の粉が降り掛かるならば、払うまで。
そう覚悟も完了している。
重要なのは、そんな彼女でさえ取り残され、やがて忘れられるという事実。いわんや、無名のファビオを気に掛ける者など、殆どいない。
「私と子ら、この世全ての父の子より願い奉る。ただ一時の安らぎを。そうあれかし」
祈りが結ばれた。後は慣習による幾つかの工程を踏めば葬儀も終わる。
誰もが馴れたものである。この歳まで生きていれば、別れの機会など幾らでもあった。
そこで、赤子のむずかる声を聴く。マルコ達の息子のものだ。四ヶ月になる。連れて来ているのは、まだ手を離せないからだった。
『聖母』様より葬儀の間の子守りは任せておきなというお言葉を頂いて、二人も甘える事となった。
「はいはい。大丈夫ですよー。怖くないですからね。——我が心は、ただ汝に寄り添う。ただ一時の安らぎを。——
そして、赤子をあやす幼女の声音であった。
赤子は穏やかに眠る。離れた所では猫が「なーご」と鳴いていた。
幼女は赤子と共に、礼拝堂に置かれた寝台の上にいる。添い寝であった。
周りに大人も達いる事であるし、彼女が適任なのだろう。つまりは心配はないという事で、流しておいて問題ない。大人達とは忙しいものなのだ。
やがてしめやかに儀式もまた結ばれた。
「俺達の同胞、ファビオの旅立ちへ乾杯」
ザッケローニが音頭を取ってグラスが合わさる。チンという、澄んだ音が鳴った。
男達は冒険者組合に併設されたバールへ来ている。個室であった。葬儀の後の酒盛り
新たなボトルが入れられて、料理も何品か注文している。昼を過ぎ、夜というにはまだ早い。
夕暮れ時のこんな時間帯でも、酒場は開いているものだ。ビタロサで習慣とされる、アペリティーヴォの為である。飲兵衛達にはありがたい習慣であった。
マルコとザッケローニを交え、思い出話は盛り上がる。学園生時代のバカ話などだ。昔話は楽しいものである。元は生徒と教師の立場であってもそれは変わらない。益体もない話題が尽きる事もなかった。
「アイツも冒険者を続けていたんだな……。もし、俺も……」
だが、しんみりと呟いたマルコの言葉で空気は変わる。その声音の中に後悔が滲んでいたからだ。
先を聞かずとも判る。もし一緒に居られていて、共に冒険者を続けていたならば、ファビオは死なずに済んだのではないか。というものだからだ。
「マルコよぉ。その先は言いっこなしだぜ。そいつぁレンツォへの侮辱だ。おめぇも良い大人なんだから、もう少し考えろ」
「す、すまんレンツォ。そんなつもりじゃなかった。すみません、ザック先生。ありがとうございます」
ザッケローニは流石に大人であった。マルコの言葉は裏を返せば共にいて、救えなかったレンツォを責めるものにもなる。
漏れ出てしまった感情からであるので悪気はないのだが、釘を刺せるのはやはり大人の、教育者の貫禄であった。
「気にすんな。俺も自分の無力に思わん事もない」
「……んな事ぁねぇよ、悪ぃ。ただよ、もしも俺もお前らと一緒にって、思っちまった」
マルコがグラスへ口付ける。レンツォも同じくグラスを呷った。ライムジュース割りはとても酸っぱい。それがお互い顔に表れていて、苦笑しあった。
「年寄りの繰り言だがな。懐かしむのは構わねぇ。コイツはコイツの、アイツはアイツの、そしてお前はお前の選択をして、今がある。お前達は俺の誇りだ。それだけは、忘れてくれるなよ」
ザック先生は否定しない。積み重ねた今を認めてくれている。それが、自身の誇りであるとも。
「飲もうぜ。辛気臭いのはなしだ。そんなもん、お喋りなアイツは喜ばん」
三つの杯が合わさった。
もしもあの時、こうしていれば、ああしていれば。
そんな後悔がなく、毎日を送れる奴なんていない。
人生なんてもの、いつだって後悔の連続だ。
全てが上手くいく。そんな都合の良い生き方なんてものはなかった。
もしもあの時、余計なアドバイスをしていなければや、もう少しお節介を焼いたなら。違った今があったんじゃないか。
レンツォにだって、そんな後悔があった。
でも、過去は変えられないし、変わらない。続くのは今と未来だけだから。
「中層でだって、折れない剣を打ってやる」
「上層でもだろ。期待してるぜ、鍛治士のマルコ」
ファビオが『刀剣顕現』にて具現化した剣の中には昔、マルコが打った剣があった。
その剣は学園生時代に折れてしまっている。
調子に乗って中層へ潜り、クマの相手をした時だ。
安全討伐に必要なのは、中堅冒険者達での四人パーティ。錬鉄の士にもなっていなかった四人にとっては大敵だった。
その時は半死半生ながらもなんとか打ち倒し、無事生還している。パーティとはいえ、その時が初めてのクマ殺しであった。
クマとの戦いで男三人は重症を負った。今更ながらの無謀さに、死なずに済んで良かったと思える。
最前線で盾役を請け負うレンツォに怪我は付きものであるが、マルコとファビオが大怪我をしたのはマルコの嫁さんを庇ったからだった。
恋をしていたのだから仕方がない。男二人は恋する女を守る為に身体を張った。おかげでクマは倒せ鉄位階ほ査定に乗ったは良いものの、その後にギクシャクとする事となった。
レンツォが彼女から恋愛相談を受けたのはその時期だった。
そんな過去は変わらない。だが、ファビオはマルコが打った剣を大切に持っていた。折れてしまい、剣としては用をなさなくなった想いを。
レンツォが持ち帰ったのはその一振りだけである。
「その意気だ。残された俺達だが、自分の足で進んで行ける。そして、未来にその背中を見せてやれ。ファビオや沢山の先達が俺達に、見せてくれた様にな」
先生が言うのは少し旧い価値観だ。個々の行いは周囲へも影響を与えるもので、普段からの行いや心掛けこそが、より良い今日を、より良い明日を築くという教えであった。
努力して傷付いて、自分に還るものは僅かなものなのかもしれない。
けれども何も諦めず、やれる事をやり、出来る事を増やしてゆく。そんな自分でいる事で、誰かが同じ想いを育むものだと信じる教えであった。
「そういや先生、うちの次男坊と先生のお孫さんって同級になるんだな。先の話にゃなるけどよ、どうかよろしく頼みますぜ」
「お前ぇ、俺に幾つまで教師やらせる気だよ」
「そりゃ、生涯現役ですよ。先生が教師以外に出来る事なんて、ないじゃないですか」
ザッケローニは「ひでぇ事言いやがる」なんて言いながら機嫌良く笑う。ちょろいおっさんであった。
男達は益体もない話で盛り上がる。
そんな教えなど、声高に叫ぶものではないからだ。
それは男の格好の付け方や、意地の張り方だ。
言葉にすれば軽くなる。だからこそ、行動で示し続ける。上手くいかない事はあるだろう。失敗する事もあるだろう。間違える事だってきっとある。
それでも己を貫いて、歩んで行きたいものだった。アイツの様に。
「あ? もうボトル空いたか。そろそろお開きにすっぞ。お前らも家でカミさんが待ってるんだから、真っ直ぐ帰れよ」
アペリティーヴォで長居はしない。酔い潰れるなど論外だった。
大陸の習慣として、食事は朝晩の二回摂る。肉体労働などは昼を摂るものの、夕刻ともなれば腹も減るものだ。日が暮れての夕食までの我慢は辛かった。
その為の、胃を開くを意味するアペリティーヴォであった。軽く飲み、軽食を摘んでの団欒。
そんなささやかな時間を楽しんで、気持ち良く夜を迎える為の習慣であった。
そういったものなので、飲み過ぎても、食べ過ぎてもいけない。酔い潰れてしまったり、夕飯が入らなければ、怒りを買うからだ。
用意して待っている者への敬意を、決して忘れてはならなかった。
それぞれに帰路に着く。またな。と手を振って。
「——それで、ですねー。もしかしたら、三人目を授かっているかもですって。素敵ですよねー」
「……マルコあいつ、猿なのか」
家、というか相変わらずの寮暮らしであるが、帰れば待っているのはイラーリアである。勿論夕食を用意してであった。
主食が米であるのはある意味当然で、主菜は甘めに味付けられた南瓜と豚肉の煮物である。
副菜として置かれるのは冬野菜と凍り豆腐の旨煮とミネストローネであった。加えて卵焼きがある。
「肉っ気が足りねぇ……」
「あらー? バールに行かれていたのでは?」
「ザック先生、健康の為に肉食を控えているらしくてな。俺らも頼み難くて」
「あら、あらー。何か用意しましょうか?」
「いや、良いさ。一緒に食おうぜ。頂きます」
こんな小さなすれ違いなどはある。状況や都合によりお互い良かれと思っていても、それが最善とは限らないものなのだ。
マルコ夫妻やザック先生一家、そしてアイツらも、似た様に穏やかな夜を迎えているのだろうか。ふと、そんな事を考えてしまう。
「それでですねー。もう名前も決めているんですって。とっても優しい子になります様にって——」
「ああ、うん。良い名だな。ちよっと意地っ張りで喧嘩っ早くなりそうだがな」
誰かの名前を貰い、新たなる未来へ贈るのは珍しい事ではない。歴史上の偉人や、尊敬する者と同じものを子に贈るのはありふれた事である。
大切なものだから。大切な人だから。残したいし伝えたい。そんな願いからのものだった。
夕食も済み、イラーリアが洗い物をする音を聴いている。聴きながら、銃の手入れをしていた。
そう使うものではないし、使うつもりもあまりない。だからこれは習慣で、少しばかり怠惰な気持ちでやっている。欠かしはしなくとも、力を入れて頑張るものでもなかった。
「それでは、お暇しますねー」
彼女が立ち働く音が止み、上着を着込む音が止まれば、掛けられる声は決まっていた。そして、それに返す言葉も。
「送って行くよ。もう少しだけ、君と一緒に居たいんだ」
「あらあらー。お上手になってしまいまして。では、エスコートをお願いいたしますわ、シニョーリ」
「スイ、シニョーラ。お手をどうぞ」
差し出される手。家事と野良仕事により、少し荒れた指。日常という『大冒険』を弛まず熟し続ける肌。
二人して、夜の帷の下へと躍り出る。冷えた空気が肌を刺す。寒くはない。隣には手を繋ぎ、共に歩む彼女がいる。
イラーリアが夕食を作りに来るようになった最初の頃は、少し気取った言葉を掛けただけでも固まっていたものだ。
今は流石に慣れたのか、そんな事もない。手を繋いで送るのにも、すっかり慣れてしまっていた。
「明日から、調査の為にお山でしたよね。気を付けて行って来て下さいな」
「『ソーレ エ グーフォ』としてだ。悪いな」
「もー。気にしないで下さいなー」
ファビオ不在のままでのパーティ参加にはそれなりの意味がある。
ファビオは死後、自分の資産を契約が切れた眷属達の社会復帰へと当てる様に手配をしていた。
この事からも判る通り、元々死ぬ気であったのだ。
パーティでの報酬は共有口座に振り込まれる為、不在であっても手配通りに金は流れる。その為に、ここ最近はパーティとして依頼を受けていた。稼ぎは減るが、不満はなかった。不満があるとすれば——。
「だが、暫く君の料理が食えないのは寂しいな」
「帰って来たら、ご馳走を用意しておきますので、キリキリ働いて下さいねー」
「お前なぁ、可愛げとかを何処に忘れて来たんだよ」
こういった物言いにも慣れてしまっていて、レンツォは少々面白くなかった。
「お月様も映えてますねー。……お二人も、何処かで眺めておられるのでしょうか」
空に浮かぶのは、満ちるにまだ少しだけ足りない夜の顔。白く輝く十三夜。
彼女には、全てを伝えていた。レンツォの憶測を含む全てをだ。
忙しさに一段落がつき、ポッカリと時間が空いてしまった頃に話してしまっている。
後悔があり、自己嫌悪があった。もっと何とかなった筈だという、自惚れがあった。気持ちを一人で抱えてはいられなかった。
そんな頃、漏れ出た愚痴から促されるままに話させられている。少しだけ、泣きそうにもなった。
彼女は何も返さなかった。答えはなかった。
ただそっと、寄り添っていてくれた。ただそれだけで、少しだけ気持ちは軽くなっていた。
「うん。やっぱり、共に歩むのは君が良い。穏やかながらも気高き真珠、イラーリア・ルチア=アルトベリ女男爵。貴女へ永遠を誓おう」
「……」
固まってしまうイラーリア。まだまだ畏まった物言いには弱い様でいて、レンツォはその反応に大変満足している。
イラーリアは年明けと共に正式に叙爵されている。女男爵様だった。
調査を終えて月が変われば、王都ではお披露目の為の叙爵式がある。形式的なものであるが、そういった事にもお互いに、慣れていかなくてはならない。
日々経験を積み、成長していかなければ、あっと言う間に置いていかれてしまう。
だからこそ、やる事など変わりはない。
己の信念に基づいてやれる事をやり、その幅を広げてゆくだけだ。
ファビオが、先人達の誰もがそうしてきた様に。
レンツォは、長いお別れの後に再会する相棒へ伝えてやらなければならない。
時が止まってしまい退屈している親友へ、面白おかしく沢山の冒険譚を聴かせてやり、羨ましがらさねばならなかった。
困難はあるだろう。辛酸も舐めるだろう。それでも進み続けようと誓う。
隣を見る。護りたい人がいる。幸せにしてやりたいと望む女がいた。
だからこそ折れないし、諦めるつもりもない。
目の前で手の届くモノならば、何一つ取り零さずに生きてやる。泥臭く、みっともなくとも精一杯に。
挑むのは、最も困難な『大冒険』である。
誰もが挑むもの。油断はなく、傲りもない。覚悟と誓いがあった。
——毎日が冒険の日々。それこそがビタロサ王国シシリア州における、一般的な冒険者の日常であった。
ビタロサ王国シシリア州における、一般的な冒険者の日常。 @kazuatto
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