第2話



 笛の音が聞こえた。

 紅葉の庭を抜けていくと、音は段々と近づいてくる。

 近道だと庭を斜めに歩いてきた賈詡かくは口笛を吹いた。


「ホントに何でも出来る人だねえ」


 郭嘉かくか許都きょとにやって来てから、彼の住居を訪ねるのは初めてだった。

 長安ちょうあんの私邸は訪ねたことがあるが招かれて行った。

 郭嘉の場合、約束も無しに訪ねていくと昼下がりだろうと女と寝ていることも本当にあるので、魏軍内では郭嘉の私邸は決して約束なく訪ねていくなという暗黙の了解があるのだ。

 とりあえず笛の音がしてホッとした。

 ということは女の子たちを侍らせて笛の音を披露している可能性はあるが、複数の女性と寝室でお楽しみ中ということはないということだからだ。


「やあここも綺麗な庭じゃないか。あの池、小さい滝があっていいなあ」


 笛の音が止んだ。

 ガサガサと進むと、高低差のある庭の紅葉の木の下で郭嘉が腰掛けて、笑いながらこっちを見ていた。


「今、やだなー。笛の音に誘われておじさんが来ちゃったよって思ったでしょ」


 郭嘉かくかが声を出して笑っている。

「うん。思った。大抵綺麗な女性が寄ってくるんだけどね。

 私も病療養中に随分笛の腕が落ちたかなあ」

「まあガッカリする気持ちは分からなくはないけども美味しいお酒持ってきてあげたから追い返さないでくれ」


「君が酒を持って来てくれるなんて珍しいね。

 まだ午前中だよ」


長安ちょうあんでは何でかあんたのとこに酒持って行くと、翌日には荀彧じゅんいくのとこにその話が行っててあんたに朝から飲ますんじゃねえって、強烈な締め技食らっておじさんの四肢ちぎれそうになるからね。持って行かないことにしてる」


「心配性だなあ。文若ぶんじゃく殿は。まあそこがあのひと可愛いんだけども」

「天下の荀彧様を『可愛い』とか言っちゃうの大陸広しと言えどもあんただけだろうねえ」


「約束もなく私の私邸にやってくるなんていい度胸だね賈詡かく


 郭嘉は子供のように紅葉の散った緑の芝に直接座って両足を伸ばしながら、笑っている。

「いや、そういうことするとあんたの場合シャレにならんってことはよく分かってる。

 いつもはこういうことしないよ。

 ちょっと今日は急に時間に空きが出来たから、話しておこうと思って。

 ちゃんとあんたが寝所にいるようだったら引き返すつもりだったよ。

 まあ何が『ちゃんと』なのか分からんけども」


「ふーん?」


 賈詡は持って来た酒を持ったまま、両手を上げた。


「勿論今、都合が悪いなら出直す」


 敵意は無いよ、と示せば郭嘉はゆっくりと立ち上がった。


「まあ今日はとても気分がいいから構わないよ。

 そっちの四阿しあで話そう」


 笛を美麗な箱にしまうと、脇に抱えて歩き出す。


「楽も出来るってのは聞いたことあったけど実際あんたの笛を聞いたのは確か……初めてじゃなかったかな」

「仲のいい人にしか聞かせないからね」

 笑いながら郭嘉が返す。

「そうなの?」

「軍略よりは、楽は下手だから」

「あんたの下手は普通の人の上手なんだねえ」

 賈詡は笑ってしまった。


「文武両道で楽も出来るってホント嫌な人だね」

「賈詡もやればいいじゃない。楽もいいものだよ。

 無心になれるし。美しい楽師と合奏も出来る」


「アハハなるほどねえ。

 あんたを見てると、なんで曹操そうそう殿があんたを気に入ってるのかよく分かるよね。

 美酒に美女に楽の才。

 趣味が全く同じなんだねあんたたち」


「うん。そうなんだ。だから曹操殿といると楽しいんだ」


 四阿に辿り着くと、そこにあった美しい杯を郭嘉が自分で用意して、どうぞと賈詡に席を促す。


「ではお邪魔しますよ」


「どこのお酒?」

雲南うんなん

「珍しい。いいね」


 郭嘉かくかも椅子に座った。

 早速賈詡が酒を注ぐのを、頬杖ついてまるで子供みたいに目を輝かせて見ている。

 女たちがこいつの一挙一動にめろめろしている理由がよく分かる。


 単なる優れた才能、それだけではなく、郭嘉は人間としての魅力の溢れた男だった。


 幾つもの顔を持ちながらも、そのどれもが何故かどれも郭嘉らしいと思わせてくるのが不思議だ。


(そういえば……)


 瑠璃るり潁川えいせんの郭嘉の実家にいたと言っていた。

 潁川は荀彧の実家もある。

 荀彧じゅんいくの実家は兄弟や家族がたくさんいて、私塾や道場もしていて、いつも人が溢れて賑やかだったと同族の荀攸じゅんゆうから聞いたことがある。

 

 しかし郭嘉の実家の話はあまり聞かない。

 郭嘉は一族でも、かなり異能だと荀彧が話していた。

 この二人は幼なじみのようにお互いを昔から知ってるらしい。

 荀彧なら郭嘉の家族の話は知っているのだろうがそんなことも話さず、聞かず、ここまで付き合って来ていた。


「おいしい」


 注がれた酒を少し喉に流し込んで、郭嘉は鶸色ひわいろの瞳を輝かせる。


「澄んでいるけど苦みがあるんだね。美味しいよ。後味が綺麗だ。

 朝から飲むのに丁度いい感じ」


「そりゃ良かった」


 郭嘉の才や多彩な魅力が一族の気質ならばもっと家自体が有名だろうから、やはり郭嘉が突出して異質なんだと思う。


 あーあ。嬉しそうな顔しちゃって。

 

 こんな顔で一緒に酒を飲まれたら、そらまた郭嘉様と飲みたいわ♡ ってなるだろうねえ。


賈詡かくも飲みなよ」

「うん」


 ここで午前中は飲むことに決めたらしい郭嘉は、椅子の上に足をあげて背もたれに気持ちよさそうに体重を預けた。彼の場合そんな行儀の悪い仕草もどこか絵になるので、咎められない雰囲気になる。


 賈詡も飲んで、味を確かめて頷く。


 賈詡はあまり普段自分で酒に拘らないため、用意された酒をほどほどに飲む。

 しかし郭嘉は非常に拘りの強い男だったから、酒の詳しい副官に「とにかく珍しめで美味い酒を用意してくれ」と頼んで用意してもらったものを持って来た。確かに美味い。

 これならいい話が出来そうである。 

 

「先生はさ、政にはそんなに関心ないの? 荀彧殿みたいに。

 あんたの聡明さなら畑はあんまり問わないとは思うんだけど」


「突然どうしたの」


 郭嘉が背もたれに沈んだまま、笑って返してくる。変な問いだと思ったのだろう。


「いや単にどうなのかなってふと思っただけ」

「あなたはないの?」

「ん~~~~。まあ、どっちかというと無いかもな。

 宮廷の人付き合いとか嫌いだもん俺。軍師だといい策出せばよくやったよくやったって誉めてもらえるけど、政っていい策出しても妬まれたり人脈しっかりしてないと聞いてもらえなかったりするの多くてすっごいそういうの嫌」


「はは……わたしもどっちかというと貴方寄りかもね。

 普段は戦場で、たまに城に戻る。

 そういう暮らしの方が合ってると思う」


「へぇ勿体ない。あんたなら宮廷人生活も似合うのに」

「私と殿の唯一合わない趣味がそれなんだ」

「なるほど……」

「私が長安ちょうあんの都が好きなのは、たまに殿に会いに行くからだ。

 少しの間だけ帰還して、ちやほやしてもらえる。

 常にあそこで暮らしたら優しく甘やかされすぎて疲れ切ってしまうよ」

「曹操殿もあんたの涼州遠征は心配してるんだろうねきっと」

「まあしょうがない。私が反対した南進を強行して、負けて帰ってきた罰だよ。

 心配しながら帰還を殿にも待ってもらう」


 もう赤壁せきへきのことを話しても、郭嘉の表情に揺れは見えない。


 こいつの精神は本当に頑強だ。

 身体も頑強だったら天下無双だったなと賈詡かくは思った。


 さあそろそろ本題に入ろうか、と彼は考える。

 別に、郭嘉の意志もちゃんと尊重するし、彼にとって心配してくれる者がいるということは、決して悪しきことではないのだから普通に話していいだろう。

 嫌な話をするわけではないのだ。


 ――と。


 郭嘉がこの笛は快癒祝いに殿にもらったんだよと美麗な装飾の笛の模様について話している時だった。

 これはね、とこちらを見たとき。



「……先生。もしかしてあの子、あんたの身内のお嬢さんかい?」



 郭嘉が目を瞬かせる。

 それからすぐ手に持っていた笛を箱に戻して、小さく笑んだ。


瑠璃るりに会ったの?」


「会ったっていうか……あんたのことを心配して俺の所に涼州遠征のことを聞きに来た」

「瑠璃が? へぇ……」

「いや、怒らないであげてよね」

「怒ってはない。少し驚いただけだ。あの子が私のやることに口を出したことは一度もないから」

「心配してたよぉ。涼州りょうしゅう遠征は厳しくなるはずだから、病み上がりの郭嘉様に何かあったらって。今、思い出したわ。そっか、庭先で話してたのあの子だったんだな」

「……君って朝の散歩が趣味なの?」


「趣味だよ。毎朝してる。本当は夜中にうろつくのが好きなんだが、それで昼間の軍議で居眠りばっかりしてた時期があって荀彧大先生に激怒されたことがあったから大層反省して早朝起きるようになった」


これは本当に初耳だったようで、目をパチパチさせている。

「それは知らなかった。早起きするなんて酔狂な人がこの世には本当にいるんだね」

「早起きしたくらいで酔狂扱いすんじゃねーよ。

 でも……そうかあ。

 遠目からだったから顔見えなかったんだけど、あの子だろ。

 いやおかしいと思ったんだよな。確かに先生女の子には優しいけど、いくらなんでも黙って平手打ち受けたりしねえだろって思ってさ。

 連日揉めてたから非常に珍しいなって思ってたんだが、身内だったんだねなるほど。

 それで様子がいつもと違ったんだね」


 郭嘉が膝に頬杖をつく。


「どうして分かった?」


「いや、顔。昨日瑠璃殿に会った時こっちをジッと見て来た顔と、今こっちを見たあんたの顔が驚くほど似てた」


 郭嘉は苦笑したようだ。


「……そうなんだよね。私は親にも兄弟にも顔は似てないのに、皮肉なことにあの子とだけは顔が似てるんだよ」


「……訳ありかい?」

「訳ありというわけではないけど。妹だ。片方だけ血が繋がってる。母親が違うんだ」


「妹? けど…………あんたの家に仕える侍女だって言ってたぜ」


「侍女……? いや。とんでもない。妹だよ」

 郭嘉が一瞬怪訝な表情を見せて、それから首を振りはっきり否定した。

 あえて賈詡が酒に手を伸ばし押し黙ると、郭嘉は苦笑した。

「父はあの子を侍女のように扱ってる。死んだ母が、瑠璃の母を嫌っていたからね。

 子供の頃に母子共々家を出された。ある時、滎陽けいように父の昔の女が住んでると、下働きの者が話してるのを聞いたことがあって、とても美しい人だと話していたから気になって見に行ったことがあった。

 その頃は彼女はもう再婚していたけど連れ子だったから、なんというか新しい家族の中でも瑠璃は粗略に扱われてた。

 ……私は女の姉妹がいなかったから。妙に可哀想になってしまって。

 それで文若ぶんじゃく殿に相談したら彼の知り合いの養女にしてもらった。これは公達こうたつ殿も知ってるよ。養女になってからは、育ての親には大切にされて穏やかに暮らせてる」


「そうか。うん、綺麗なお嬢さんだったよ。ちゃんと躾けられて大切にされてる感じがした。あの子は下働きだって言ってたけど、そういう感じがしなかった」


「そんな事情があったからね。つい気になって。養女に出たあとも、元気に暮らしてるか気になって、時々見に行ってしまった。郭家とは色々ある子だから、他人のふりをしたかったんだが」


「顔似てるよな」


 賈詡が笑ってしまう。

「そうなんだ。あるとき見つかって素性を聞かれてしまって。

 誤魔化せなかった。片方の血が繋がってる兄だって白状して、恨み言を言われるのも覚悟したんだけど、……瑠璃は私を慕ってくれた。

 勉学に興味があるようだったから、字を教えてあげたよ。

 時々本を持って行くととても喜んでくれて。

 郭家に残っていたら、きっと仲のいい兄妹になれたね」


 郭嘉が注いでくれと杯を指差すので、賈詡がそうして杯を渡した。


「父の手前、一応隠れて付き合ってた。

 でも私が北伐遠征のあと病に倒れた時、心配して訪ねてきてくれたんだ。

 見ての通り私たちは顔が似てる。

 すぐに自分の娘だって父は分かったから、家には上げられないと言ったそうだけど、看病させてくれと無理に頼み込んで……まあそれで、家の娘ではなく侍女としてならいいとそう言って瑠璃を家に上げた。

 そのことで、私は今も父と喧嘩してる。

 彼女に謝罪して自分の娘として扱わない限り許さないってね。

 病の時はそういう事情も知らなくて、てっきり妹として戻ってきたんだと思ってたから。

 まさか下働きの娘として働きながら側にいてくれたと知らなかった」


「なるほど。そうだったのか。だからあの子はあんなに必死に涼州にあんたを連れて行かないでくれって頼んできたんだね」


 郭嘉かくか四阿しあの窓から舞い込んできた、紅葉を手に取った。


涼州りょうしゅう遠征に連れて行くなって?」


「俺から説得してくれないかって言いに来たよ。

 あんたと話したけど、全く聞いてくれないからって。

 あとごめん。勝手に今、月天宮げってんきゅうの方に泊めてる。

 甄宓しんふつ殿の女官の曹娟殿に頼んでね。複雑な事情知らなかったんだよ。あんたの妹さんだって知ってたらちゃんと兄上のとこに帰んなって言ったわ。

 侍女だなんて言うもんだからその方が良かれと思って」


「いや……それはいいんだけど。何故曹娟そうけん殿に?」


「昨日も甄宓殿の女官と一緒に来た。

 恐らくだが今の話を聞いてると、最初は甄宓殿に会いに行ったんだろう。

 まあ甄宓殿は軍事にも政にも関わってないが、曹丕そうひ殿下の正妻だからな。

 あんたにものを言える人は魏内でも限られてる。思い浮かんだのが甄宓殿だったんだろうさ。それで、曹娟殿が甄宓しんふつ殿より俺に頼んだ方がいいと助言したんだろうね」


「なるほど、これでなんで貴方が会いに来たのか、ようやく分かったよ。

 悪かったね賈詡かく。余計な手間を取らせて」


「いや。別に余計な手間ってわけじゃない。

 実のところ、俺も今回はあんたは休ませた方がいいんじゃないかなって気はしてる。

 俺から副官にしたいなんて言ったくせに悪いけどな。


 分かるだろ? 今回は複雑なんだ。

 三国は今、互いの行動を見合ってる。


 俺たちの涼州遠征に、呉蜀ごしょくがどういう動きを見せるかも分からん。

 一応涼州の残存勢力を制圧だけして定軍山と連動出来るような大きい砦を作ることが目的だが、殿下も言ってた通り、これによって方々に飛び火する可能性も無くはない。

 荀彧じゅんいくがまだ曹操殿の側にいるからな……。

 あんたには許都きょとに残って曹丕殿下と、各方面の状況を見てもらった方が全体にとっていい気がするんだ。

 別にこれは必死に考えた言い訳じゃない。本音だ。

 涼州遠征でさえ、場合によっては増援が必要となるかもしれんし、

 ……なあ郭嘉殿。

 まずは先発として我々が発ち、状況が少し落ち着いてからあんたが増援部隊を率いるってのはどうだ? そうすりゃ、早くても時期は雪解けくらいにはなると思うし、その間はこっちを見つつ、身体も療養してもらって。

 瑠璃るり殿と話してて昨日はたと気付いたんだよ。

 あんた復帰してからまだ一冬も越えてないんだなってさ。

 あんたが元気いっぱいで毎日楽しそうだからつい忘れちゃってたんだけど、よく考えりゃ復帰したのついこの前じゃないか」


 賈詡は郭嘉の些細な表情を見逃さないように見ていたが、杯を傾けつつ何かを考えている郭嘉の表情は穏やかなままで、怒りや、不満といったものは特に見えなかった。


「……まあそういう方法も無いわけじゃない」


「そうだよな? ってか思ったんだがあんたそもそもなんで涼州遠征にあんなに出たがった?」

「これ以上休んでたら身体も頭も鈍ってしまうから」

 にこ、と笑った郭嘉に、賈詡は苦い顔をする。

「だからそれだ。にしても、なんで涼州遠征なんだよ。復帰すんなら別の戦線だってあるだろ」

「色々考えると涼州は面白いんだよ。もしかしたら今後十年の戦いの様相が、この涼州遠征の結果によって決まるかもしれない。軍師としてワクワクする」

「それは分からんでもないが……」


「あとは司馬懿しばい殿が総大将っていうのも面白い。

 彼と組むのは初めてだ。曹操そうそう殿の側にいる時に、色々彼の話は聞いた。

 どういう指揮を執る人物なのか、難しい涼州遠征軍の指揮ぶりを見て見極めたい」


 賈詡は腕を組んだ。


「うーん。……まあそれは、分かる」

「でしょ」


「け、けどー。別にそれは許都にいたって分かると思うぜ。一緒に従軍しねえと何にも分からねえっていうなら荀彧何にも分かってねえ奴ってことになるだろ。そんなことねえし。 しっかり報告受けてりゃ、ある程度離れてたって人物像ってのは見えてくるもんだぜ」


「瑠璃に絆されたのかな? 賈詡将軍」

 

 微笑んだ郭嘉が勝手にまだ残ってる賈詡の杯に注ぎ足そうとしたので、急いで杯を手に取り避難させる。

「そりゃ絆されるだろ。あんな可愛いお嬢さんが二人涙を零しながらどうかこの冬だけでいいから郭嘉様を留まらせてくれってお願いして来たんだ。普通力になってやりたいって思うだろ」


「二人?」


「ああ、瑠璃殿と……あと曹娟殿のとこから来た陸佳珠りくかじゅっていう女官が……っていうかあんたどこ気にしてんだよ。本当に女のことに関しては目敏いな」


「聞いたことがない名前だ。新しい方かな?」


「司馬懿殿の新しい副官の話しただろ。陸伯言りくはくげんっていう。双子の姉だってよ。確かに似てたな。あんたと瑠璃殿も似てたがあっちの方も似てるよ。瓜二つだった」


「へえ……ああ! それで納得した。二人とも修練場に見に来てたんだ。髪が短い時と長い時があって不思議だったんだ。

 少し雰囲気は違うけど、似てたね確かに。

 もっと近くで見てみたい。美しい女性だった?」


「おお。美しい人だったよ。っていうか何の話してた俺たち?」


「涼州遠征の話」


「そうだった。女の話に夢中で食いついてくるんじゃねーよ! 流されるだろ!」

「流されてはない。そんな美しい女性までもが私の心配をしてくれてるなら一冬ひとふゆ、許都に留まって仲良くなろうかなあって今本気で考えてる」


 賈詡は半眼になった。


「あっそ……。出方間違えたな。あんたの場合、そういう方が効くわけね……」


「賈詡じゃなくその佳珠かじゅ殿が説得に来てくれたら今すぐ頷いて、まあその話はもう終わったからどうかなこんな所じゃなく部屋でゆっくり話をしようかって誘ってたのになあ。

 賈詡のせいでまだ話が終わらない……」


 切なそうなため息をついた郭嘉に、口元を引きつらせた。


「なんで俺のせいなんだよ……」


甄宓しんふつ殿の女官は美人揃いだ。

 甄宓殿が美しい人なので霞むけどね、単体で見ると美しくて優秀な人がとても多い。

 さすがに女性と浮名を流している私が次期皇帝陛下の正妻に親しげに近づいていくと、魏全体がざわつくだろうから【月天宮げってんきゅう】には近づかないように心がけているんだけど」


「それはどうも……魏全体のことを考えて自重してくれて助かりますよ先生……さすがに甄宓殿絡みのあんたを巡って曹丕殿と曹操殿がこれ以上不仲になったりしたら目も当てられないし、そんなことになったらさすがに俺、郭家に文句言いに行くわ。あんたというよりあんたの親を説教して来る」


 郭嘉が声を出して笑っていた。

 そんなこと言ってもこいつが本気を出せば、甄宓殿でも甄宓殿の侍女でも平気で口説きそうだから本当に怖い。


「これは真面目な話だ。先生。

 俺が聞きたいのはな、あんたなんか……焦ってないか?」


「わたしが?」


 椅子に泰然と埋もれている郭嘉が笑って返すので、賈詡は苦い顔をした。


「涼州と司馬仲達しばちゅうたつへの興味はまあ分からんでもないが、それ以上になんか俺のこの辺の勘が引っかかるんだよ。

 前にもこういうことがあった。

 北伐した時、えん家を滅ぼして、みんなで長安に凱旋だぁって浮かれてたのに、あんたあの時このまま西征せいえい軍に加わりたいっつって強行しただろ。

 妙にあの時の感じを思い出す。

 今にして思えばあんた……長安に戻って一度休暇を取ると、雑事に時間を取られてる間に病が発露して身動きとれなくなるのを警戒してそのまま西征に加わったな?

 そんでぶっ倒れやがった。

 一度目は驚きのあまり俺もアワアワしたけど、二度目はおじさん絶対アワアワしないからな。卓袱台ちゃぶだい引っくり返してブチ切れるぞ」


「よく分かったね」


 悪びれも無く郭嘉かくかが笑った。


「おまえなあ……」


「いや。でも今回は本当に体調は問題ないよ。

 私だってあの時、そのあと五年間も死にかける闘病生活になるなんて思ってなかったんだ。なんか少し身体は怠いけど、このまま寝込んだらきっと西征に連れて行ってもらえない、って思ったからね。絶対嫌だと単純に思っただけで」


「子供じゃねえんだからやめろよな……そういうのはよ」


 子供じゃねえんだから、と言いながら当時郭嘉が二十歳になったばかりの青年だったことを思い出す。


(子供だったんだよな。

 こいつは才があるから今や曹操軍の古参の分類だが、まだ二十五の若造なんだ)


 いつも忘れる。


 美味しい酒だねーと楽しそうに飲んでいた郭嘉がふと、小首を傾げた。


「ん? なんだろう。今不意に嫌な予感が湧いてきた。このあたりに……」


 二の腕を摩るような仕草をしている。


「勘がいいな郭嘉。今丁度俺も本日郭嘉大先生をどのように説得して涼州りょうしゅう遠征を留まっていただこうかという考えから『よく考えたら目の前のこいつまだ二十五歳の若造じゃねえか。四十年以上生きてらっしゃる俺がうるせえとにかくお前は今回残れ! って一言で布陣を決めても許されるんじゃねえかな』って考えに移行しようとしてたとこだ」


「移行しないでほしいなあ。

 君にそういうことをされると楽進がくしん李典りてんあたりが苦労することになるよ?」


「楽進と李典に一体何するつもりだよ……」


 賈詡が呆れた。


「どうしても涼州遠征に加わるつもりか?」


「まずは連れてってよ。

 私だって二度と死にかけたくないとは思ってる。

 体調を崩してる時はこんなことは言わないさ」


「まあそれはそうだろうが……」


 深く腕を組んで、賈詡は考え込む。


「……あんたが妹だと答えた瑠璃殿の気持ちを汲んでやってもそれは変えられないんだね?」

「貴方なら身内に出陣を取りやめるように懇願されれば、軍に必要とされても取りやめる?」


 瑠璃が郭嘉を叩いたあと、郭嘉が見せた表情を賈詡は思い出した。


「……まあ俺は身内への情の薄い人間だから、参考にはならんだろうね。

 瑠璃殿があんたの横っ面を引っ叩いたあと、あんたが見せた表情が気になる」


「そうなの? 自分じゃ覚えてないな」


「普通、ああいう時はあんたは笑って済ませると思うんだが、随分傷ついた顔をしてたよ」


 郭嘉は椅子の上に上げた自分の膝に頬杖をつく。


「……ねえ賈詡。

 貴方は曹操殿の長江出兵をどう思った?」


「うん?」


 賈詡も赤壁せきへきの戦いには参戦していない。

 彼はあの時も涼州方面に派遣されていたのだ。


「突然なによ……殿になんか言いつけるつもりかい?」


「折角朝から珍しく二人で飲んでるんだから。この際探り合いはやめて率直に話そう」

「俺はいつも率直だと思うがね……」

「確かに率直だけど、貴方は確証の無いことはあんまり口にしたがらない。

 いくら可愛いお嬢さんが二人縋って来ても、普段の貴方なら戦のことに女が口に出すなと言うんじゃないかな。

 貴方は私と違って、女に絆される性格では無いと思うんだけど」

「……」

「それが何か、今回引っかかっているから私の許に来た。

 貴方自身も、もしかしたら自覚が無いのかもしれないから、言葉に出ないのかもしれないけど」


「つまり今回の涼州遠征に、俺が悪い予感を覚えている?」


「いや。そうじゃない。漠然とした不安だ。

 それを感じているから貴方は不安要素を少しでも取り除きたがってる。

 私の体調も不安要素の一つだからね」


「……殿の長江出兵のことを聞いたよな。

 率直に言って出陣した時は『なんで出て行っちゃうのよ……』だったね」


 郭嘉が微笑んだ。


「漠然とした不安は、きっと曹操殿も感じてたはずだ。

 普通不安を覚えると人は立ち止まるけど、中には立ち止まらない人がいる。

 不安がそこにあるなら近づかない人と、近づいて確かめようとする人も。

 才能ある人間は、立ち止まるのが苦手だ。

 困難が目の前に立ち塞がった時も、立ち向かってどうにかしようと考える。

 

 私が今回涼州遠征に行くことを望むのは、どうにもならない衝動なんだ。


 許都きょとに留まって平穏な日常に包まれていても、これは絶対拭い去れない。

 私は今、戦うべきなんだよ。

 そして軍師としての直感が、涼州を気にしてる」


 賈詡はふと、思い出したように杯を手に持った。



「…………劉備りゅうびか」



 郭嘉が目を細めて微笑む。


孫権そんけんには固い地盤がある。だからむやみやたらに出てきたりしない。

 呉蜀同盟に拘る限り、劉備は孫権に付随するものでしかない。警戒などしないでいい。

 だけど呉蜀同盟が決裂したのが事実なら劉備の行動は読めなくなる」


 賈詡は頷いた。


「まあ確かに気味が悪いのは孫権より劉備だ。

 あいつはよく分からん。

 人心があいつにつく意味も分からん。

 かん王室の再興なんて、一体いつの古い議論なんだ。

 董卓とうたく呂布りょふの専横を許したのは漢王朝の腐敗が原因だろうに」


「大きな力を持てば、自ずと大義というものが求められる。

 その点、己の大義に漢王室の再興を掲げる劉備にとっては、帝を擁護している曹操殿が打倒すべき敵という大義名分がある。

 つまり国としての形を持てば持つほど、どんなに劉備自身が抗ったとして、彼は曹操殿と相対せざるを得ないんだよ。

 だから涼州が重要なんだ。

 蜀という国の存亡のために、要所となるのは江陵でも、魏が侵攻の手を伸ばした以上奴は涼州に兵を向けるしかない」


 賈詡は笑った。


「確かにな。俺も死んでもらうなら孫権より劉備が先がいい。

 孫呉も孫堅そんけんの代には漢王室の名誉には拘っていたが、あれは江東こうとうがもっと荒れてた時代のことだ。江東を平定し、孫呉がきたからには、奴らには防衛の意識の方が高くなっただろうしな。

 劉備が死ねば蜀なんて、骨組みがあるんだかないんだか分からん国は早々に瓦解するはず。

 今回作り上げる要所から成都せいとを制圧したら、それこそじっくり腰を据えて望む時期に望むやり方で孫呉とは戦が出来る。

 随分頭の中がはっきりするからな。


 つまり新しい時代の扉を開きに行きたいんだね、先生」


「誰を泣かせても、私は涼州りょうしゅうを見に行くよ」


 組んでいた腕を外し、賈詡かくは頷いた。

 空いていた杯に酒を注ぐ。


「朝から飲むのも悪くないねえ。

 一人でダラダラ飲もうとは思わないが、あんたは酒が入った方が饒舌になる。

 あんたと話してると思索が捗るなあ。

 殿も、だからあんたと飲むのがあんなに好きだったんだね」


 鮮やかな黄色の葉が、舞い込んで来る。


「分かった。まあ美女二人の懇願を袖に振るのはいかにも心苦しいんだが、言ってても始まらん。

 あんたは予定通り涼州遠征組を率いてもらうよ。

 その代わり瑠璃るり殿とはもう一回ちゃんと話しな。

 可哀想だ。郭家に仕える侍女だなんて嘘をついてまで俺のとこに心配で来たのに」


「妹だから難しいんだよ。

 女性ならもっと上手くやる」


「あのねお兄さん。どんなに女に人気があっても妹苛めて泣かしてるようじゃ全然かっこよくないからな」


 郭嘉は笑った。


「全ての悩みや不安が消え去ることなんてないよ。

 君だってそうだ。

 いくら私の体調の心配をしててもね、戦場では何が起こるか分からない。

 人生も同じだ。

 いざ涼州から戻って来た時には、私は元気いっぱいで君は病気や怪我で死にかけてるかもしれないんだからね」


「オイなんつー不吉なことを言うんだよ」


「不吉なことじゃない。

 起きていない、悪しきことを可能性で論じるなんて無駄なことだっていう真理の話だ」


「お前これ以上人生達観すると全然可愛げの無い三十代になるからな。

 今から忠告しておいてやる」


「ということは貴方は立派に可愛げのある三十代を送ったってことなんだね」

「馬鹿言うな。そうじゃなかったからお前に忠告してやってんだろ」


「瑠璃には賈詡から上手く言っといてよ」


「やだ。絶対やだ。絶対泣いちゃって俺が泣かしてるみたいになるもん。

 そんな役目引き受けても俺何一つ得しないの分かってんだからな」


 郭嘉は微笑んで庭に目を向けた。


「……あの子から私のもとを訪ねてくるのは、病の時を除いたら初めてだったんだ。

 郭家や私に遠慮して、瑠璃は自分にも郭家の血が流れてるんだという風には絶対振る舞わない子だから」


「あんたはどうしたいの」


「瑠璃の育ての親はいい人だし、大切にされてる。

 不自由はしてないからね、敢えてもう触れないよ。

 でも心の中ではいつだって可愛い妹だと思ってる。

 叶えてやれることは全部叶えてやりたい」


 瑠璃は確かに、郭嘉が周囲に置いている女たちとは少し、彼に向ける視線の雰囲気が違う。

 

 だけど全く違う、肉親に徹している気も賈詡にはしなかった。


(きっと惚れてんだろうな)


 片方しか血の繋がらない、兄。

 若くして曹操に見い出された才能で、

 男としても人間としても多彩で魅力的だ。

 惹かれない訳がない。


 瑠璃の境遇では、きっと幼い頃からの支えだったのだろう。

 苦しい人生の、支えや光のようにしていたんじゃないだろうか。


 だけど、

 瑠璃に幸せな人生を歩む権利があるように、

 郭嘉にも望む人生を歩む権利がある。


 奇しくも、賈詡は瑠璃に「涼州遠征を取りやめれば、郭嘉の命も身体も無事かもしれんが、心は死ぬだろう」と声を掛けた。

 

 大袈裟かもしれないが、

 でも多分そうなのだ。

 まだ天下の混乱は収まっていない。


(いや……赤壁せきへきで曹魏が敗戦したことにより、より深まったと言うべきか)


 曹魏が天下統一を果たすまで、郭嘉は戦うことをやめないだろう。

 秋風に吹かれて緩い時間から酒を煽りつつも、眉目秀麗な容姿を際立たせていても、こいつは戦う本能の塊なのだ。


 あまりに苛烈なその闘争心を宥めるために、酒や女やそのほかの遊びを常に欲してる。

 

 こいつの人生にそういう「花」がなかったら、





(きっと血と泥と屍だけだ)






 郭嘉が戦いたいのなら、

 戦わせるしかない。


 長江ちょうこうに曹操が出兵した時、傍らにいた夏侯惇かこうとん夏侯淵かこうえん達も、きっとこんな気持ちだったのだろうなと彼はそう思った。




【終】

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花天月地【第34話 花と屍】 七海ポルカ @reeeeeen13

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