終段

最終話 希望の光

 蓮夜を抱きしめながら涙を流した後のことは覚えていない。どうやら安堵と疲労で自身も気を失ってしまったらしく、目を覚ました時には決戦から一週間が経っていた。


 伊織も眠っていたようで、桜夜と同じ日の少し早い時間に身を起こしたという。病室の寝台に腰かけたまま、桜夜は憂慮の色を浮かべながら問う。


「蓮夜は……」

「額ちゃんとマスと同じ集中治療室におるみたい」


 様子見に行ってみる? と伊織から誘いを受け、桜夜は向かい側にある集中治療室へと向かった。

 入室すると数人の医局員が看病にあたっており、桜夜たちの訪問に気づくや否や頭を下げた。桜夜も同様に首を垂れ、蓮夜が眠っている寝台へと案内してもらう。


「蓮夜……!」


 外傷こそ少ないものの、最愛の弟は植物状態の如くぴくりともしないままその場に横たわっていた。呼吸しているのかすら不安に思えて、桜夜は彼の手をそっと握る。手首に指をあてると薄弱とした脈が確認できた。


「蓮夜の容態は……」

「かなり衰弱している状態です。あともう少し遅ければ助からなかったでしょう」


 担当の医師も深刻な面差しで語る。


「神技による治療で容態が急変することはありませんが、意識が戻るかどうかは我々にも……」

「そんな……。じゃあ、このまま目を覚まさないこともあり得るということですか」

「はい」


 急速に血の気が引いていくのがわかった。

 蓮夜に触れる手は震え、わずかに呼吸も乱れる。


「蓮夜」


 華奢な繊手を包みこみ、額につけた。


「お願い。目を覚まして」


 またあの笑顔を見せて。

 姉ちゃんって呼んで。


「私はここにいるから」


 しかし、いくら祈りを捧げても現状は変わらない。

 伊織は桜夜の肩を柔く叩き、退室を促す。

 桜夜が立ち上がったところで、伊織は額と増長のほうへ目をやった。


「額ちゃんとマスもまだ目ぇ覚まさへんか」

「お二人も蓮夜さんと同じ危篤状態ですから、意識が戻るのはもう少し先かと」


 二人は脈も安定し傷も徐々に癒えており、数日後に目を覚ます可能性が高いとのことだった。


「そっか。じゃあ、二人と蓮夜くんの意識が戻ったらすぐに教えて」

「承知しました」


 桜夜と伊織は集中治療室を後にし、自分たちも本調子に戻るまで病室での安静に務めた。

 両者ともに人間離れした体力、体質のため、回復にはそう時間はかからなかった。五日後には寧子に謁見できるようになっており、桜夜たちは主上の御前で叩頭した。


「二人とも、顔を上げてください」


 言われた通り、桜夜と伊織は顔を上げて寧子を見据える。


「無事に体調が回復したようで良かった。回復早々、呼び出してしまいごめんなさい」

「いえ」

「寧子様のお呼びがあれば輪西にいようが輪北にいようが、いつでも馳せ参じますから」


 いつもの調子でちゃらける伊織に、寧子も安心したように目を細めた。


「あらためて、今回の征討任務、本当にお疲れさまでした。そしてよくやってくれました。心から礼を言います。ありがとう」


 寧子が頭を下げるのに伴い、桜夜と伊織も額を床板につける。


「蓮夜の奪還も叶い、あとは皆の療養に力を尽くすだけになりました。わたしもできる限り援助します。何かあればいつでも遠慮なく言ってちょうだい」

『はい。ありがとうございます』


 両者が謝意を述べたところで、伊織は「そういえば」と切り出す。


「嵐慶らの遺体と生き残った雑魚はどうしたんですか」

「雑魚って……。遺体は事後処理に向かった第二部隊が丁重に埋葬してくれたわ。生き残った残兵は全員捕縛して、今は親兵局の地下牢に収監されている。……心苦しいけれど、嵐慶たちを征討すると決意した以上、極刑にせざるを得ないわ」

「別に心苦しく思う必要ないですけどね。謀反者は死刑っていうのが世の常ですから」


 あっけらかんと言ってのける伊織に苦笑しつつ、寧子は続けた。


「兎にも角にも、あなたたちもしばらくの間は安静にね。無茶は禁物よ。特に伊織、あなたはすぐ修練か任務に行こうとするんだから、最低一か月は大人しくしておくように。これは勅令です」

「一か月も⁉ そんなに長く刀振らんかったら腕が鈍りますよ」

「あら、あなたにしては珍しく弱気な発言ね。一か月何もしなかったくらいで腕が鈍るような剣士なの、あなたは」


 虚を衝かれ、伊織は目を瞬く。そして苦笑し、肩を竦めた。


「額ちゃんみたいなことゆうようになりましたね、寧子様」

「あの子の代わりに言ってあげたのよ。桜夜」

「はい」


 視線を向けられ、桜夜は居住まいを正す。


「蓮夜のことはとても心配でしょうけど、あまり気を張り過ぎないようにね。あなたには体だけじゃなくて心の静養も必要だわ」

「……はい」


 俯きがちに返答した桜夜に、寧子は柔和な声音のまま諭した。


「ちゃんと食べて、寝て、一日一日を安らかに過ごしなさい。これも勅令です」


 桜夜は「承知いたしました」と再び叩頭した。


「伊織。桜夜のことお願いね」

「お任せあれ」


 寧子は首肯し、功労者たちに下がるよう下知した。

 桜夜と伊織は叩頭し、軽口を叩き合いながら黄央殿を後にした。




     *****




 二週間後。桜夜は伊織とともに輪南の紀和を訪れていた。


 紀和で最も大きな河川である日追川ひおいがわ。かつて先祖である龍蛇神が棲んでいたとされる由緒ある河川で、その近くには紀和寺という古刹がある。紀和寺が所有している霊園には清水家の墓があり、今日はその墓参りに訪れていた。


 柳夜の遺骨は入っていない。おそらく完全変化した状態で息を引き取ったため、無念にも嵐慶たちの手によってばらばらにされたのだと思う。だが、先祖たちの遺骨とともに柳夜の魂はここに眠っている。


 百合の花を供え、線香に火を灯す。くゆる芳香に満たされた静謐な空間のなかで、桜夜と伊織は合掌した。


 ――父上、ご先祖様。すべて終わりました。


 花川家の呪縛からも解き放たれ、輪皇の御代の安寧を確固たるものとした。


 ――皆様のおかげです。


 この血を憎み、嫌うこともあった。けれど、この血のおかげで仲間を救い、敵を討つことができた。苦難を乗り越えることができた。


「ありがとうございました」


 感謝の言葉を捧げたところで、桜夜は目を開けて両手を下ろす。


「ボクもおとんの墓参りに行かな。かたき討ったでって報告したい」

「私も一緒に行っていいか。今日一緒に来てくれたから、今度は私が伊織のお父さんに手を合わせたい」

「もちろん。おとんも喜ぶわ」


 伊織が屈託のない笑みを浮かべ、桜夜も口元を綻ばせる。

 両者は霊園を後にし、〈大烏〉に乗って輪央への空路を進んだ。


「額さんの様子はどうだ? 目を覚まして以降、あまり会っていないから……」

「そうやなあ。ボクらの前では平静を取り繕ってるけど、やっぱり心の整理がついてないんか、いつもの覇気がないような気するわ」


 額と増長は寧子の謁見から四日後に意識を取り戻した。今ではすっかり回復し、いつも通りの日常を送っている。だが、額は佳弥の訃報を耳にしてからというもの、時折、消沈した面様を見せるようになっていた。



『……そうですか』



 真相を聞かされた額はただ一言そう呟き、それ以上は何も語らなかった。


「まあ大事な弟子が裏切った挙句、その命を散らしたんやからな。ああなるのも仕方ない」

「……蓮夜が目を覚ましたら、佳弥さんのことをちゃんと伝えるべきだろうか」


 恋慕していた少女を自らの手で殺めた。その事実は少年にとってあまりに重く、心身を裂くような辛苦を突きつける。蓮夜が己と向き合い、事実を受け入れられるかどうかが気がかりだった。


「そうやなあ。隠し通すにしても、いずれ蓮夜くんも違和感に気づいて最終的には真実を知ることになるやろうし。それやったら蓮夜くんが本調子になったところで切り出したほうがええんとちゃうかな」

「……そうだな」


 懸念を隠せない桜夜に、伊織は「大丈夫」と肩を軽く叩く。


「蓮夜くんには超絶頼りになる偉大なお姉ちゃんがおる」


 人は独りじゃない限り、ちゃんと前向いて歩ける生き物やから。


「伊織……」

「ていうか、そもそも独りの人間なんておらんから。だから蓮夜くんも大丈夫や」


 桜夜は目を瞠り、わずかに花唇を開いたまま伊織を凝視する。


「ん? どうしたん」

「いや、お前が言う台詞とは思えないほど深い励ましの言葉だったから、驚いて」

「失礼やな。ボクはいつだって深ーい言葉ゆってるで」

「浅慮な言葉の間違いだろう」

「相変わらず辛辣やなあ」


 不毛な応酬さえも、今は桜夜の沈んだ心を軽くしてくれる。

 桜夜の笑顔が増えたことに、伊織は秘かに安堵と喜びを噛みしめていた。




     *****




 日没前に親兵局の局舎に着き、各々の私室へ向かおうとした時。

 蓮夜の治療を担当していた医師が血相を変えて二人のもとに駆けてきた。


「蓮夜さんの意識が戻りそうです!」


 今すぐ集中治療室に来てください!


 両者は弾かれたように医師の背を追って治療室に向かった。

 今では患者は蓮夜だけとなり、空いた寝台が室内を埋めつくすなか、蓮夜が横たわっている寝台に複数の医局員が佇んでいた。

 桜夜たちの到着に医局員たちは場所を開け、桜夜たちを寝台の真横に通す。


「蓮夜!」


 桜夜は両膝をつき、蓮夜の手をとる。


「蓮夜っ!」


 もう一度呼びかけると、かすかに蓮夜の手が動いた。やがてその手は桜夜のそれを弱く握り返す。

 碧い明眸から音もなく熱いものが伝う。

 改めて弟の顔を見れば、ゆっくりと瞼が持ち上げられ、それはそれは美しい真紅の双眸が露わになった。


「蓮夜っ……」


 震えを帯びた呼声に、蓮夜は視線だけ桜夜のほうに動かす。


「ねえ、ちゃん……?」


 掠れた返答は桜夜の感喜を誘い。

 彼女にとっての希望の光が再び閃いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

龍蛇ノ双紙 海山 紺 @nagigami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ