私の人魚姫

ミナガワハルカ

人魚の夏

 夏の夜。

 月光に青白く光る入り江でひとり、狂った人魚が自分のうろこがしている。

 もう何枚目だろうか。波打ち際に座る人魚。彼女は自分の半身を覆う鱗を一枚ずつ、手にした貝殻で挟み、引き剥がしているのだ。

 ぷつり。

 肉の断ち切れる微かな音が波音の合間に聞こえた、気がした。

 そのあとにのぞくのは、薄紅色うすべにいろの肉。

 剥がされた鱗は濡れた宝石のように月の光を反射し、しかしすぐに、泡になって消えてしまった。

 彼女は苦痛に顔を歪めるでもなく、叫び声をあげるでもなくその行為を終えると、次の鱗に手を伸ばす。

 乱れた長い髪の間から覗く瑠璃色るりいろの瞳。ただ鱗を見つめる。

 固く引き結ばれた、赤い唇。

 海。

 ただ潮騒しおさいが静かに響く。

 月光が照らす砂浜。

 昼間の暑気しょきはいつの間にか霧散していた。

 黙って彼女を見つめる私の背中を、汗が滑り落ちた。


 †


 何もかもが嫌になって辞表を出した。けれど課長からは、とりあえず溜まっている有休を使ってゆっくり休めと言われた。

 四十過ぎの課長は、眼鏡の奥から鋭い視線を私に向ける。私はそれを直視できずに目をらす。

「次の職場が決まっているわけでもないんだろう。辞めるのは自由だけどさ、もう一度よく考えてみなよ。後で必ず後悔するよ」

 なだめるような言葉に、私の決心はたあいもなく揺れる。

 しかし一方では頭の中の皮肉屋な私がつぶやいていた。人手不足だから言ってるのよ。先日、新人の子が一人辞めたばかりだった。

「君はこの仕事、向いてるよ。ここだけの話、会社も若手の女子社員の中では君に一番期待してる。だから、ね。のんびり休んで。そうだ、旅行でもしたら気が変わるかもしれないよ」

 結局、決心して書いたはずの辞表は、上司のデスクの引き出しに仕舞われてしまった。

 また流されてしまった。自分のダメさ加減が嫌になる。――でもどうせ、いつものことじゃない。もう一人の自分が毒づく。

 旅行。

 そうだ、海に行こう。

 ふとそう思った。人のいない、寂しい海がいい。そこでのんびり昼寝をしたり、散歩をしたり、本を読んだりするのだ。心のデトックス。ゆとりのない現代社会からの解放だ。そうすれば。そんな環境で癒されれば、何か変わるかもしれない。そう思った。期待した。自分に言い聞かせた。

 そうなると、旅行に前向きになってしまう自分がいて。――ちょろい女ね、と、もう一人の私。

 こうして私は、就職して初めての長期休暇を取ることとなった。サービス業に就いたせいで、入社以来まとまった休みを取ったことがなかったのだ。はからずも、お盆休みの代わり。学生時代以来数年ぶりの、夏休みというわけだ。

 急に自分が抜けたシフトの穴は、上司が手を尽くしてふさいだ。皆には体調不良ということにしておくから。そう告げる上司の顔は笑顔だったが、目の奥は笑っていなかった。当然ではあるけれど。

 そんな視線から逃れるようにして、私は東京を離れた。

 東京から新幹線で三時間。その後在来線とバスを乗り継いで一時間ほど。私は瀬戸内海のある港町に降り立った。

 バスを降りた途端、強烈な日差しに襲われる。私はあわてて荷物から日傘を取り出した。

 傘が影を作った一瞬、涼しい風が吹き抜けて、目の前には昭和の面影を残すノスタルジックな街並みが広がっていた。

 街並みは低く、その向こうに見える山々の緑がまぶしい。

 大きく広がる青空。

 騒音に紛れて聞こえてくる海鳥の声。

 がらんとした駐車場に、隣の塀からせり出したハイビスカスが白く光る。

 東京に比べて、空気がからっとしているような気がする。

 キャリーケースを引っ張りながら、私はホテルに向かった。

 日傘を差していても、数分も歩けば汗が噴き出してくる。ハンカチを額に押し当て、汗を拭いながら歩くと、少しして目の前が開けて。

 海が現れた。

 低い堤防の向こうに広がる青い海。大小様々な島が浮かび、その先には遠く四国の山々が白くかすむ。その上は深く青い空。

 まぶしさに私は目を細める。

 海はいでいて、海面は夏の太陽を細かに反射していた。瀬戸内海というのは滅多に波が立たない穏やかな海だということは後で知った。

 私は足を止め、しばらくその景色を眺めていた。


 †


 海。

 私は今まで一度しか海に行ったことがない。幼い頃の夏、私の家族と、父方の従兄妹いとこたちの家族で一緒にキャンプに行ったことがあるきりだ。

 私と、私の両親。伯母夫婦。そして私の従兄妹いとこたち。一人っ子だった私に対して、従兄妹は三人いた。まさ兄ちゃん、みき姉ちゃん、そして、さっちゃんだった。

 初めて海に行った私は嬉しくて、みんなで海水浴をしたり、砂山を作ったりして思い切り遊んだ。夜はバーベキューをして、花火をして、そして砂浜のテントで寝た。子供たちはひとつのテントにまとめられたので、兄妹のいない私はとても楽しかった。夜遅くまでおしゃべりをしたり、ごっこ遊びをしたりしてはしゃいだ。真夜中、寝相の悪いさっちゃんがぴったりと体を寄せてきて、その温もりがとても愛おしかったのを覚えている。

 そうだ、そう言えば次の日、ちょっとした事件があった。

 次の日の朝、私は目を開こうとして、まぶたが上がらないことに気が付いた。目やにがたくさん出て、固まってしまっていたのだ。仕方がないので手で瞼をこじ開けていると、まさ兄ちゃんが気づき、驚いた。

「いつもそんななの?」

 違う、と答えた私の目は、真っ赤だったらしい。

 急遽きゅうきょ、父が病院に目薬を買いに行くことになった。いや、病院は診察もなしに薬だけを売ってはくれないはずだから、薬局だったのかもしれない。それともその頃は売ってくれたのだろうか。

 とにかく、私のために、父は歩いて目薬を買いに行ってくれたらしい。なぜ歩いて行くことになったのかはわからない。キャンプには車で来ていたので、車で行くことはできたはずだ。車で行くまでもない距離だったのか。

 しかしその帰路で、父は具合が悪くなってしまった。熱中症だ。その頃は日射病と言っていた。父はどうにか自力でキャンプにたどり着けたが、帰ってくるなり倒れこんでしまったのだ。

 幸い深刻ではなく、皆に介抱され、父はすぐに回復した。

 それまで大人たちを中心に深刻な空気が流れていたが、ようやく皆安心し、笑顔が戻った。伯父は笑いながら「いやあ心配したよ」と声をかけ、伯母は「だから暑くならないように、水の中を歩くように言ったじゃない」と言った。父は、おう、と答えながら、ばつが悪そうに笑いながら頭をいていた。

 その時、小さな声が聞こえた。本当に小さなつぶやき。低い声。きっと私以外には聞こえなかったと思う。しかし、私には届いた。

「まったく、あんたのせいで、父さんが」

 振り向くと、母が私を見ていた。


 †


 到着したホテルはとても素敵だった。

 瀬戸内の海と調和した、白い地中海風の建物。敷地内にはオリーブの木々が風に揺れていた。館内は爽やかな香りで満たされ、案内された部屋の窓からは青い海が広がっていた。

 私はベットに身を投げ出し、思った。

 この一週間、何もせずに過ごすのだ。

 朝は遅く起きる。午前中はバルコニーでコーヒーを飲みながら読書。昼食の後は散歩したり、プールサイドで日光浴をしたり。夜は波の音を聞きながら眠るのだ。

 そうすれば、心も体もすっかり軽くなり、何かが変わる。はずだ。そう期待した。

 しかし。

 実際には、四日目を過ぎても、自分の中で何かが芽吹く気配はなかった。

 ゆっくり休息すれば変化が訪れる。そう期待していたのに、むしろ時間がただ滑り落ちていくようで落ち着かない。何かをしなければ、この滞在はただの空白になってしまう。そう思うと、静かな海さえ、自分を急かすように見えてきた。

 海と空の色が昨日と寸分違わず繰り返されていることが、不安をき立てる。本の文字は目を滑るだけで心に届かず、庭を歩いても景色はただの風景にしか見えなくなってきた。

 五日目を迎えるころには、胸の内には大きなとげが芽生えていた。何もしないことは贅沢であるはずなのに、その贅沢が砂のように指の間から零れ落ちていく。このままでは、ここでの一週間がただの空白になってしまう。

 海辺に立つと、静かな海が私の怠慢たいまんを責め立てる。

 風がスカートをひるがえし、波は寄せてはひいてを繰り返す。いつまでも、いつまでも、執拗しつように。

 気がつけば、あっという間に一週間が経っていいた。

 明日はもう、帰らなければならない。東京に。あの日常に。


 †


 夢を見た。

 皆、泣いている。

 伯母も、伯父も、従兄妹たちも、そして父も。それだけではない、周りにはたくさんの人たちがいる。知っている人、知らない人。皆、同じように黒い服を着て、泣いている。妙にはっきりした夢だ。

 いや。

 ああそうだ、これは夢ではない。記憶だ。母の葬儀のときの。

 私が小学生の時、母が亡くなった。急な病気だった。体調不良で病院を受診して、そのまま緊急入院。退院することなく帰らぬ人となった。

 葬式で、父は泣いていた。そう、今みたいに。まるでこの世の終わりのように、絶望が涙になって流れ落ちていた。

 私は父の手を取って、言った。

「お父さん、泣かないで」

 父ははっとして私を見ると、また相好そうごうを崩して泣き始める。私の頭に手を添え、抱き寄せて泣く。

「わたしが、お母さんの代わりになってあげるわ」

 だから、泣かないで。

 私は真剣に父に伝えた。だが、父は私の頭を大きな手ででただけで、その涙は止まらなかった。

 父が泣き止まないことが悲しくて、私の目からも涙が溢れる。

 私が、お母さんの代わりになってあげる。──私は本気だった。事実、それから私は一生懸命に頑張った。料理も、洗濯も、掃除も、もちろん勉強も、お父さんのために必死で頑張った。なのに、なのに。

 お父さんは泣き止んでくれない。

 ──そのとき、棺桶の中から声がした。

「あんたじゃ無理よ」

 私は棺桶の蓋を叩きつけるように閉め、泣き続ける父の頭を撫でた。

 優しく、優しく。

 でも父は、やっぱり泣き止まないのだ。

 どうして。



 真夜中に、目が覚めた。

 なにか夢を見ていた気がするが、思い出せない。

 少しして、自分が泣いていることに気がついた。理由はわからなかった。

 不本意な覚醒。私は再び眠りの波に呑まれたくて、身を投げ出す。気持ちを静め、まどろみに沈もうとする。

 なのに、なぜか逆にだんだんと頭が冴えてきた。いろいろなことが勝手に頭の中に浮かび上がってきた。

 仕事のこと。

 人間関係のこと。

 母のこと。そして、父のこと。

 私は寝返りを打った。

 次から次へと、考えたくもないことが手をつないで現れる。

 私は身を起こし、髪を掻きむしった。

 海が見たい。なぜか無性にそう思った。

 ついに私は眠ることを諦め、静かにホテルを抜け出した。

 夜風に吹かれながら少し歩くと、入り江に出た。そこでは、夜が瀬戸内の海と空のあわいを溶かしていた。

 藍錆あいさびの空には月と星。波の音だけが、寄せては返す永劫えいごうの溜息のようにこだましていた。

 何かに呼ばれるように、私は砂浜へ降り立った。

 サンダルを脱ぐ。昼の熱気がすっかり抜けた砂が、いまだ熱に浮かされたままの私の足に心地いい。

 波に向かって歩く。

 ──そして、私は見つけてしまった。

 波打ち際、月光を浴びて青白く光る岩礁がんしょうの陰に、何かがいる。

 うずくまる人のような影。だが人間ではない。しなやかで、なまめかしい身体。息を殺し、岩陰に身を寄せて覗きこむ。

 それは、人魚だった。

 長く濡れた髪は海藻のように黒く、月光の下で光る肌はぬらぬらと白い。そして腰から下を覆う鱗は、磨き抜かれた青磁のように深く、冷たく光っていた。

 彼女は何かをしている。私は目を凝らし、そして息を呑んだ。

 彼女は己の尾から、一枚、また一枚と、鱗を剥いでいたのだ。

 私は釘付けになった。

 その美しさと、背徳に。

 見てはいけないものを見てしまった。そう確信した。

 暫くすると、人魚の尾はところどころ皮膚がむき出しになり、痛々しいまだら模様を描いていた。

 ふと、人魚が顔を上げ、私を見た。

 私と人魚の視線が絡まりあった。

 私は衝動的に、一歩踏み出した。その足音は、砂に溶けて消える。

 人魚は手を止め、黙ってこちらを見ている。私はゆっくりと近づいていった。

 私の体が月光をさえぎり、彼女に影を落とす。彼女は驚く様子もなく、あどけない顔で私を見上げる。硝子玉がらすだまのように濡れた瞳が静かに私を映していた。

 私は声を絞り出した。

「……何を、しているの」

 声が、自分のものではないようにかすれていた。

 人魚の赤い唇が動いた。

「鱗を、剥がしているの」

 その声は、水底で鳴る鈴のようだった。冷たく、澄んでいる。

「なぜ、そんなことを」

 その時、どこかから声がした。「狂ってるのさ、その人魚は」

 私は驚き、慌てて声の主を探した。すると足元の岩の上に、手のひらほどのかにがいた。

「もっとも、この世にまったく狂ってない奴なんて、いやしないがね。ぶくぶく」

 私は蟹を無視して、人魚に尋ねた。

「痛くないの?」

「痛い」

「じゃあ、なんで」

「……人間になりたいの」

 私は驚いた。

「なぜ、人間に。私たちの世界なんて、息苦しくて、嫌なことだらけで、……乾いているだけなのに。私は」

おりのような言葉が、私の口をついて出た。

「──私は、人魚になりたい」

「なればいいさ。本気なら、な」蟹が言った。

 人魚は、剥がしかけた鱗から指を離し、遠い水平線に目をやった。

「好きな人がいるの。陸に」



 好きな人。

 私には、いない。

 過去に付き合った人はいる。でも、本当に好きだったのではない。

 ハンサムな人。優しい人。面白い人。いろいろな人がいるけど、私が付き合ったのは真面目な人だった。顔もスタイルも悪くなかった。告白されて、この人だったら愛せるかもしれないと思って、付き合ってみたのだ。

 でも結果は、ひどいものだった。

 付き合っている間、私はすべて、相手に合わせた。着たい服も、聞きたい曲も、食べたいものも、行きたいところも。すべて自分の好みよりも、相手を優先した。自分が愛されるかどうか、不安だったのだ。……自分が愛していないくせに。

 その結果、自分というものがなくなってしまって、私は疲弊ひへいした。

 それに、その人はしばらくすると体の関係を求めてきた。付き合ってるんだからいいじゃないか。私が拒否すると不機嫌になって、結局この人が求めているのは体なのだろうかと、私は不安にさいなまれた。

 結局、数か月で私はフラれてしまい、後に残ったのは罪悪感と自己嫌悪。

 最悪だったのは、フラれてほっとしている自分に気づいたとき。

 死ねばいいのに、と思った。



 人魚は再び作業に戻った。

 私は動けなかった。

 ただ、見守る。その行為に何の意味があるのかは、分からない。

 ぷつり、ぷつり、と。

 鱗が、彼女が剥がされていく。

 だがやがて、彼女の顔に苦悶の表情が浮かび始める。そしてついに、彼女の手が止まった。

「どうしたの」

 彼女は目を伏せ、つぶやいた。

「……痛いの」

 その声はか細く、すぐに夜に消えてしまった。

「痛いってことは、生きてるってことさ」

 蟹を無視して、私は彼女の側に膝をついた。すると彼女は、私を見上げて、言った。

「……お願い。やって」

「私が」

 私は戸惑った。

「これで」

 彼女は私の手に白い二枚貝を渡す。それはひやりとして、重かった。

「お願い」

 そう言って彼女は、私に体を預けてきた。慌てて彼女の肩を抱き止める。その肌は冷たく、濡れていた。しかしやがて、そのうちにある体温が伝わってくる。

「やってやれよ。ここまで剥がしたらもう戻れない。心の傷と同じさ。一度こじ開けたらうみを出し切るまで終われない」と、蟹。

 腕の中の彼女の体は見た目以上に華奢きゃしゃで弱々しく、柔らかかった。

「それに、これはそもそも……」

 蟹が何か言うのを無視して、私は意を決し、彼女の肩を強く抱いた。そして貝殻を優しく鱗にあてがった。

「いい?」

 彼女は目を伏せ、小さくうなずいた。

 ぷつり。

 彼女の肩が小さく震えた。

「大丈夫?」

 私が不安げに声をかけると、彼女はうなずいた。

「いいの。……続けて」

 彼女の熱を持った吐息が夜気ににじむ。

 私は次の一枚をはさみ、抜く。

 ぷつり。

 そしてもう一枚。ぷつり。

 ぷつり、ぷつり。

 だんだんと彼女の顔が上気し、息も荒くなってくる。私の胸元にそえられていた彼女の手が、私をつかむ。

 彼女の額にはうっすらと汗がにじみ、白い頬は紅潮していて。彼女は瑠璃色るりいろの瞳を潤ませ、私を見つめる。

 ぷつり。

 あ。彼女の口から、か細いうめきが漏れた。

 その瞬間、私は衝動的に、彼女の赤い唇にキスしていた。

 柔らかく、吸い付いてくる唇の感触。

 それは、かつて恋人と交わした、何かを奪われたようなキスとはまったく違っていた。まるで、私と彼女が、お互いに何かを与え与え合うような。崇高で、静謐せいひつで、幸せで──。

 顔を離す。人魚は首を傾げた。

「……今のは、何」

 無邪気に尋ねる彼女に、私は何と答えていいか分からなくて、ただ、こう言うしかなかった。

「……痛くないように、ってこと」

 私が答えると、彼女は微笑んだ。

 そしてやがて。鱗は、尾の付け根に残された、最後の一枚のみとなった。それはひときわ大きく、深く根を張っているように見えた。

 私はそれに貝殻をあてがい、力を込める。

 そして、引き抜いた。

 ぷつり。

 あ。人魚が呻いた。

 私は思わず目を閉じた。

 息が詰まるほどの静寂。

 恐る恐る目を開けると、人魚は私の腕の中でぐったりとして、私の手には、貝で挟んだ瑠璃色の鱗があった。鱗は最後の輝きを放つと、他の鱗と同様に、静かに泡となって夜へ溶けていった。

 鱗のなくなった下半身はすでに、なまめかしい人間の足へと姿を変えようとしていた。二本の足がゆっくりと分かれていく様は、まるで新しい生命の誕生を見ているかのようだった。

 やがて、変化は止まった。そこには、完璧な人間の女が横たわっていた。長く、しなやかな足。月光を浴びたその肌は、まるで磨かれた白磁のように白い。

「終わったの」

 私は呆然とつぶやいた。

「じゃなきゃ、始まったのかもな」と、蟹。

 彼女はゆっくりと身を起こし、私に向かって微笑んだ。

「ありがとう」

 彼女は身を起こし、ふらつきながら立ち上がった。そして、愛おしむように自分の足を見下ろす。

「これが、足」

 しみじみと言い、私を見た。

「私、人間になったの?」

「そうよ。人間になったのよ」

 私は力強く肯定した。

「これで、……あの人に会いに行ける」

 彼女は嬉しそうにつぶやいた。

 その表情を見て、私はうらやましく思った。こんな素敵な女性にそこまで愛されるその人を。そして、人をそこまで愛することのできる彼女を。

「その人はどこにいるの? これからどうすればいいか、わかるの?」

 私の問いに、彼女はやはり微笑んで答えた。

「わかってるわ。私はあの人を愛してる。きっとあの人も私を愛している。その人はね」

 そして彼女は、信じられないことを言った。

「あなたの、お父さんよ」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 彼女が愛しているのは、私のお父さん。

 そして、お父さんが愛しているのは、彼女……。

 頭がそれを理解した瞬間、私の中で何かが切れて、目の前が真っ赤になった。

 気がつくと、私は人魚につかみかかっていた。

 私は凶暴な顔で、歯を剥き出し、そして。

 彼女の首を、締め上げていた。

「やれやれ、救えねえな」

 蟹の声が遠くで聞こえた。



 父。

 私の父。

 母が死んで、泣いてばかりいた父。

 私が母の代わりになろうとしても、私ではだめだった父。

 私を拒んだ父。

 父の心の中には、いつも死んだ母の影があった。

 私は、その影に勝てなかった。

 私は、母よりも劣る存在なのだ。

 力を込める。この滑らかな白い肌の下にある骨を砕いてしまいたい。息の根を止めてやりたい。

 だが、彼女は抵抗しなかった。彼女の濡れた瞳は、穏やかに私を見つめている。

「……返して」

私の唇から、獣のような低い声が漏れた。

「お父さんを、返して……!」

 そこで私は、ようやく気づいた。

 そうか。私のうちには、その拭い去れない劣等感がおりのように溜まっているのだ。私はそれに、囚われているのだ。

 その瞬間、すべてのことがひっくり返った。

 気づいたら、首を絞められていたのは私だった。

 そして、絞めているのは、母。

 母は必死の形相で、私の首を締め付けている。なぜか私は、それを冷静に見つめている。

 無意識に、私の手がゆっくりと持ち上がっていき、そして母の頬に触れた。

 その瞬間。

 凍りついた時間が、砕ける。

 母の顔が、陽炎のように揺らめいた。そして、そこに浮かび上がったのは――私の顔だった。

 私は必死に私の首を絞めながら、泣いていた。

 私はその頬を撫でてやる。

「……あ……あ……」

 私の口から声が漏れる。

「もう、いいのよ」

 私は私に声をかける。

 私は、崩れるようにその場に膝をついた。嗚咽おえつが、せきを切ったようにのどからあふれ出す。幼い頃からずっと、心の奥底に閉じ込めていた涙が、今、初めて流れ出してきた。

 気づけば人魚は、何も言わずに、ただ私の頭を撫でてくれていた。その手つきは、あまりにも優しかった。

 どれくらいの時間が経っただろう。

 私が顔を上げたとき、彼女はふわりと立ち上がっていた。生まれたての脚はまだおぼつかないが、それでも確かに、大地を踏みしめている。

「……行っていいわ」

 私は、言った。

 人魚は、私を見て、嬉しそうに微笑んだ。それは、夜明けの海のように、静かで、清らかな微笑みだった。

 彼女は私に背を向けると、一歩、また一歩と、おぼつかない足取りで歩き始めた。

 私は、その後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。

 私は一人、砂浜に残された。

 いや、足元の岩の上で、何かが動いた。

「やれやれ、まったく。面倒なもんだな、人間ってのは」

 蟹だった。

 入り江には、夜明けの気配が満ちていた。東の空が、真珠母色しんじゅもいろに染まり始めている。足元の砂浜には、彼女が剥ぎ落とした無数の鱗が、朝の光を受けて、まるで涙の粒のようにきらめいていた。

「泡になって消えたと思ったのにな。そんなに甘くはない、か」と蟹。

 私は、その鱗を一枚、拾い上げた。

 ひんやりと冷たい、青い宝石。それは、私の過去。

 潮風が、私の涙の跡が残る頬を、優しく撫でていった。

 海は、静かだった。すべての痛みと哀しみを呑み込んで、ただ、新しい朝を受け入れていた。


 †

 

 朝、目が覚めると、私はベットにいた。いつ戻ってきたのかは、わからない。

 身を起こし、茫然として頭を掻いた。

 聞こえるのは、蝉の声。そして海鳥の声。

 窓からは強い朝日が差し込んで、今日も暑くなると予告している。

 私は、髪の毛をくしゃくしゃにして、ベットを叩いて、それから思い切り大きく伸びをした。

 そして深呼吸すると、ベットから飛び降り、身支度を整え、レストランでバイキングの朝食をお腹一杯食べた。

 そしてチェックアウトを済ませた私は、歩き出した。

 ロビーのふかふかの絨毯を歩きながら、ひんやりとした砂の感触が足の裏に蘇る。

 帰ろう、東京へ。日常へ。

 課長のデスクの引き出しから、辞表を返してもらおう。

 それから、父にも会いに行こう。

 ――長かった夏休みも、ようやく終わりか。ぶくぶく。

 何かの声が聞こえた気がした。

 風がオリーブの木々を揺らしていく。

 波は静かに寄せて、引いて。

 瀬戸内の海と空は、今日もまぶしいほどに青い。

 きっと、東京の空も青いだろう。

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