消失
鹽夜亮
消失
俺は目覚めた。周囲が、灰色の壁に囲まれている。…
何事かと、壁を触る。無機質で、温度もない。手触りは滑らかで、破綻のない金属を思わせる。何で出来ているかはわからない。ただ、硬さだけはわかった。
四方の壁は、部屋というには小さすぎた。一畳ほどだろうか。この場所は、正方形をしている。その圧迫感に、息が詰まる。匂いもしない。まるで、何もかもからこの壁に遮断されたように…何も、わからない。
咄嗟に、扉を探した。俺が中にいるということは、入り口があるはずだ。つまりそれは、出口になる。どこを見回しても扉のようなものも、ドアノブのようなものもない。ただ、四方には平坦な壁が広がっている。とにかく、壁や天井、床を隅から隅まで触った。どこにも、何もない。掌にひっかかる、一つの裂け目すらない。あまりにも完璧な、平坦だった。どこを押しても、何の応答もない。
声を張り上げても、それは反響するだけだった。
壁に爪を立て、微かな亀裂を探す。どれだけ探しても、爪がどこかで止まることはない。壁には傷がつくことすらない。
そして俺は、途方に暮れ始めた時、気づいた。
四方から、壁が少しずつ迫っていることに。
心臓が跳ねた。意味を理解できない。錯覚だろう、と壁と床の境目に爪を当てると、じわりじわりとそれが押されていくのがわかった。錯覚ではない。その事実の、あまりの息苦しさに、声を張り上げた。鼓膜をつんざくように自分の声が反響する。冷や汗が身体中を伝う。
理屈が理解できない。意味が理解できない。説明ができない。だが、このままもし壁が進むのなら、その結末だけは、理解できた。
壁を押し返そうと力を込める。びくともしない。筋肉が、関節が、骨が悲鳴を上げるほど力を入れても、ほんの少しさえ壁は動かない。それは天井や床、どの面を押しても、同じだった。
ここに至って俺は、この正方形の壁の内で、上下感覚すら麻痺し始めた。天井、床、確かにそれがわかるはずで、自分の体は重力に従っているはずなのに、思考が混乱する。どこを見ても、景色が変わらない。その恐ろしさに、気が狂いそうだった。
親指の皮膚を噛みちぎり、俺は自らの血で目の前の壁に1、左手側に2、背後に3、右手側に4、上にA、下にBと血文字を書いた。
それを眺めると、少しだけ感覚が落ち着いた。少なくとも、目先の方向だけが理解できた。それだけでも、何か一つ問題を解決したような気分になった。1の文字を見ながら、考えろ、と自分に言い聞かせる。その文字が少しずつ大きくなるのを視界に感じながら、昂る鼓動を感じながら、考える。
地団駄のように、Bと書かれた壁を蹴り付ける。何の意味もないその行動は、ただ俺を疲弊させた。一畳ほどの広さがあった空間は、すでに座った俺の体に触れるほどになっていた。膝から感じる壁の感触に、焦燥感が加速する。汗がBの壁に滴った。
何の意味もないと分かりながら、2の壁に体の正面を向ける。一度蹴り飛ばしてみる。何も変わらない。ここは何だ、という疑問が脳裏を何度もよぎる。だがそれがわかったからといって、何の意味があるというのだろう?ただわかるのは。この血文字で記された壁たちが迫りくれば最後は、『俺は死ぬ』ということだけだった。
何もできないまま、壁は近づいてくる。肩をすくめ、手足を曲げ、首を折り曲げなければならなかった。もはやこの場所で、俺の確保できる空間は、それだけだった。身体中に壁が当たる。そうなると、じわじわと進行してくる壁の冷徹な圧迫が、如実に感じられる。心臓が加速する。瞳孔が泳ぐ。答えを求めながら、ただ2、A、1、3と血文字だけを追っていく。それは近づいてくる。
何一つ、思考が答えを紡ぐことがない。手足を伸ばしたい。しかし、そこに空間はない。首を逸らしたい。そこにも空間はない。体を動かすことができない。動かすことができるのは、足先と手足、肘先くらいのものだった。
圧迫、圧倒的な圧迫が、心と体を押し潰そうとしている。
破裂するような絶叫。それが自分のものだと気づくのに、時間がかかった。何の意味もない。ただ鼓膜を破るほどの、反響。
いよいよ、骨と関節は悲鳴を上げ始めた。俺は体を丸くし、出来る限りその苦痛から逃れようとした。だが、それにも限界がある。人間は物体だ。物体である以上、最低限空間を必要とする。『存在するためには』。…
心理的な圧迫を、身体的な圧迫が超越し始める。それは身体中の軋み、痛み、動かせないことからの鬱血、あらゆる苦痛だった。もはや思考は痛みに支配されかけていた。考えること、その余裕を奪うように、この空間は俺を圧縮していく。…
骨が、軋む音を立てる。もはや全身の激痛は、骨が折れているのか削れているのか、圧壊されたのか、その区別さえ俺に与えてくれなかった。
また叫んだ。叫ぶことしかできなかったから。まだ、声帯と肺は、機能している。
何かを押すことも、引っ掻くことも、何一つできない。手足さえ、動かすことができない。歪に曲げられた指先が、激痛を発している。
俺はようやく、悟った。
ここで俺に出来るのは、叫ぶだけだ、と。
まだ、肺は息をしている。心臓も押し潰されていない。声帯も残っている。
言葉ではなかった。絶叫を繰り返す。全身の痛みを引きちぎるように、もはや思考をやめた脳の、恐怖や焦燥感を押しつぶすように。反響すら、もはやなかった。反響する空間など、なくなっていたから。
自分の状態がわからなくなった。わかるのは、まだ声が出るということだけだった。痛みは飽和し、何も感じなくなっていた。恐らく、手足も他の骨も、もうまともな形をしていないのだろう。ならば、この声が途切れるのも、そう時間がかかるものではない。…
少なくなった酸素は、まだある。圧迫を感じながら、まだ肺は酸素を取り入れる。絶叫によって傷ついた声帯は、まだ音を出せる。
叫ぶ。誰にも聞こえなくとも、ただ叫ぶ。
何もわからない。
叫ぶ。絶叫する。
何も、わからない。
千切れそうな声帯を、破裂させるように叫ぶ。
もう、酸素がない。
これが最後と悟りながらも、叫ぶ。
もう、肺が、膨らまない。
まだ、音が出る。
あぁ、もう。……
俺の声が、止んだ。
消失 鹽夜亮 @yuu1201
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