後編

  草かどこかにひっそりと潜むカエルの鳴き声が、段々と己の存在を誇示し始めた。

 私のジャケットは肩のところが、傘の受け止めきれなかった雨水で濡れ、靴もまるで小川に足を浸けたようにぐっしょりと浸水していた。

 平静を装ってはみるものの、この不快感は拭えない。

 隣を歩くご婦人の方に視線を送る。彼女は澄ました顔で赤い傘を両手で持ち、肩で支えている。

 背筋をピンっと伸ばしており、立ち振る舞いはまさに貴族のようである。

 美しい。

 ただその一言である。

 奇妙なことに、これだけの雨にも関わらず、着物が濡れている様子はない。この時の私はそれに気づいていながら、鈍感にも数秒間も気に留めることが出来なかった。

「あちらで落としてしまったのかもしれません」と婦人が言ったからだ。

 婦人が指さす方に小道とその先にトンネルがあった。レンガ造りであり、隅には雑草が無秩序に生い茂っている。内側には蛍光灯があり、薄暗く照らしているが、奥の方のいくつかはもう寿命がないのかパチパチと音を立てて点滅している。

 雨で、生した苔は湿っている。

 そのもっと向こうには反対側の出口の光が見えている。

 婦人はトンネルに入り、傘を畳み、中へと入った。私は何も言わず彼女の後に続いた。

 正直いって、薄気味悪いトンネルだった。

 廃墟に似ていた。

 ここを通行する者は、一日にそういないだろう。

 手入れがされていないのだろうで、崩落しそうとまでは言わなくても、ここに長い間いたいとは思わない。それほどに、廃墟のようだったのだ。

 一人でこのようなところに入ったら、きっと私は全身を震わせ、一歩も動けないだろう。

 このトンネルはどこか現実と切り離された、異界へと続くように思われた。

 水滴が落ちる水たまりに落ちる音、足音、呼吸音などがトンネル内に反響している。

 このトンネルはそんなに長いものではなく、あっという間に抜けてしまった。

 私の目の前には、自然公園のような、広場と森が広がっており、中央には大きな池が鎮座していた。

 その池には雨により無数の波紋が生まれては消え、消えては生まれを繰り返していた。

 ザーザー降る雨は霧の様で、薄く白い幕が張られている。

 私は、この場は足を踏み入れたことが無かった。

 婦人は手に持っていた赤い傘を開き、また歩き始めた。

「こちらで落とされたのでしょうか?さっき、ここに来られたのですか」

「えぇ、こちらも、紫陽花が綺麗に咲いておりまして、それを観るために、ここへ来たのです」

 奇妙な話し方で、婦人は答えた。

「では、探しましょう」

 私も彼女に続いて傘を開き、隣を歩くと、視線を地面に落した。

 木にはセミが止まっているのだろう、鳴き声がしている。あまり昆虫については詳しくはない私であるが、この時期にもセミはいるものであると、どこかで聞いたことがある。

 その声に紛れるように、カゲロウや鳥の鳴き声も聞こえた。

 ここら一帯が虫と鳥とカエルたちの大合唱に包まれていた。

 池に沿った道には、確かに紫陽花が満開だった。蒼い紫陽花はさらに蒼く、ピンク色の紫陽花は化粧をしていた。紫や水色のものもあった。それらが密集して己が生の存在を示すように咲き誇り、その様はまるでガラス細工の様だった。

 今はこんな天気だが、晴れていれば明らかに素晴らしい場所だった。私とこのご婦人以外にいないことを除けば、観光スポットとしては完璧だった。

 奇妙に思いつつも、私は私の善意のために、またご婦人のためにその道を歩いて手巾を探した。

 が、中々見つからなかった。

「雨の季節に咲く花、紫陽花。本当に美しいですね」

 ご婦人はうっとりとした声で言った。

「たしかに。紫陽花が咲くからこそ、今年もこの季節がやってきたと実感できますね」

 どうやら、私には女性と話す才は無かったようで、上手いことを返すことも気取った台詞を思いつくことも出来なかった。

 会話が少ない。だからこそ二人で歩くこの場に流れる時間は、普段よりもずっと遅く感じられた。

 雨濡れた草の匂いが、鼻をくすぐった。

 草の中からはコオロギの鳴き声が聞こえた。

 これほど居心地のいい場所を知らない。

 耳で音を聞くもよし、目で花を愛でるもよし、雨に打たれるもよし、匂いによる感傷に浸るもよし。

 神聖な場所だった。

「あちらも探してみましょう」

 ご婦人は池の端にある、木で築かれた橋を指さした。

 彼女はそこも通ったのだろうか。

 私は声で返事をする代わりに視線を送り、そしてご婦人の後ろについていった。

 今にも消えてしまいそうなその後ろ姿は、生きている人間としてどこか違和感のあるものだと、私は思った。

 コツコツコツ、二人の靴の裏側が木の板の表面に当たり、軽い音を奏でている。

 雨は相変わらず降っており、私達の目の前で落ちると、池へと吸い込まれていった。池は濁っており、水面には曇った空模様を無数の波紋の背景として映し出している。

「……ありました」

 危うく聞き逃しそうな小さな、か弱い声でご婦人が言った。

 声を漏らした、の方が正確といっていいほどだった。

 彼女の視線の先には、池の水面に手巾がゆらゆらと揺れて横たわっていた。

 ご婦人はただじっとそれを見つめている様子だった。

「取ってきましょうか」

「いいんです。もう、いんです」

「あの手巾は、大切なものなのですか」

「あの手巾は、大切なものです」

 彼女は、傘をやや上げてこちらに視線を移した。

「大切な人から頂いた、大切なものなのです」

 無表情。いや、無表情を繕っているだけで、その瞳には深い、深い悲しみの念が見え隠れしていた。

「でも、もう、いいんです」

 私は手巾に視線を向けた。

「大切なら、拾わなければなりませんね」

 私はどうしてだかそう思った。取らなければない。そしてそれを彼女に伝えた。

 手巾までは、そこまで離れていない。少し泳げば取れる距離に思えた。

「やめておいた方がいいですよ。ここは深いですから」

「大丈夫です。私は、泳ぐのが得意なのでね」

 傘を閉じて床に置き、重心を一気に前へと移して、飛び込んだ。

 水に私の身体が打ち付けられ、水しぶきがあがった。

 身体を張ってみたが、いささか浅はかだったようだ。というのも、体温が徐々に奪われていくのを感じたのだ。

 とはいえ、もう飛び込んでしまったものはしかたがない。思ったよりも深かったが、泳ぐ分には問題なかった。寒さにかじかむ手で、さっさと手巾を掴みすぐに婦人の待つ足場に這いあがった。

「これですね」

「まぁ、本当に取ってしまうだなんて」

 感慨深そうに婦人は私が差し出した手巾を見つめていた。血の気のない頬が僅かに色づいたように見えた。

「有難う御座いました」

「いえいえ、お役に立てて光栄です。それでは、戻りましょう」

 私は地面に置いた傘を拾った。すでに水に飛び込んでいる時点で、私の全身は濡れているが。

 ずぶ濡れだなと、私は思った。そしてこうも思った。

 



 何故、私は濡れている?



 疑問に思っている私を照らすように、雲の切れ目から陽の光がまぶじく射しこんでいた。幸いにも雨はいつのまにか止んでいたのだ。

「おぉ、晴れましたな」

 振り向くと、誰もいなかった。婦人の姿も、あの紅い傘も無かった。

「ご婦人?」

 私はまた振り向いた。

 そこにあったのは白い背景。絵を描く前のような、少したりとも色の塗られていないスケッチブックのような、真っ白。

 セミの声も、カエルの声も、カゲロウの声もしない。全くの無音。

 せき止められていた波が防波堤を打ち破るように、突如として恐怖が押し寄せてきた。濡れていてかじかむ程寒いはずなのに、全身からは汗が噴き出た。此処に居てはいけない。人間の本能としてそれが分かる。

 今までの私の行動は全て間違っていたのだ。私は女性に話しかけるべきでなかった。手巾など探すべきではなかった。

 そう直感して間もなく、意識が遠のいていく。


━━━━━私はそこで、目を覚ました。

 どうやら酔いつぶれていたようで、虚ろな頭の中が透き通るようになると、そこは紫陽花が綺麗な山の麓にある居酒屋だった。

 明るい店内は清潔で、落ち着いたクラシック調の曲は心の拠り所である。

「……夢、だったのか」

 起きてすぐは、手が僅かに強張り、震えていた。が、それもすぐに収まった。

 今は、焼き鳥の匂いが鼻を擽り、ガヤガヤと笑い声が後ろの席から聞こえる。

 ここは平和の場。誰が歌い、酒を飲み、肴を楽しむ。

 この安息の店ではもはや夢の中で感じた寒さはなかったし、服も靴も濡れてはいなかった。日常的な光景に、私は安堵した。

 本当に奇妙な夢だった。

 久々にそんな風に思った。体調を崩した時の悪夢に似ていた。いや、悪夢とまでは言えない。実際、途中までは素晴らしい夢だっとように感じるし、不思議と心地よかったも感じる。

 それでも何処かに胸につっかえる妙な違和感があった。今ではもう夢の中の記憶など靄がかかったように薄れていき、少し経てば忘れてしまうだろう。

 飲みかけのウィスキーを入れたグラスがあった。グラスからは水滴が滴っている。それを一杯、口に含んだ。

 苦しさから出た嫌な汗をかいた私は、ジャケットのポケットから、びっしょりと濡れた、紺色の手巾を取り出して額を拭いた。

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雨の日の人影 麦とお米 @mugitookome

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