ゼロメートル

 商店街を抜け、住宅街に入る。

 春ちゃんがどこへ向かっているのか、私にはもう分かっていた。


 史ちゃん先輩の家だ。


 冬の夕暮れは早い。

 少し前まで柔らかな青が空一面を覆っていたのに、今は温かなオレンジが世界を包み込もうとしている。

 

 次の角を曲がって三軒目。

 白い壁の二階建ての家。


 今朝、あんな二人を見てしまった春ちゃんは、それでも史ちゃん先輩と同じ大学を受けるのだろうか。

 

 もう少しで角を曲がるというタイミングで、急に春ちゃんが立ち止まった。


「春ちゃん?」


 緊張している。

 そんな風に見えた。


 顔を斜め上に向けて空を仰ぐ。

 息を吸う。

 肩があがる。

 上げた顔を、今度は下に向ける。

 深く息を吐く。


 その一連の行為がとてもとても大切な儀式のための前段階に感じて、私は動けなくなった。

 私たちの真横をバイクが走り抜ける。

 音が遠くに吸い込まれて、消える。


 春ちゃん。

 私はいつだって、ここにいるよ。

 

 胸の中でそっと呟く。

 誰かに心臓を掴まれているかのように、キリキリと胸が痛む。

 渡り廊下じゃなくても、私と春ちゃんの間にはずっと越えられない二メートルが存在する。


 「大丈夫だよ」と言うのは簡単だ。

 だけど、春ちゃんが今からやろうとしていることを考えたら、そんな無責任なことを軽々しく口には出来なかった。


 しゃんと背筋を伸ばして、春ちゃんが再び歩き出した。

 角を曲がるその直前に「春ちゃん」と声を掛けると、私は張り詰めた気配の漂う背中に向かって、精一杯の笑顔で言った。


「行ってらっしゃい」


 ゆっくりとこちらを振り返った春ちゃんの顔は、初めて私と出会った時のような心細さに満ちていた。


「史ちゃん先輩に、大事な用があるんだよね」


 春ちゃんはわずかに視線を泳がせた後、こくりと頷いた。


「ここで待ってるから」


 友達でも恋人でもない私は、春ちゃんの幼なじみとしてずっとそばにいよう。


「ん」


 春ちゃんは私の言葉に頷くと、そのまま角を曲がって行った。

 吐く息は白く、コートを着ているのに寒い。

 私は壁に背中を預け、そのままずるずるとしゃがみ込んだ。

 想像する。


 史ちゃん先輩の家の前に立つ春ちゃん。

 インターホンを押し、用件を告げる。

 玄関に現れた史ちゃん先輩は、可愛いイトコに向かって「急にどうしたの」と訊くのだろう。

 「ミカンありがとう」「お礼なんていいのに」「あのさ……」

 史ちゃん先輩は少し困った顔をするかもしれない。

 でもきっと、誠実に春ちゃんの目を見て返事をするに違いない。


 春ちゃんの悲しい顔を見たくないなと思った。

 この場に滝村がいてくれたら良かったのに。

 

 じっと座っているせいか、つま先がじんじんしてきた。

 冬の夕暮れなんてあっという間に終わる。

 寂しさで泣きたいような気持ちを抱え、顔を膝の間に埋めるようにして私は強く目を閉じた。

 

 じゃり、と石とアスファルトが擦れる音がして、私は目を開ける。

 視線の先に、見慣れた靴が見えた。

 

「……おかえり」


 優しく微笑んだつもりだったが、うまく唇の端があがらない。

 私は痺れる足を庇いながら、立ち上がる。

 

「暗くなっちゃったね」


 春ちゃんに背を向けるようにして軽く伸びをしてから、私は「帰ろうか」と言った。


「……聞かねぇの」


 春ちゃんの声が震えている。


 振り向きたい。

 今すぐ振り向いて抱き締めてあげたい。


 そう思った。

 でも、出来なかった。

 私と春ちゃんの間にある距離が、それを許さなかった。


 私は聞こえなかった振りをして、明るく言った。


「今日うちはね、夕ご飯、寄せ鍋なんだ。春ちゃん、一番好きなお鍋の具って何? 私はやっぱりベタだけど白菜がいいなぁ。冬はやっぱりお鍋がいいよねぇ。毎日だと飽きるってよく言うけど、私は飽きないしむしろ朝昼晩全部お鍋もアリだと思う。お肉とかお魚とか入れればタンパク質が摂れるし、野菜いっぱいでヘルシーだもん。お鍋でダイエットとかアリかな。あ、でも食べすぎちゃったら結局一緒だよね」

 

 ぺらぺらと鍋料理についてひたすら語り続ける。

 好きな鍋料理ベストスリーを挙げ始めたところで、後ろから笑い声が聞こえた。

 口に当てた手からすり抜けるように漏れ出た声は、ひとしきり盛り上がった後、すっと静かになった。


 少しは役に立てたかな。

 ホッとしたその時、春ちゃんがぽつりとこぼした。


「ありがとな」


 春ちゃんの手が私の頭を撫でるように触れたかと思ったら、次の瞬間には私を追い越して春ちゃんが前に立った。


 一瞬の出来事だった。

 ゼロメートル。


 固まっている私をそのままに、春ちゃんは来た道を戻っていく。

 触れられた感触が残る場所に、そっと手を当てる。


 春ちゃん。

 好きだよ、春ちゃん。

 幼なじみの顔の下でそう思うことを許して欲しい。

 同じ気持ちになって欲しいなんて贅沢は言わないから。

 

 叫びそうになる声を抑えつけるようにして大きく息を吸い込むと、私は春ちゃんの背中に向かって足早に歩いた。


 三月、史ちゃん先輩は高校を卒業した。

 

 卒業式の日、正門にはあの男の子が待っていた。

 満面の笑みを浮かべて駆け寄る史ちゃん先輩は、世の中のあらゆるものを味方につけたような幸せそうな空気をまとっていた。


 春ちゃんとは変わることなく、ずっと一緒に学校へ通っている。

 唯一変化があったとすれば、渡り廊下での待ち合わせが無くなったことだ。

 

 春ちゃんがその場所からバレーボール部の練習を見ることは、もうない。

 だから、私は時々一人で渡り廊下から空を見上げる。

 薄い雲の向こうから、何かの鳴き声が聞こえた気がした。

 

 来月、私たちは高校三年生になる。 




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春まではまだ遠く もも @momorita1467

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