第54話 薄雪を踏みて、名を結う


──冥府・薄雪の宮、禁の間。


灯は落ちている。

呼吸の数だけ、静けさが脈を打つ。

赫夜は椅子に背を預けず、片手を挙げる。影が寄る。


「止めろ」


一語。

影は頷きもせず、ただ消えた。気配も痕跡も残さない。


扉の外で気配が揺れ、明熾が入る。

赫夜は視線で問い、明熾は短く頷く。


「外に連れ出せ。不必要な監視が増えた」


それだけ告げ、赫夜は視線を逸らす。

明熾は一礼し、静かに退いた。


禁の間に独り残ると、赫夜は紙片を火に落とす。

灰は生じず、痕跡も消える。



***


薄雪の宮の回廊は、夜気をよく通す。


「外へ出る」


明熾が戸口に立ち、短く言った。理由は告げない。

宗像へ戻れる道が一歩でも近づくなら、問うている暇はないと冬馬は思う。

慌ただしく草履をつっかけ、大きな背に従った。


市へ下る石段は、油と醤の匂いで温かった。

焼き砂糖の甘さが風に混じり、鍋と杓文字の音が重なる。

宮の乾いた空気の中では忘れていた生活の匂いが、肌の上でほどけていく。


「こんなこと、してる場合か」


冬馬の声に、明熾は答えない。

露店で餅を二つ買い、片方を冬馬に押しつけた。


「いや、話を聞けや」


「今のうちだ」


押し返す言葉が見つからず、渋々齧る。

焦げの香と熱が喉を落ちていく。

乱れていた鼓動が型に沿うように揃う。それが癪に障る。

二口、三口と続けてしまい、食べ終えると、明熾が布で口元の粉を拭った。

あまりに自然で、冬馬は慌てる。

まるで子か何かを護るように、無意識で出た仕草にしか見えなかった。


「何してんねん」


「手が勝手に動いただけだ」


淡々と離れた指先は、すぐに肉串を注文していた。


「君らが『死神』と呼ぶ側にも、営みはある」


中央の広場から放射線状に伸びた路地には、露店が並ぶ。

冬馬は視線を追い、呟いた。


「冥府も……変わらんのやな」


明熾は串を受け取り、冬馬に押しつける。

油が滴り、炭火の香が夜気に濃く広がった。


「……またか」


腹の底が鳴り、渋々噛みつけば、炙った脂が舌に弾ける。

塩と醤の香りが喉を抜け、焦げ目の苦みが心地よく、止まらない。


明熾は黙って隣で食べ終え、焦げた先端を指で弾き、木串を紙に揃えて収めた。


「冥府が敵のようにしか見えないなら、曇っているのは君の目だ」


冬馬は言い返そうとして、また口元を拭われ、顔を真っ赤にした。


「拭かんとって」


首を傾げるだけの仕草に、冬馬はいちいち拒むのをやめた。


猫が露店の下から飛び出し、子どもの声と笑い声が重なる。

冥府にも暮らしがある。そう知っただけで、足取りが一瞬ふわりと軽くなった。


「少し用事だ」


明熾は二本目の肉を淡々と喉へ送った。

冬馬も慌てて真似をしたが、噛む間もなく押し込み、熱さに目を潤ませる。


「ゆっくりで良かったのに」


明熾の声音は落ち着いていて、逆に癪に障る。


「もっと早よ言えや。息上がるし、喉焼ける!」


涙目のまま見上げると、明熾の横顔はわずかに笑ったように見えた。

冬馬は心臓が跳ねるのを誤魔化すように、路地を進む。


「あのさっ。四天王って、そもそも外に出られるんか?」


「後で話す」


冬馬はそれ以上聞けなくなった。

まるで迷路だ。

数メートルごとに小さな路があり、蜘蛛が糸を張るように細分化されている。

通りは宮の外縁を西へ流れていた。


賭場の灯が黄に強く、札を弾く乾いた音が通りの柱に跳ね返る。

宗像の匂いは、ここにはない──それだけは確かだった。


「行こう」


賭場の中央で、初老の男が札を指ではじいている。

こちらへ笑みを含んだ目を寄越し、口角だけで言った。


「皇子が散歩か。……子犬まで連れて」


「誰が子犬や」


冬馬が睨むと、男は肩を竦めて札を伏せた。

何もしないのに、人の流れが斜めに傾く。

背後の気配が別の路地へ吸われていくのが、体で分かる。


「じゃ、依怙贔屓だな」


明熾が気に留める様子は微塵もない。


「ちょいと散歩って面持ちじゃねえな」


男は札を指の隙間で遊ばせる。

明熾が「援護」と一言置くと、男は指先をひらりと振った。


「はいはい。坊ちゃんに借り、一つね」


男は名乗らない。名乗る気もない様子で手を振るだけ。


「あいつ、誰やねん」


「賭場の『風切り』、名は迅羽。軽口ひとつで場の風を変える」


明熾は珍しく苦い顔をした。


──その瞬間、屋台の上の盃がからんと鳴り、賭場の歓声が半拍ずれて弾けた。

初老の男がこちらに片目を寄越した。


「この小童が子犬か子狐かで張るやついねえか?」


男は大声で場に投げこんだ。

周囲がどっと笑い、重心がそちらへ傾いた。


さらに男は口角をつり上げ、畳みかける。


「当たった奴には酒一升、外れた奴は皿洗いだ」


場がさらに沸き、冬馬が真っ赤になりかけたところを、明熾が肩で押して通す。


明熾はいつも通りというように背を向け、さっさと賭場を出る。


「何も聞くな」


先に釘を刺されて、冬馬はむっと頬を膨らませる。

明熾の足取りが明らかに軽くなった。

灯の向こうにあった人影が消えていた。



***



角を折れると、警邏の紋を袖に縫い込んだ官吏が横一列に立ち、道を塞いだ。

人の形をしているのに、温度の落ちた目だ。


「通行印の提示を」


口ぶりだけが固い。

冬馬の指が反射で柄を探した瞬間、明熾に手首をつままれて動きが止まる。

力は弱いのに、関節の奥で抑えられたように逆らえない。


一人がまばたきを忘れた顔で冬馬を見つめ、口の端がわずかに歪んだ。

その視線に皮膚を刺された途端、耳の奥でざわめきが増え、己の名の最初の一拍が遠のいた。


冬馬──「と」の手前で舌がもつれて、胸の内側に砂が流れ込んだみたいにざらつく。

吐き気が上がり、冬馬は石壁に手をついた。


「こちらを見ろ」


明熾の声は低くまっすぐで、焦りがない。

それが助けになる。顔を上げれば、揺れない目がそこにある。


明熾は影の止名を落とす。

名は音だ。結び目を一つ固めれば、揺れは鎮まる。


「名はここにある」


明熾の指先が胸元を軽くはじく。

鼓動を自分のもののように確かめる、護る手つきだった。

冬馬の喉を塞いでいた膜が薄くほどけ、息が通った。

首筋に触れた明熾の指が拍だけ確かめてすぐ離れる。


「もう大丈夫だ」


明熾が呟き、官吏の肩越しに視線を滑らせたのと同時に、賭場の方で歓声が跳ね、灯が連鎖して弾けた。

一斉に目がそちらへ吸われる。

言葉になる前に襟を引かれ、抜け路地へ身をすべらせる。


「あれ、目眩しのつもり?」


走りながら問うと、明熾は淡々と答えた。


「音の重心をずらせば、群れは勝手に傾く」


「どこの世界も単純やな」


屋根の端を影がひとつよぎり、矢羽が空を裂くような微かな気配だけが残る。


「え?」


冬馬は思わず足を止めた。


「馬鹿」


明熾が勢いよく腕をひいた。


「監視を撒いている最中に止まるやつがあるか」


壁に刺さった矢を二本引き抜くと、明熾はそれを鼻先へ突き出す。


「こっちが味方、そっちは敵」


冬馬はただ困惑する。


「皇子が狙われんの?」


明熾は肩をすくめてみせる。


──屋根から乾いた指笛が一声。


さっきの初老の男が、ひょいとひさしに腰を下ろして指で示す。


「散歩に付き合うにも、礼儀があってな。……ほら、右」


同時に右手の路地の灯がふっと落ち、左へ人流が偏った。


「坊ちゃん、借りは二つな」


二人がそちらに走ると、男は笑って姿を消す。


***


市の端、結界の薄い縁。

そこにも影が立っていた。

官吏ではない。得体の知れぬ影。


視線が当たった途端、耳のざわめきがまた増え、名前が薄れる。

冬馬は石垣に手をつく。


「前だけを見て」


明熾の声がして、首の後ろに置かれた指が軽く押す。

視界が前だけに狭まり、雑音が遠のく。


「名を掴め」


指が一度だけ動き、手が離れる。


「もうすぐだ」


明熾が右上を見る。

屋根の影がふっと膨らみ、どこかで細い鈴が乾いた音をひとつ鳴らした。

嫌に粘着質な視線がほどけ、前が空く。


──その直前、屋根から小さく声が落ちた。


「子狐で手を打たんか?」


「うるさいわ!」


冬馬が反射で噛みついた瞬間、胸のざらつきが切れ、あっさり名が戻る。


「迅羽、もう黙れ」


明熾が空へ一言捨てる。

直後、指笛がひとつ──迅羽の合図。


「足を止めるな」


結界の境界へ駆ける。

膜に触れる直前、明熾が冬馬の前髪を指で上げ、眼元に手をかざした。

閃く白光がやわらぎ、耳のざわめきが薄皮一枚分だけ遠のく。

向こうの冷たい空気の筋が、すっと見えた。


「あいつ、何者やねん」


明熾が迅羽と呼んだ男の誘導は見事すぎた。

明熾は答えず、手を離す。


***


言葉少なに歩き続けた。

半刻ほどして、明熾が足を止めた。


「ひと息つけるな」


結界の外れは風の通らない小さな窪地。

明熾は石に腰を下ろし、包みを開いて干した柿と薄い餅と黒蜜の飴を並べた。

冬馬は立ったまま、来た方角に目をやる。


「座れ」


「座ったら立てん気がする」


「立たせる」


明熾の言い切りの調子に、反論がほどける。

干し柿を押され、渋々齧る。

噛むほど肩から力が抜け、抜けた途端に胸の奥がぐらりと揺れ、冬馬は石に手をついた。


「……ほんまに、何やこれ」


名前の輪郭が削られる。

冬馬という名が遠のく。


明熾は背に手を置き、肩甲骨の下を撫で下ろしてから、首の後ろに指を当てた。

圧は弱いのに、呼吸だけが言うことを聞く。


「名を声に出してみろ」


喉が焼けるほど息を吸い、冬馬は目を閉じた。


「冬馬」


名はあっさりと戻ってくる。

ざわめきがほどけ、足裏に地面が戻る。

明熾の指が離れ、息の端で笑いが零れそうになって、冬馬は自分で驚いた。


「呼ぶ名と在る名が、噛み合っていない」


明熾は飴を指で転がしながら言う。


「冬馬は宗像のいる世界での名だ。ここで君に割り振られた名がある」


「そんなもん、要らん」


刺々しい声が自分に刺さる。

明熾は頷きも否定もしない。


「要る要らないは後だ。まず核を一つに揃えろ」


黙り込んだ冬馬を横目に、明熾は肩を落とす。


「千年王でさえ即位直後は名が揺らぐ。だから《同律》は法だ」


「志貴は千年王になったばかりや……同じことになるんか?」


ふと口から零れた名に、明熾の目がわずかに動いた。


「紅は……。おそらく、揺らぎはせんだろ。揺るがせない楔がいる。君は他人のことより、まずは自分自身を何とかしろ」


言葉は冷たいのに、落としどころは体に合わせてある。反論は見つからない。


「合っていなければ、さっきみたいに揺れる。隙だらけになる」


「……冥府での名とか、馴染むわけないやんか」


「飛雪。悪くない響き」


明熾は干し柿に手を伸ばす。

胸の奥へ細い冷気が入ってくる。

冬馬は顔を上げた。


「俺は冬馬や」


「外では冬馬でいい。内側では──受け入れろ」


「二つ、使い分けろって?」


「定めるだけだ。どちらも、君だ」


明熾が飴の包みを剥ぎ、冬馬の口元に押し当てる。


「噛め」


黒蜜の甘さは悔しいほど効いて、胸のざらつきを押し下げた。


「易々と敗けたくなければ、己を使いこなせ」


明熾は冬馬の右手を取り、掌を軽く掴む。


「稽古だ。一つ言い、すぐ重ねろ。止めるな」


「……冬馬、飛雪」


最初の音が硬く、胸の奥に反発が走る。

甲に添えられた指が拍を一つ刻んだ。


「もう一度」


「冬馬、飛雪」


今度はわずかに滑らかで、視界がぶれない。


「逆にしてみろ」


「飛雪、冬馬」


言えた瞬間、胸の引っかき傷がおとなしくなって、息が深く落ちる。

冬馬は小さく息を吐き、膝に額を落とした。


「嫌や。……けど、楽や」


「嫌なら、嫌のままでいい。受け入れろ」


「無茶ばっかり言うなや」


「無茶苦茶は宗像の十八番と聞いている」


「それ、正解や、間違いないわ」


明熾の目尻が、ほんの少しだけ和らいだ。

風が細く鳴り、遠くで乾いた音がひとつ。

どこかの近道がまた削られたのだろう。

空気が一度入れ替わり、冷たさだけが残る。


「宗像に、戻りたい」


顔を上げれば、宗像の方角は体が覚えている。

明熾は頷かず、否定もしない。

明熾は包みの最後の飴を冬馬の手に乗せた。


「移動する。歩きながら噛め」


「子ども扱いすんな」


「子どもでいていい」


立ち上がろうとした膝がわずかに笑い、袖を軽く引かれて体が立つ。

明熾に前髪を指で上げられると、視界が一段明るくなった。


「宗像が蹂躙されるんは嫌や」


明熾は小さく息を吐いてから、冬馬を見た。


「君の宗像が十日の備えを活かせぬほど脆いとは思えない」


冬馬の目に光が戻る。


「当たり前やろ!」


声を荒げてみてから、しばらくして冬馬は首を傾げた。


「十日って……何」


「赫夜が止めろと命じた。暗部組織の『黯』が動く。少なくとも十日は宗像や泰山に異変は起きない」


「相手は四天王やで?」


「黯なら足止めは可能」


誰かが敵の足を止める──赫夜の「止めろ」という一語が、見えないところで形になっていくのを、冬馬の体が先に理解した。


「十日」


数字はそれだけで、余計な理屈はない。

冬馬は頷かず、前だけを見る。


「宗像は簡単にやられへん」


声にすると、胸が軽くなる。


「黒の禁域へ行く。支度だ。境界をまたぐ。行けるな」


「いける」


境界を跨ぐ手前で、さきほどの粘る目がもう一度こちらを刺した。

冬馬は短く合わせる。


「飛雪。……冬馬」


核はぶれず、同律。

明熾の手は来ない。必要がなかったからだ。


「できたな」


「できた」


試す声ではなく、確かめる声。

短く笑い合う。

冬馬の舌裏に、黒蜜の甘さだけが薄く残った。


雪の匂いがわずかに濃く、宗像へ向かう細い筋が確かに伸びている。

二つの影は並び、薄雪を踏んでいった。



***


──宗像・本殿。


夜の太鼓が一打だけ鳴り、息を潜めた空気が波立つ。

数刻前の戦の爪痕がまだ生々しい。

床には返り血が乾ききらず、障子には裂け目が残る。


咲貴は衣の袖を裂かれ、肩には血が滲んでいた。

時生は結界維持で蒼白となり、膝の上に重く手を置いたまま。

公介は胸に包帯を巻き、呼吸を整えきれずにいる。

望も衣を煤で汚しながら、沈黙のまま控えていた。


その静けさを破ったのは、蛇の舌打ちのような音。

障子の向こうから一匹、黒文を咥えた蛇が現れた。


「開け」


咲貴は立ち上がり、紙を受け取って封を切る。

墨は冷たく、記された文字は短い。


【冥府告】

冥門守・穂積冬馬。冥籍名・飛雪、四天王の一〈夏の冠〉に起座。以上。


場の空気が一気に落ちた。

血の匂いと墨の匂いが重なり、胸の奥を冷やす。


「……嘘だ」


咲貴は呟き、すぐ口を噤む。

震える指で文を畳み、袖に押し込む。

袖口には血が滲み、さらに赤を広げた。


「事実だけ拾え。理由は後でいい」


言葉は咲貴自身への叱咤に近い。

望がわずかに頷き、時生は目を閉じたまま、結界を支え続ける。

公介は声を探しながら、唇をかすかに震わせるが、何も出てこない。


蛇が踵を返す前、結界が低くきしんだ。

その場にいるすべての名の輪郭が、ひとしく揺らいだ。

冷たい緊張の余韻だけが、広間に居座る。


咲貴は膝が折れそうになるのを堪え、吐き捨てるように言った。


「立て。……座るな」


命じる声は震えて血の味が混じる。

袖で口元を拭っても、赤は隠しきれない。


夜は揺れず、硬さだけを増していく。

遠くで鈴がひとつ、乾いて割れた。

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黙の月 一千年の孤独を、愛せ。 ちい @chienosuke727

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