23/物語
公園のベンチで、僕たちはしばらくの間、ただ静かに座っていた。降っていた雪は、いつの間にか止んでいた。厚い雲の切れ間から、柔らかい陽の光が差し込み、雪化粧をした公園をキラキラと照らし始める。光を受けた雪の粒が、僕の目にも眩しく映った。
湖春との短いやり取りの中に、5年間の空白を埋め、僕たちの間のわだかまりを溶かす、不思議な力が込められていたように思う。彼女の声も、僕の声も、穏やかに響き合った。
しばらくの温かな沈黙の後、ベンチの表面を撫でていた湖春が、ゆっくりと立ち上がった。僕も、それに倣って立ち上がる。
「……帰ろっか」
湖春が、僕を見て言った。その声は、穏やかだ。
「うん」
僕も頷いた。
僕たちは、並んで歩き始めた。雪が少しだけ積もった、公園の小道を。雪を踏む、サクサクという軽い音がする。
歩くたびに、僕たちの腕が軽く触れ合う。その微かな接触が、妙に意識された。そして、ふと、僕の指先が、彼女の冷えた小さな指先に、そっと触れた。
一瞬の、ためらい。5年前の、あの雨上がりの公園で、僕が握れなかった彼女の手。触れることに喜びと罪悪感が渦巻いた、あの危うい日々。様々な記憶が、指先から流れ込んでくるようだった。
けれど、もう恐れはなかった。
僕の指が、ためらいながらも、彼女の指をそっと包み込むように動く。すると、彼女の指もまた、応えるように、優しく、僕の指に絡んできた。
繋がれた指先から、温かさがじんわりと伝わってくる。それは、かつて僕を狂わせた、あの強烈で特別な『触感』とは違う。もっと穏やかで、深く、そして揺るぎない、確かな繋がりの温もりだった。僕の歪んだ触覚への執着は、この温もりの中で、彼女への純粋な愛情へと、完全に昇華されたのだ。
もう、『触感図鑑』は必要ない。
絡み合った指の、ささやかで、しかし確かな感触を確かめるように、僕たちはゆっくりと歩き出した。公園を出て、家へと向かう道を。
雪は完全に止み、空は明るさを取り戻しつつあった。空の青さが、雲の切れ間から覗いている。陽の光が、僕たちの歩む道を、そして僕たちの未来を、優しく照らしているかのようだった。鳥の声も、どこからか聞こえてくる。
このあと、僕たち二人は、どういった関係を築いていくのだろうか。
それは、まだ分からない。恋人になるのかもしれないし、あるいは、特別な絆で結ばれた、唯一無二の友人であり続けるのかもしれない。
けれど、一つだけ確かなことがある。
どのような関係になろうとも、もうそれを阻むものは、なにもなかった。僕の歪んだ触覚への執着も、年齢差からくる罪悪感も、そして、過去の過ちも。僕たちは、それらを乗り越えたのだ。
絡んだ指から伝わる温かさを、そして隣を歩く湖春の穏やかな気配を、僕は全身で感じていた。彼女もまた、僕を見て、穏やかに微笑んでいる。その笑顔は、僕の心の中に残っていた最後の影をも、消し去ってくれるようで……僕の世界で一番、確かな光だった。
僕たちの新しい物語は、今、静かに始まったばかりだ。
触感図鑑/終わり
触感図鑑 ネーヴェ @Neve_novel
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