第2話 娘の帰郷

厨房ソレイユの扉が、午後の静かな時間に軋んで開いた。入ってきたのは、ショートカットの髪にカジュアルなデニムのジャケットを羽織った若い女性、川口美咲、25歳。大きなキャリーバッグを引いて、疲れたような、それでいて懐かしさを湛えた目で店内を見回す。


店主の山崎鉄郎は、カウンターの向こうでグラスを磨きながら一瞥をくれる。「いらっしゃい」とぶっきらぼうに言うが、美咲を見た瞬間、動きが止まる。「お前……美咲か」と低く呟く。二人は親子だ。


5年前、鉄郎と大喧嘩して家を飛び出し、東京でイラストレーターの夢を追いかけていた。以来、連絡は途絶え、ソレイユに戻るのはこの日が初めてだった。


美咲はカウンター席に腰を下ろし、バッグを足元に置く。「お父さん、久しぶり」と笑顔を見せる。鉄郎は目を逸らし、「ふん、急に何だ」と返すが、口元がわずかに緩む。美咲の名字が「川口」なのは、鉄郎の元妻、美咲の母・美穂が離婚時に美咲を連れて実家に戻ったためだ。美咲が10歳のときだった。鉄郎は頑固な性格が災いし、妻とのすれ違いを修復できなかった。それでも美咲は時折ソレイユに顔を出し、鉄郎の料理を食べながら父娘の時間を過ごした。だが、5年前の喧嘩でその絆も途切れたかに見えた。


「何か食うか?」と鉄郎が聞く。美咲はメニューも見ず、「昔よく作ってくれたオムライス」と答える。鉄郎は無言で頷き、厨房で卵を割り始める。美咲はカウンターに頬杖をつき、鉄郎の背中を見つめる。店内は静かで、卵をかき混ぜる音とトマトソースが煮える匂いが漂う。


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美咲は5年前、鉄郎の頑固さに耐えかねて家を出た。「夢なんかで食っていけるか」と鉄郎が吐き捨てた言葉が、彼女の心に突き刺さった。それでも東京で必死に働き、フリーのイラストレーターとして少しずつ名前を広めてきた。だが最近、仕事が減り、自信を失いかけていた。ふとソレイユのオムライスを思い出し、気づけば電車に乗っていた。


「あのさ、お父さん、覚えてる?」と美咲が口を開く。「小学生のとき、運動会で私がビリになった日。お父さん、店閉めてオムライス作ってくれたよね。ケチャップで『次は1等!』って書いてさ。めっちゃ恥ずかしかったけど、すっごく嬉しかった」彼女の声は弾み、目がキラキラと輝く。鉄郎はトマトを刻む手を止め、背中を向けたまま「そんなこともあったな」と呟く。だが、美咲には見えない彼の顔が、ニヤリと緩んでいる。


もう一つ、思い出が美咲の口からこぼれる。「中学生のとき、美術のコンクールで賞取った日も、お父さん、オムライスにケチャップで『よくやった!』って書いてくれた。あの頃はお父さんの字、ダサいと思ってたけど、今思うと……なんか、宝物みたい」美咲は照れ笑いを浮かべ、鉄郎は「余計なこと言うな」と返すが、声に温かみが滲む。


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オムライスが美咲の前に置かれる。ふわっとした卵に、濃厚なトマトソースが鮮やかだ。美咲はスプーンを手に取り、一口食べる。懐かしい味。子供の頃、鉄郎が忙しい店を抜け出して作ってくれたオムライス。喧嘩ばかりだった父娘が、黙って同じテーブルを囲んだ記憶が蘇る。「うまい……やっぱりお父さんのオムライス、最高」と美咲は嬉しそうに笑う。鉄郎は「当たり前だ」と言いながら、カウンターの向こうでニヤリと笑みを深める。


美咲は勇気を振り絞って続ける。「お父さん、私、絵を続けたい。けど、最近、うまくいかなくてさ……」鉄郎は手を止め、しばらく黙る。「……お前が何やってても、腹減ったらここに戻ってこい。飯ぐらいは食わせる」と、目を合わせずに言う。美咲の目が潤み、彼女は「うん、ありがと、お父さん」と小さく頷く。嬉しそうな顔でオムライスを頬張る美咲を見て、鉄郎のニヤけた表情が一瞬だけ柔らかくなる。


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食事を終えた美咲は、バッグを手に立ち上がる。「また来るよ、お父さん!」と明るく言うと、鉄郎は「勝手にしろ」と返すが、ニヤリとした笑顔が隠しきれない。美咲が扉を開けると、夕陽が路地裏をオレンジに染めていた。


ソレイユのカウンターには、今日も誰かの物語が刻まれる。次に訪れるのは、どんな客だろうか。


(第三話へ続く)


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厨房ソレイユ わら @anantaro

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