第7話 内なる怪物

 (この人、お姉さんがいるのか……)


 アイザックとティタニア女王が話している最中、ヨハンは女王の見た目に気を取られ、その内容がほとんど頭に入って来なかった。とにかく想像していた容姿と全く異なり、目の前の現実を受け止めるのに精一杯だった。相手が精霊だというのを分かっていても、まるで動物が喋っているようで、とても奇妙な光景だった。いや、ここまで来たら、例え動物が突然口を聞いても、特に違和感を感じないかもしれない。何せここは別世界なのだから。


 途中で青い宝石らしきものが上から現れたり、火のついた数匹のトカゲのような生物が木から下りて来たりなど、惹きつけられる事が次々と起こり、更に会話を聞き逃してしまった。しかし、女王が言及したことで一つ頭に残ったことがあった。それは、アイザックに〝姉〟がいるという意外な事実だ。今までのアイザックの印象から、姉弟がいるというイメージが全く湧かなかった。いや、というより、この男が誰かの〝弟〟であるということがどうもピンとこない。


 アイザックも姉の話題が出るとは思わなかったのか、彼女の名前を聞いた途端、これまでの泰然自若とした彼の声に、一瞬動揺が走ったように感じた。こちらに背中を向けているせいで、表情までは伺えなかったが。


 気が付けば話は進み、何処かへ移動することになると、ヨハンはこっそりアイザックに視線を向けた。何か物思いにふけっているような、若干浮かない顔をしているように見えた。そういう表情もするのだなと、初めて彼に僅かな人間味(人間ではないのだが)を感じたところで、視線に気づいたのか、思いっきり睨まれてしまった。


 女王の後をついて行くと、しばらくして葉で覆われたドーム型の建物に辿り着いた。中に入ると、そこには怪我をしている沢山の動物がいた。あのモンスタープラントの被害者らしい。どうやら女王は、アイザックにこの動物たちを治療して欲しいようだ。


 森の中で見たのと恐らく同じ種類の鹿の親子もおり、ヨハンは気の毒に思った。だが、それと同時に屋内に充満している、ある香に気を取られた。何の匂いかは分からないが、とても食欲をそそられる良い匂いだった。


 そういえば、車内で朝食を取って以来、何も口にしていない。あれから何時間経ったのだろう。そろそろ腹が減ってきた。


 この場で腹が盛大に鳴らないことを祈りながら、ヨハンは動物たちの元に歩み寄るアイザックの背を見守った。魔法で治療を行うらしいが、一体どうやるのだろう。呪文でも唱えるのか、魔法陣でも描くのか。それとも特別な薬を調合するのだろうか。


 ヨハンの予想は、どれも当たることはなかった。アイザックは無言で一頭の鹿の隣に跪き、薬も魔法の杖らしきものも取り出さず、それどころか、カストルが彼の為に持っている鞄に触れようとさえしなかった。


 アイザックは鹿の怪我の具合を確認した。出血はしていないが、脚や胴の数か所が腫れ上がり、身が竦むほど赤黒くなっている。酷い火傷のようだ。その他に、細かい切り傷まで負っている。これはさぞかし苦痛だろう。


 淡々と傷を診ていくと、アイザックは傷の一つに手を翳した。すると、掌から緑色の光が咲き、照らされた傷が信じられないスピードで塞がり始めた。ヨハンは思わず息を呑み、前屈みになって目を凝らして見た。皮膚があっという間に再生し、毛も元通りに生え、傷が綺麗に癒えていく様を。流石のアエラスも驚いたのか、アイザックに一歩近づき、その手元を注視した。


 その調子で、アイザックは特に労する様子もなく、次々と鹿の怪我を治していった。これはもう〝治療〟という域を超えているのではないかと思うほど、全ての傷が完全に消えていく。


 瞬く間に治療を終えたアイザックは、次の動物の元へと移動した。アエラスは鹿の怪我が本当に治っているのか調べると、女王の方を向き、頷いた。女王は安堵の笑みを浮かべ、暖かい目でアイザックの作業を見守った。


 奇跡のような力だと、ヨハンは感じた。


 今まで魔法とは、魔術師が扱う悪魔的な力だという認識しかなかった。だのに、この美しい国も、目の前で行われている奇跡的な治療も、全て魔法によるものだと言う。


 アイザックは着々と動物たちを治療していった。手順は毎回同じのようだ。手を怪我の部位に掲げると、光が生まれ、傷が癒える。その繰り返し。 


 魔法を使えばこんな一瞬で傷が完治するだなんて、もはや医者いらずだ。だいたい病院での医療費は馬鹿みたいに高い癖に、大した治療を行ってくれない場合がある。このような便利すぎる治療法があるのなら、そっちの方が良いと思ってしまうに決まっている。むしろ、何故今までヒーラーという存在について知らなかったのかが不思議なくらいだ。もっと世に広まっていても良いはずだろうに。


 単に自分が無知であっただけだろうかと、ヨハンは首を傾げながら、アイザックの作業をジッと見つめた。彼の掌から放たれる光は、優しい若葉色で、触れてみたら温かそうだった。


 ふと、ヨハンはさっきから鼻に纏わりつく匂いが、動物たちから漂っていることに気づいた。これは、血の匂いなのだろうか。いや、それにしては鉄臭さより、甘さ? 香ばしさ? とにかく口の中で転がせるような良い香がするのだ。


 ヨハンは何となく近くに横たわっている猪に視線をやった。皮膚が痛々しく抉られており、下の肉が露出していた。その鮮やかな赤が、目に焼き付き、視界全体を染めていく。赤に溺れていく。



 ああ、うまそうだ……



 心の中で呟いたその感情を、彼は自然に受け入れていた。


 無意識に喉が鳴る。


 心臓が早鐘を打ち、頭が熱くなっていく。



 ああ、はやく……はやく……!



 今すぐ、あの肉に歯を食い込ませ、その弾力を味わい、生き血を啜らねば。


 この空腹を満たさなければ。



 そうすればきっと、きっと……きもちよくなれる!


 

 溢れ返る胸の昂ぶりに飲まれ、衝動のままに踏み出そうとしたその時――


 突然何かが体にきつく巻き付き、動きを封じた。


 ハッと我に返り、視線を彷徨わせると、射殺すような鋭い眼光にぶち当たり、慄いた。いつの間にかこちらを向いていたアイザックが、ヨハンを睨んでいたのだ。それは怒りというより、警戒からくる表情に見えた。


 辺りを見回すと、アエラスもこちらを睨み、レイピアの切っ先を真っ直ぐヨハンの首に向けていた。カストルまでも、木の槍をヨハンに向けて構えていた。目を落とすと、空中に浮かんでいる円盤のような光から鎖が飛び出し、それが体を縛っているのだと気づいた。


 「貴様、何のつもりだ」


 アエラスは声に怒気を含ませ、問いただした。しかし、当のヨハンは状況が掴めず、ただただ混乱していた。顔を青くし、冷や汗をかきながら固まっていると、アイザックが立ち上がった。


 「失礼。この者はまだ新人でして、躾が十分に行き届いていなかったようです。よく言って聞かせて来ますので、申し訳ございませんが、少々お待ちいただければと」


 そう言うと、アイザックは手から鎖を射出し、ヨハンの口を猿轡のように塞いだ。そして、そのままリーシュのように鎖を引き、強引に縛られたままのヨハンを外へ連れ出した。ヨハンは訳も分からず、何とか足を動かし、彼について行った。口端に食い込む鎖が不快で、苦し気に眉を顰めながら。


 納屋からある程度離れると、アイザックは近くの木へ足を運び、そこへヨハンを突き飛ばした。背中が幹にぶつかり、ヨハンは短い呻き声を上げる。大して痛くはなかったが、それでも少しは抗議しようと視線を前に向けた瞬間、バンッと顔のほぼ真横に、アイザックが乱暴に手を突いた。


 「で? どういうつもりなんだ、君は」


 ヨハンの口を封じている鎖を消し、アイザックは険しい顔で迫った。


 「……え」


 「先程の挙動は何だったのだと聞いている」


 「え、いや、何のこと……」


 「とぼけるつもりか? 流石に今回は忘れたなどという言い訳は通らないぞ」


 「いや、ほんとに、何のことか、分からないというか……さっきから何が起こって……」


 何に対して怒られているのか分からず、ヨハンは目を泳がせ、体を強張らせた。その反応に何を思ったのか、アイザックは少しの間、観察するようにヨハンを見つめ、手を下ろした。


 「……あの納屋で治療を行っている最中、後ろから強い殺気を感じた。振り向いてみれば、君が獲物を狙う目で患者たちを見据え、今にも襲い掛かりそうな気迫を放っていた。だから止めに入った」


 淡々としたアイザックの説明に、ヨハンは動揺しながらも、納屋でのことを思い返した。得体の知れない感情に襲われた、あの一瞬を。


 まるで、自分が自分でないようだった。


 夢の中でたまに経験する、第三者の視点で自分を見ているような感覚。


 思考が吹っ飛ぶほどの衝動の渦に飲み込まれ、沈んでいくようだった。


 あのとき湧き上がってきた強烈な感情……あれは、欲望だろうか?


 そうだ、あの動物たちの傷を見て、確かに自分の中で芽生え、爆発しそうになった――


 異常なほどの食欲と……



 悍ましい加虐心。



 ヨハンは身震いした。


 あのような恐ろしい感情を受け入れようとしていた自分に。


 それを一瞬でも心地良いとさえ思ってしまった自分に。


 あのまま衝動に身を任せ、流されていれば、どうなっていたのだろう。


 アイザックが言うように、あの動物たちを襲っていたのだろうか?


 そんな地獄絵図を想像し、ヨハンは改めて思った。自分は一体どうしてしまったのかと。


 あんなの、人間の考えることじゃない……


 

 「おい」


 アイザックの声に引き戻され、ヨハンは再び視線を上げた。


 「私の言い分は以上だ。次は君の視点を聞かせて貰おうか」


 (視点……俺の視点……)


 ヨハンは急速に焦りを感じ、俯いた。受け入れ難い事実に、まだ頭も気持ちも整理しきれていない。


 「……俺は……食おうとしてたのか、あの動物たちを……」自身に問いかけるように呟いた。


 「そう見えたがな。違うのか?」


 「いや……そうなのかもしれない……でも、なんで……俺は、そんなこと……」


 言葉を詰まらせていると、アイザックはまたしてもその様子を観察するように見つめた。


 「……君は今、空腹を感じているか?」


 「え……まあ、少し……」


 「君が私の屋敷にやって来た時も、空腹を訴えていたらしいな。その直後、君は私とカストルを襲った。もしかすると、君は空腹を感じると我を失ってしまう傾向があるのかもしれない。あくまで推測だが」


 「そんな……」


 「言っただろ。君はもう恐らく人間とは呼べない存在となっている。これで少しはその自覚が持てたんじゃないか? その首輪だって、逃亡防止の為だけに作ったんじゃない。いざという時、君の動きを瞬時に停止させられるように用意したんだ。君の存在が我々にとっても、周りにとっても、脅威になり得る故にな」


 容赦ない言葉の雨を浴び、ヨハンは更に萎縮した。自身のやらかしのことは聞かされていたが、覚えていないせいもあり、どこか信じ切れず、他人事のように思っていたところがあった。もしくは、信じたくなかった。自身の身体の異変を、その事実を、否定したかった。直視したくなかった。


 ヨハンはまた宇宙船での血濡れた景色を思い出した。あの時も、同じだったのだろうか。何かの拍子で我を忘れ、周りを襲った結果の惨状。だから何も覚えていないのだろうか。


 そう考えたところで、あの沢山の動物たちがいる納屋の光景が、起こり得た未来.......として、あの血に塗れた場面と重なり、心臓が激しく脈打った。


 自分自身について何も分からぬまま、自分が自分でなくなっていく。


 そんな悪夢のような現状に、ヨハンは恐怖した。


 「……何なら、今ここで手早く調べてみるか? 君も自分の目で確認できれば、より自覚が持てるだろ」


 「……え?」


 急に何を言い出すのだろうと、気が動転したままアイザックに目をやると、彼がスーツジャケットの内ポケットからメスを取り出すのを見て、一気に別の不安が押し寄せた。


 「え、なに……」


 「ちょっとした実験だ。君を最初に拘束した時、君は逃れようとするあまりに体を引き千切ったように感じた。だが君は今こうして五体満足でいる。これもまた推測だが、君は高い再生能力を持っている可能性がある。それを今確かめるんだ」


 「は、え、ちょっ!」


 急に手首を掴まれ、メスを近づけられたので、ヨハンは反射的に相手の手を振り払った。まだ体を縛られているせいで、上手く身動きが取れない。


 「え、いや、なに、何してんの⁉」


 「は? いま説明しただろ」


 「は? いや、その説明が意味わかんないんだよ! 実験って、え、まさか、切るつもりじゃ……」


 「それ以外に調べようがあるか?」


 「はあ⁉ 嫌だわそんなの! 話が違うだろ!」


 この状況から逃げようと、ヨハンはアイザックを押しのけて走り去ろうとしたが、その前にアイザックが放った鎖によって、木に括り付けられてしまった。


 「ああ、そうだったな。実験をするには君の同意が必要だ」


 アイザックは思い出したように頷いた。


 「では、今すぐ私に許可を与えろ」


 「……は?」


 「許可がないと実行できないだろ」


 この男は何を言っているんだ。そんな風に頼まれて、はい、良いですよ、とでも言うと思っているのか?


 困惑と狼狽、そして少しばかりの苛立ちを感じながら、ヨハンは相手を見つめ返した。その特に隠そうともしていない彼の心境に気づいてか、アイザックは溜息をついた。 


 「君は知りたいとは思わないのか? 自分の身体がどう変化したのかを、自分の目で確かめたくはないのか?」


 アイザックの問いに意表を突かれ、ヨハンの胸中に迷いが渦巻いた。確かに、今後の為にも、自身の体についてよく知っておいた方が良いだろう。そうすれば今回のようなことも避けられるかもしれない。


 だが、もし本当に自分が人間とはかけ離れた存在になってしまっていて、もう元に戻る見込みもない、そんな悪夢が確定してしまったら……


 そう思うと、どうしても身が竦んでしまった。


 「……それは、まあ……知りたくなくはないけど……」


 「なら利害一致だ。同意しろ」


 (頼みごとする気あんのか、この人?)


 一々偉そうな物言いをするアイザックにムカついたが、ヨハンは不承不承納得した。


 「ちょっとだけだからな。ちょっと切るだけ」


 「分かっている。数センチ切るだけだ」


 「数センチ……それって具体的に何センチ?」


 「二センチほどで良いだろ」


 アイザックは鎖からはみ出ているヨハンの腕を取り、袖を少し捲って、メスを近づけた。その磨かれた銀色の刃を見て、ヨハンは一気に強張り、ヒュッと息を吸った。


 「や、やっぱり自分でやっても良いですか?」


 「は? 君に刃物を渡すわけないだろ」


 「あ、まあ、そりゃあそうか……」


 これ以上茶々を入れるなとでも言いたげに、アイザックは眉を寄せ、間を置かずメスの刃を皮膚に当てた。その冷たい感触に、ヨハンは思わず目を逸らし、身構えた。


 しかし、いつまで経っても痛みはやってこない。もうやるならさっさとやってくれと思いながら、恐る恐る腕を見下ろした。


 ……?


 目に飛び込んできた光景に、ヨハンは一瞬固まった。


 メスを押し当てていた腕の一部分が、真っ黒になっていたのだ。いや、正確には、黒い鱗のようなものが生えていた。そして、そこに切り込もうとしていたメスの先が、ぐにゃりと見事に曲がっていた。視線をアイザックに移すと、彼も同じくらい目を丸くし、曲がったメスと変貌した皮膚を交互に見ていた。


 「……え、なにこれ」


 黒くなった皮膚を指で撫でると、本当に鱗のようなざらりとした質感なうえに、予想外な硬さで、その部分だけ別の生き物のようだった。しかし、指で触られる感触があることから、自身の皮膚であることは確かだった。


 「切ろうとした瞬間、生えてきた」


 アイザックも興味津々な様子で鱗の生えた皮膚に触れた。すると、今度はスッと鱗が徐々に引っ込み、薄くなっていくと、やがてまっさらに消えた。まるでコウイカの体色変化のように、皮膚が元の色と手触りに戻ったのだ。


 「あ、え、戻った……」


 「攻撃から身を守ろうとする防衛反応か? 他も試すぞ」


 グサッ グサッ グサッ


 「ちょちょちょっ‼ おい馬鹿!」


 勝手に腕の数か所を刺し始めたアイザックに、ヨハンは咄嗟に彼の脚を蹴り上げようとした。綺麗に躱されてしまったが。


 アイザックが刺した腕の部位には、さっきと同様、黒い鱗が生えた。まるで皮膚に濃い斑点ができたようで、ヨハンは思わず顔を顰めた。


 「うわ、きもちわる……」


 「何を言う。これは恐らく、体が懸命に君を守ろうとしている故の働きだぞ。おかげでこのメスはもう使い物にならん」


 何故か少し嬉しそうな声色で、アイザックは腕に触れ、鱗を観察した。こんな事、少なくともヨハンが覚えている限りでは、今まで起きたことはなかった。宇宙船にいた時も、皮膚が突然このように変化することはなかった……はずだ。


  やはり、変わってしまったのだ、自分の体は。鱗が再び消えていくのを眺めながら、ヨハンはその苦い事実を受け入れるほかなかった。


 「ほう……面白い。皮膚が変化すると、その部分の生命エネルギーが活性化するようだな。そして元の状態に戻ると、生命エネルギーの流れも平均的な人間のものになる」


 「生命エネルギー?」アイザックの言動にヨハンは首を傾げた。


 「生命エネルギーとは言葉通り、生物の体内に流れる命のエネルギーだ」


 アイザックは食い入るようにヨハンの腕を見つめた。まるで、ヨハンには視認できない何かを確認するかのように。


 「……やはり、今の状態だと人体の構造と変わりないように見える。この状態から変異するのか……興味深いな」


 そう呟いたアイザックの表情に、ヨハンは不意を打たれた。口角を上げ、彼は笑ったのだ。それは初めて彼が見せる小さな笑顔だった。若干目がギラついているような気がしたが、それでも、新しい玩具を与えられた子供のような、無邪気さが垣間見える顔つきだった。


 (そういう顔もできるのか……)


 不思議なものを見る瞳で、ヨハンはアイザックを凝視した。そんなに熱心になるほど面白いものだっただろうかと、困惑すら覚えた。確かに驚くべき現象だが、何故そこで喜ぶのかが分からない。ここは普通、気味悪がるところだろうに。


 「……この生体反応は身体全体に起こるものなのか?」


 「え、うっ⁉」


 アイザックは独り言のような問いを零すと、いきなりヨハンの顎を掴んだ。


 「目元や口元、皮膚が薄い部位でも同じ現象が起こるのか?」


 ブツブツと一人で呟くと、アイザックは曲がったメスを仕舞って、新しいメスを取り出し、その先をヨハンの顔に近づけた。


 「えっ⁉ ちょっ、待っ……!」


 顔を必死に背けようとしたが、相手の手が思ったより強く顔を固定しているせいで、上手く抵抗できない。その間に、メスの刃先がどんどん目元に接近してくる。悪い冗談かと思ったが、アイザックの顔は残念ながら真剣だった。何ならさっきより目が一層ギラギラしている。


 (ダメだ! やっぱりコイツイカれてる!)


 今度こそ蹴りを入れてやろうと足を上げそうになったその時、カストルの声が響いた。


 「主様」


 アイザックはピタリとメスを持った手を制止し、後ろに控えているカストルの方を振り向いた。


 「早くヨハン様の研究に取り掛かりたいお気持ちは分かりますが、これ以上、女王陛下をお待たせさせるのは望ましくないかと」


 カストルは納屋の方を瞥見した。その方角にヨハンも目を凝らすと、納屋の入口の外にアエラスが立っているのが見えた。眉間にしわを寄せ、訝しげな表情でこちらを注視している。


 そうだ、まだ女王やアエラスは全く事情を聞かされていないのだった。あんな事があった後だと、怪しまれて当然だ。


 「……そうだったな」


 少し名残惜しそうに、アイザックはヨハンの顎から手を離すと、メスを仕舞った。その様子に、ヨハンはホッと胸を撫で下ろした。


 「仕方がない。面倒だが、仕事を続行するには事情を説明しに行かねばな」


 「ヨハン様のことをお話になるおつもりですか?」


 「いや、彼のことは誰にも共有しないという契約だからな。何か弁解を考えるしかあるまい。はぁ、これだから態度や行動には気を付けろと忠告したというのに」


 アイザックに溜息をつかれ、ヨハンはこの現状を作り出したことへの罪悪感で首を竦めた。だが、自分だって好きでこのような体質になった訳ではないのにと抗議したくもあった。それに、さっきは何の断りもなく目元を刺そうとしたくせに、よくも契約が何だのと言えたものだ。まさか、最初に同意したせいで、その後の行動全てを許容したことになってしまったのだろうか。だとしたら、今後の発言には十分気を付けなければ。


 「カストル、ヨハンの監視を頼んだ。そしてヨハン、君はくれぐれも大人しくしていろ。これ以上問題を起こしてくれるなよ」


 そう二人に言い残すと、アイザックは納屋の方へ足を向けた。人を強制的にここに連れて来ておいて、勝手な男だ。ヨハンは心の中で悪態をついた。ヨハンだってこれ以上自分の立場を危うくしたくはない。言われなくとも大人しくしているつもりだ。


 「ヨハン様」


 名を呼ばれ、カストルの方を向くと、相手は昨夜のように腕から果実を生やしていた。


 「お腹が空いていらしたのですね。気が回らず申し訳ございません」


 「え、いや、そんな! カストルさんのせいじゃないです、全然!」


 ヨハンは慌てて首を振った。


 「あの、すいません、こんな事になって……迷惑かけるつもりじゃなかったんです、本当に……」


 「はい、理解しております。ヨハン様に他意があった訳ではないのでしょう」


 カストルは実を手に取り、ナイフで皮を剥き始めた。


 「以後、空腹を感じることがあれば、お知らせいただけますと幸いです。すぐに何かご用意致しますので」


 「は、はい、すいません……」


 罪悪感が余計に募り、ヨハンは俯いた。これでは腹が減る度に泣いて騒ぎ出す赤ん坊のようだ。しかし、もし空腹が本当に暴走のトリガーとなっているのなら、知らせない方が反って危険だ。


 「今はこのようなものしかなく、恐縮ですが、どうぞ召し上がってください」


 「あ、いえ、ありがとうございます」


 フォークに刺さった実の一切れを口に運んでもらい、ヨハンは気まずさを感じながらもそれを頬張った。またしても拘束され、食べさせてもらっているこの状況が残念でならなかった。実はやはり美味しかったが。


 「主様は、自身の好奇心を優先させるあまりに、周りが見えなくなってしまう時がございます。それで驚かされることもあるかと存じますが、どうかご了承ください」


 「あ、はい、そうみたいですね、ハハ……」ヨハンは何とか口端を持ち上げ、乾いた笑いを零した。


 カストルは手際よく実を切り、一切れずつヨハンに食べさせていった。その姿に、ヨハンはこの国に来てから頭に浮かんだある疑問について考えた。ここには様々な精霊が住んでいる。その多くは、花弁や葉の形をした髪や耳など、自然から生まれてきたような見た目をしている。


 「……あの、カストルさん」


 「はい、何でしょう?」


 「一つ、気になってたんですけど……ひょっとして、カストルさんって、精霊なんですか?」


 ヨハンの質問を耳にし、カストルは手を止め、微かに目を見開いた。


 「……なぜ、そのような……」


 「あ、いや、その、クロリスさんとか木の精霊で、身体が木でできているようだったので、その……」


 「ああ、なるほど。それで……」カストルは納得したように頷いた。「確かに、このような姿を見れば、そうお考えになるのも無理はありませんね」


 カストルは片手を一瞬、枝化させ、すぐにまた元に戻した。


 「ですが、自分は精霊様のような大層な存在ではございません」


 「あ、違いましたか……」


 割と自信のある予想だっただけに、ヨハンの中で益々カストルの正体が濃い霧に包まれた。精霊ではないというのなら一体何なのだろう。


 そのヨハンの疑問を察してか、カストルは少しの間、思案する素振りをした。


 「……話すと長くなってしまうかもしれませんが、そうですね……自分は……」


 ビュオオオオオ


 迷いつつも、カストルが静かに言葉を紡ぎ始めた刹那、突として強風が吹いた。ヨハンは思わず目を細め、頭を下げた。周りの木々が激しく揺れ、そのザァーッとテレビの砂嵐のような音に紛れ、誰かの声が聞こえてきた。


 「やはり何かやらかしたか。全く、アエラスの奴は何をやっているのだ」


 風が唐突に止み、ヨハンは顔を上げると、前方にある人物が仁王立ちしていた。長い三つ編み、鋭い目つき、白い軍服。それは、泉の前でアエラスと言葉を交わしていた精霊、シエラだった。


 「初めて目にした時から怪しいと思っていたのだ」


 シエラは舌を鳴らし、その突き刺すかのような眼差しが、真っ直ぐヨハンに向けられた。


 「よそ者め、貴様はいったい何者だ」

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オルタード ~とある魔術師の出会い~ 夜風冴 @bluebutterflydog

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