齟齬の夜
くまのこ
本文
「お客さん、終点ですよ」
落ち着いた男の声に、俺は心地よい眠りの中から引き戻された。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
しかし、目の前にいる制服姿の駅員を見て、会社帰りで電車に乗っていることを思い出した。
繁忙期ゆえの残業が続いた後、ようやく明日は休日という状況で、つい気が緩んだのだろう。
珍しく、最初から座席を確保できたのも大きい。すっかり熟睡していたのであろう自分の姿を思うと、少し恥ずかしくなった。
慌てて周囲を見回すが、俺以外の乗客は既に全員降りたらしく、車内にいるのは俺と目の前の駅員だけだった。
終電で終点まで来てしまったということは、路線バスも既に運行を終了しているだろうし、タクシーで帰るしかない――憂鬱な気分で電車から降りた俺は、壁のプレートに表示された駅名を見て首を捻った。
「きさらぎ駅……この路線に、こんな駅あったっけ?」
駅の造りを見ると、地方都市の
そもそも、自分は乗るべき電車を間違えてしまったのだろうか。
本来であれば、勤め先の最寄り駅から自宅の最寄り駅までは、各駅停車でも二十分ほどのところだ。
眠っている間に相当な距離を運ばれてしまったのだろうか。
やはり、自分は相当疲れているのだなと、俺は、まだ残っている眠気の中で考えた。
ぼんやりとホームに立っていると、駅員が声をかけてきた。
「申し訳ありません、駅を閉めますので駅舎から出ていただけますか」
気付けば、ホームや駅構内にも俺以外の客はいない。
俺は仕方なく駅から出た。
駅前の小さなロータリーの隅にタクシー乗り場を見付けたものの、肝心のタクシーが見当たらない。
駅の周辺には商店街らしきものもあるが、深夜に入る時間帯の為か営業している店はなく、電柱や街灯の灯りがポツポツとあるだけで物寂しい感じだ。
都心であれば、帰る足がなくなってもネットカフェやカプセルホテルで過ごすという手がある。
しかし、この辺りには、そんな気の利いたものは存在しないらしい。
途方に暮れていると、一台のタクシーがロータリーに滑り込んできた。
俺は思わずタクシーに手を振った。
タクシー乗り場の看板の前に到着したタクシーが、俺には輝いて見えた。
小気味よい音を立てて開いたドアから車内に潜り込むと、運転手の中年男が声をかけてきた。
「どちらまで?」
「ええと……〇〇市××町の……とりあえず、〇〇通りと××街道が交わる△△交差点までお願いします」
「分かりました」
運転手はカーナビをセットし終えると、車を発進させた。
車の揺れに再び眠気を誘われた俺は、いつしか
「お客さん、そろそろ△△交差点ですよ」
運転手の声に、俺は目を開けた。
ほんの少しウトウトしただけのつもりが、ずっと眠っていたようだ。
「あ、ええと、交差点を右折でお願いします」
「右折ですね。……お疲れみたいですね」
「はァ……繁忙期だから残業続きで、電車で居眠りしてたら乗り過ごしてしまって」
「それは大変ですねぇ」
そんな話をしているうちに、タクシーは俺が住む単身者用アパートの前に到着した。
内心で痛い出費だとブツクサ言いながら会計を済ませ、俺はタクシーを降りた。
アパートを見上げながら、俺は何とも言えない違和感を覚えた。
何かが違う――根拠など何もなかったものの、言い知れぬ不安が胸の内に湧き上がるのを感じた。
――いや、単に深夜で暗いから、明るいうちとは見え方が違うだけだろう。
違和感はあるものの、早く自宅で休みたいという気持ちが勝り、俺は一階にある自分の部屋へ向かった。
入り口の扉を開けようと鍵穴に鍵を差し込んで、俺は血の気が引くのを感じた。
玄関は施錠されていない。
俺は家を出る際、鍵をかけてから本当に閉まっているか必ず確認するから、これはあり得ない事態だ。
そっと扉を開け、玄関に一歩足を踏み入れた俺は、部屋の匂いが違うのに気付いた。
いつもの慣れ親しんだ自分の部屋とは全く異なる匂いがする。
洗濯に使う柔軟剤や、食器を洗う洗剤の匂い、トイレの芳香剤、それらが自分の知っているものではないと、すぐに分かった。
更に、鮮度の下がった刺身を思い出させる生臭い匂いが混じっている。
混乱しながら玄関の照明を点けた俺は、照らし出された光景に、思わず悲鳴をあげた。
見知らぬ男――俺と歳の変わらない若い男が、狭い廊下に仰向けで大の字になって倒れている。
かっと見開かれた目は濁っており、死んだ魚を思わせた。
その腹部には、出刃包丁が付き立てられている。
フローリングの床には、大きな
「ちょっと、何時だと思ってんだよ! いつもいつも
不意に、開けっ放しだった扉の外から男の声が聞こえた。
「……うわああああ! ひッ人殺しッ!」
振り向いた俺の目に、恐怖に歪んだ顔で悲鳴をあげる見知らぬ男が映った。
――人殺しって……俺のことを言ってるのか? 冗談じゃない!
「お、俺じゃない! 帰ってきたら、この人が死んでて……」
しどろもどろになりながらも俺が説明すると、男は
「は? あんた誰だよ? ここはスズキさんの部屋だろ!」
「スズキさん?」
「そこで死んでるじゃないか! ……け、警察……!」
男は叫んだかと思うと、隣の部屋に飛び込み、荒々しく扉を閉めた。鍵をかける音が冷たく響く。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
男を追いかけ、俺は玄関から共用スペースの通路へ出た。
他の部屋の窓に次々と灯りがともるのを見て、俺は、これが
恐ろしくなった俺は、脱兎の如くアパートから逃げ出した。
――あの部屋は、間違いなく俺の部屋の筈だった……しかし、あの死んでいた男が住人と認識されていた……どういうことなんだ? 隣の部屋の住人も、俺の知っている近所の人じゃなかった……
疲れた身体で長い距離を走れる訳もなく、すぐに息切れした俺は、公園のベンチで休むことにした。
――思わず逃げ出してしまったが、さっきの男が警察に通報していたら、俺が逮捕されてしまうんだろうか。ミステリー系ドラマでも、第一発見者が疑われるのは定番だからな……
乱れていた呼吸が落ち着いてきた頃、複数の人間の足音が近付いてきた。
懐中電灯で俺を照らしたのは、二人組の警官だった。
「お兄さん、こんな時間にどうしたの」
――単にパトロール中なのかもしれない。しかし、さっきの男の通報で俺を探しているのだとしたら……!
俺は無言で立ち上がり、公園の出口へ向かって走り出した。
「待ちなさい!」
警官たちは、即座に俺を追いかけてきた。
彼らの姿を見て逃げ出すなど悪手の最たるものだ……しかし、俺は、その程度の判断すらできなくなっていた。
闇雲に走っていた俺は、いつしか最寄り駅近くの商店街に入っていた。
両膝を地面で
突然、道の脇から何者かの手が俺の腕を掴んだ。
抵抗する間もなく、俺は物凄い力で建物と建物の間の細い路地へ引っ張り込まれた。
「静かに!」
男の低い声が言うと、大きな手が俺の口元を覆った。
警官たちの走る足音が近づいてきたが、彼らは俺に気付かず通り過ぎて行ったようだ。
「こちらへ」
男は俺の腕を掴んだまま歩き出した。
彼は俺を助けようとしているのだろうか。あるいは、もっと良くない状況に向かっているのかもしれない――そんな考えも頭を
男は小さなビルの勝手口のような扉を開け、俺を引きずるようにして中へ入った。
「……手荒なことをして、すまなかった」
部屋の照明を点けると、男が言った。
暗い路地では、はっきりと分からなかった男の姿を、俺は見上げた。
トレンチコートに細身のパンツ、スマートなデザインの靴も中折れ帽も全て黒ずくめだ。
夜だというのに黒いサングラスをかけている所為で、人相は分からないが、通った鼻筋と引き締まった口元に形の良い顎を見ると、たぶん素顔も二枚目なんだろうと思わせる。
若い男のようにも壮年のようにも見える、年齢不詳なところが、少し不気味さを感じさせた。
「時々、君のように迷い込んでくる人がいるんだ。反対に、こちらの世界の人が君の世界へ迷い込むこともあるが」
「こちらの世界……? もしかして、並行世界ってやつですか?」
男の言葉に、俺は以前読んだSF小説や漫画を思い出した。
自分たちが住んでいる世界と少しずれたところにある、よく似ているが異なる世界――しかし、そんなものは、あくまで虚構であると思っていた。
「理解が早くて助かる」
男の口元が、
「君のような存在は、因果律を狂わせてしまうからね。世界が崩壊しないよう、元の場所に戻すのが我々の仕事だ。ついてきたまえ」
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『次は〇〇~右側のドアが開きます……』
アナウンスの声で、俺は目を覚ました。
電車の座席で、すっかり眠り込んでいたようだ。
既に、自宅の最寄り駅の寸前だった。
――危なかった……終電で寝過ごしたら帰れなくなるところだった。しかし、なんだか変な夢を見たなぁ……
意識をすっきりさせようと、俺は頭を振った。
――ようやく明日は休みか。スーツをクリーニングに出して掃除して布団も干さないと……面倒くさ……
ふと座っている自分の膝が目に入った俺は、愕然とした。
スーツのズボンの両膝部分が擦り切れている。
職場を出た時は、何ともなかった筈だ。
思わず擦り切れている部分に触れた俺は、膝の痛みに身が縮んだ。
ひどく打ちつけた後のような痛みだ。
はっとして見た
『〇〇~〇〇です……お降りの際は足元にお気を付けください……忘れ物が増えています……お手回り品をお確かめください……』
到着のアナウンスを聞いて、俺は窓から駅の名前を念入りに確かめた。
【了】
齟齬の夜 くまのこ @kumano-ko
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