山田あとり


 それは水に棲む妖精のような女だった。

 日焼けとは無縁の肌の色。流れる小川のごとき声でしっとり話す。酒を作っても首をかしげても空気が揺れた。波紋みたいに。

 俺はこの女に魅入られたのだ。しぐさにいちいち揺さぶられるなど、そういうことだろう。夜の女に本気になって益体もない。


「――でもわたし、あなたのこと好きですよ」


 そうささやかれたのは店を出る時だった。ぬるく湿気った街の空気が重く、呼吸しづらい。俺に向かって伸ばした腕がまとう、安いドレスの広い袖が金魚のひれのようだった。

 この日は飼っている熱帯魚のことを延々話してしまった。寂しい独り者の繰り言にいいかげん呆れたろうと苦笑いで退店する。そんな客の見送りで言うことなど、気を遣っただけだろうに。

 だが「これはね、お客さまには渡さないのよ」と握らされた連絡先は本物だった。以降、俺たちは外で会うようになる。同伴やアフターではなく、だ。そしてすぐに言われた。


「お魚、見に行ってもいい?」

「そりゃいいが……いいのか?」


 俺の家に来るのなら、そういうことも込みになる。どちらも大人だ。

 女は声を殺して笑った。もれた笑みが路上に転がってコポコポ音をたてた。


「あたりまえでしょう――あなたをちょうだいな」


 なんて甘いおねだりをするのか。考えるだけで背中に痺れが走った。



 約束した夜、女はちゃんと来た。だがインターホンのモニターを見てぎょっとする。カメラ越しの顔が魚のようだった。これは魚眼レンズや広角レンズだったかと考えた。訪問者など宅配ぐらいなので意識したことがない。

 それでも当然、ドアを開けたら女はいつもの綺麗な姿のまま。安堵する俺の横をすり抜け熱帯魚の水槽に直行すると、感嘆の声をもらす。


「きれい」


 これは俺の唯一の趣味だった。

 水槽の中は独立したひとつの世界。そこでヒラヒラ泳ぐ、俺のことなど知らぬげな魚。


「しっかり管理してるのね」

「生き物を飼うならちゃんとしなきゃな」


 なら安心、と女はつぶやいた。そしてしっとり微笑む。俺に向けるのは濡れたまなざしだ。もうするのか。意外とがっついているんだなと俺は笑った。



 その夜は絞り取られた。そうとしか言いようがない。締めつけられ、きて、とささやかれると抗えない。何回戦というほどの体力はないが全力で応じた。

 女は満ち足りてくれたのだろうか。ことを終え俺がトロトロしていると愛しげにささやかれた。


「……精を放つ時の男は、人も魚も同じ顔ね」


 脳裏にネイチャー系ドキュメンタリーでの鮭の産卵受精シーンがよみがえった。軽く口を開け、身の内をみつめ、体を震わせる魚。


「そう……かな……」


 つぶやき返した俺は溺れるように眠った。



 ふと覚醒したのは夜中だ。あまり時間は経っていないと思う。隣に女はおらず、リビングからわずかな光がもれていた。

 そういえば女の素性はほとんど知らない。信用してはいけなかったのか。慌てて出ていくと、女は裸のまま水槽の前に立っていた。


「おい――」


 絶句した。白い内ももに血が伝っていて、足もとに点々と赤が散っている。刺激で生理が始まったとでも?

 だがふり返った女は嬉しそうに笑う。血塗れの手にあるのは避妊具だ。さっき俺が使った――結んでゴミ箱に捨てたはずが、水槽の上で破られポタポタ垂れている。


「何してる」


 濁った水槽に駆け寄った。白とも赤ともつかない水。底の砂利の上に知らない粒々がたくさん落ちているのをかろうじて見透かせた。


「卵を産んだの。あなたの精をもらったから、きっとかわいい魚が孵るわ」


 ふふふ、と夢見るように女は言う。

 受精させたのか、この水槽で。いや意味がわからない。卵だと?


「育ててね。熱帯魚をお世話できるあなたなら、ちゃんとしてくれるでしょう? 自分の子だもの」


 そう笑んだ女の顔が、ぐにゃりとなった。インターホン越しに見た魚の顔へと変わっていく。

 そして腕はひれに。

 脚もひれに。

 白い肌には鱗が浮き出る。


 女だった魚は床にうずくまり、ピチャリと跳ねて泳ぎだした。部屋が水に満たされたように、俺の目の前を。

 優美なひれをひらめかせ悠々と窓へたどりついた魚は口で器用に鍵を開ける。体をよじりガラスを動かすのが艶めかしかった。

 外に泳ぎ出る魚を俺は追った。窓辺に立てば、名残り惜しげな魚の目が俺をみつめた。月に照らされた鱗が銀色に光った。

 それから女は空を泳ぎ、消えた。




 水を汚したからか、熱帯魚たちは死んでしまった。

 でも女が残した魚卵は生きていた。薄い膜の中、にょろにょろと稚魚が育つ。

 そのうち俺が近づくと卵の中からキョロリとした目がこちらを見るようになった。たくさんの目が不思議そうにしているのが愛おしい。これは俺の子らなのだ。

 膜を破り孵ってからも、幼魚たちは俺を慕う。毎日仕事から戻ればピチピチと水槽が波立ち、たくさんのまなざしが俺を迎えた。おかえりなさいお父さん、と。

 部屋ですごす時、彼らはいつも俺を見ている。まるで後追いする子どものように。



 了


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山田あとり @yamadatori

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