海月
星降
海月
キーンコーンカーンコーン。
長く感じた六時間目の終わりを告げるチャイムが鳴る。
部活のない今日は、いつもより浮ついた空気が教室を満たしていた。あちこちで 「どこ行く?」「そろそろ夏休みの課題やっとく?」なんて声が飛び交う。
「
胡桃ちゃんが弾むような声で、私の袖をちょんちょんと引く。胡桃ちゃんとは、高校に入ってから知り合った。二年連続同じクラスの友達だ。
私は、ちらりとドアの近くに目をやった。いつもの友達と談笑している海くんと目が合った気がして、慌てて視線を逸らす。心臓が小さく跳ねるのを感じた。
「ごめんね、今日はちょっと、どうしても外せない用事があるんだ。今週の土日なら両方空いてるから、また誘ってくれると嬉しいな」
私がそう言うと、胡桃ちゃんは拗ねたように口を尖らせた。毎日メイクを頑張っている私とは違いリップを薄く塗っているだけだというのに、一つひとつの仕草が可愛く思える。
「残念だけど、優月ちゃんがそう言うなら仕方ないもんね。土曜日、服見るのも付き合ってね」
「もちろん。ちょうど胡桃ちゃんに似合いそうな服を見つけたところなんだ」
「ほんと!? それは楽しみ! 約束だからね!」
胡桃ちゃんがきらきらと目を輝かせる。天真爛漫で無邪気な胡桃ちゃんといると、こちらまで幸せな気分になれる。
「うん、私も楽しみ」
「ありがと、優月ちゃん! じゃあね」
「じゃあね」
彼女に手を振り、私はリュックを机の上に置いた。机の中に入れてあった教科書と筆箱を丁寧にリュックの中に入れ、クラゲのキーホルダーがついたチャックを閉める。
そして、近くの友達への挨拶もほどほどに教室を出た。
「お待たせ、優月」
「海くん」
夏にしては涼しい風が吹いてきて、軽くセットされた海くんの前髪を揺らす。繊細なまつ毛が目元に影を落としていて、物憂げな雰囲気が海くんを彩っている。
海くんの切れ長な目に私が映っているのが見えて、心臓が大きく跳ねた。今この時間、海くんは私だけを見てくれている。
「用って何? また可愛いクラゲグッズでも見つけた?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど」
私の曖昧な言い方に、海くんが不思議そうな顔をする。
私は口を開き、必死で言葉を紡ごうとして、口を閉じた。
「えっと、ね……」
「ん?」
海くんが小さく首を傾げる。海くんがつけている香水なのだろう、オーガニックで優しい香りがふわりと漂った。
「え、っと……」
私は金魚のように口をパクパクとさせる。なんて言ったって、生まれて初めてなのだ。緊張で声が出てこない。
冷たくなった手を後ろにやると、リュックのクラゲが指先に当たった。海くんと初めて会話するきっかけになったクラゲをギュッと握りしめ、海くんの綺麗な顔を見つめる。
「私……一年生の時から、ずっと海くんが好きでした。……私と、付き合ってください。」
息を飲む音が、自分の鼓膜に響く。
言った。とうとう言えた。
カーテンがゆらりと揺れ、海くんの横顔を切り取るように影が落ちた。
一瞬。ほんの一瞬だけ、彼の視線が揺らいで、すぐに戻る。
吹奏楽部の音が、やけに遠く感じる。
海くんが口を開くまで、時間にすれば一瞬だったのだろうが、私には永遠に思えた。
「俺のことを好きになってくれてありがとう。けどごめん、俺、胡桃ちゃんのことが好きなんだ」
そう言って、海くんが困ったように笑う。
違う、私は海くんにこんな顔をさせたかったわけじゃない。
ただ私は、海くんの笑顔を隣で、
泣きそうになるのをグッとこらえ、私は無理矢理に口角を上げた。せめて一番可愛い笑顔を見てもらいたいから。
「そっかぁ。ごめんね」
言い終わった瞬間、全身の力が抜けるのを感じる。
そっか、海くんは胡桃ちゃんのことが好きだったのか。じゃあ、教室を出る前に私と目が合った気がしたもの、海くんが胡桃ちゃんを見ていたからなのか。仲良いと思っていたのも、私だけだったのかもしれない。いや、それどころか、私と仲良くしていたのはもしかしたら。
全部、全部、私の勘違い。
沈黙に耐えられなくなった私は、海くんから視線を外した。
心臓が痛い。呼吸が浅くなる。
そこから先、どうやって帰りの電車に乗ったのかはほとんど覚えていない。
「まもなく御園駅に到着します。お出口は左側です。御園駅を出ますと、次は波能駅に止まります」
車内アナウンスが響く。何百回と聞いてきたはずの音声なのに、今日は妙に遠く感じる。
私はぼんやりとしたままドアの前に立った。
海くんは胡桃ちゃんのことが好き。海くんは胡桃ちゃんのことが好き。
その事実だけが、ぐるぐると頭の中を循環する。
海くんとは、高校一年生の課外学習で仲良くなった。海くんもクラゲが好きで、私のリュックにつけてあるキーホルダーを見て話しかける決心をしたそうだ。
二人とも詳しくはないけどクラゲのことが好きで、クラゲがメインで展示されている水族館に一緒に行ったこともあった。確かに海くんの見た目は恰好良くて、それにつられて海くんのことを好きになる女の子が多かったけれど、私は海くんの中身が好きだった。
例えば、授業中に目が合うといたずらっ子のように笑うところや、動物に話しかけちゃうところ。ショートケーキの苺は弟にあげるところ、じゃんけんが弱いところ、食べ方がすごく綺麗で育ちの良さが感じられるところ。
好きなところをあげだしたらキリがない。それほどに、私は海くんのことが好きだった。
「ふぐっ、うぅ……」
海くんのことを考えていたら、振られてからずっと我慢していた涙が溢れ出してきた。電車内だってことはわかっているのに、頬を流れる雫が途切れることはない。
「御園駅に到着しました。お降りの際はお足元にご注意ください」
目の前のドアが開き、私は逃げるようにして電車から降りた。
そして、行先を見ることなく目の前の電車に乗り込む。御園駅は新快速電車と普通電車の連絡が行われる駅なので、この駅で普通電車に乗り換えないと最寄り駅を通過してしまうのだ。
車内に乗客が私以外誰もいないのを良いことに、ポケットに入れていたハンカチで目元を覆って思い切り泣く。
胡桃ちゃんは良い友達だ。それに、顔が可愛くてみんなに好かれる性格をしている。裏表も無く、良い意味で自分にも相手にも素直な女の子。人に自分の気持ちを伝えるのが苦手な私なんかより、よっぽど海くんにお似合いだろう。
そんなことぐらい、よくわかっている。
それでも、好きだったのだ。一緒にいることができるのなら私の全部を捧げても良いと思ってしまうぐらい、海くんに何かがあっても私が肩代わりしたいと思ってしまうぐらい、大好きだったのだ。
間違いなく、私の今までの人生の中で一番大好きなのだ。
私はぼんやりと顔を上げた。窓に反射して映っている自分はひどい顔をしていて、明日はどうやって目の腫れを誤魔化そうかなんてことを考える。海くんに罪悪感を抱かせたくないし、家に帰ってすぐに冷やしたらなんとかならないだろうか。
涙でびっしょりと濡れたハンカチをポケットにしまおうとした時、私は異変に気が付いた。
御園駅の次が私の最寄り駅である固陋駅なので、もうとっくに着いていても良い頃だ。なのに、まだ電車は減速すらしていない。そればかりか、窓の外は次々と知らない風景が流れている。
「え、桜?」
驚いたのは景色だけではない。今はもう七月だというのに、可愛らしい桜の花びらが舞っていた。車内では冷房がかかっているし、私の制服だって夏仕様の半袖のものだ。
腫れてしまったせいで開きづらい目をごしごしとこすり、もう一度窓の外の景色に目を向ける。
先ほどよりも増えた桜の花びらが粉雪のように降っており、世界を淡い桃色に染めている。
「え、何これ……。夢……?」
状況を全く理解できていない私をほったらかしにして、乗っている電車が止まる。
「終点、桃源郷に到着しました。朽ちない桜と終わらない夢にお気をつけてお降りください」
意味のわからないアナウンスが聞こえ、ドアが音もなく開いた。
私が乗っている車両には誰もいないためわからないが、電車から降りてみれば同じ状況に置かれた人と話し合うことができるだろう。
桃源郷なんておとぎ話の中でしか聞いたことのない場所だが、今は私以外誰もいない車両の方が不気味だった。それに、私が駅のホームにいるのを見ることで人が集まって来るかもしれない。
思い切って電車から降り、眼前に広がるあまりの美しさに息を飲む。
地面には桜の花びらが降り積もっており、小さな駅の出口から伸びている道を守るようにして朱色の鳥居がずらりと並んでいる。奥の方には見たこともないほどに巨大な桜の木がそびえ立っていて、駅の近くまでその枝を広げていた。
これほど幻想的な空間は今までに見たことがないし、この先見ることもないだろう。
その光景にどれほどの間目を奪われていたのかは定かではない。我に返った私がふと後ろを見ると、乗ってきたはずの電車は跡形もなく消えていた。
「えっ、どうしよう」
慌てて周囲を見回すが、私以外の人の気配は全く感じられない。不自然なほどに静まりかえっていて、まるで全ての物が私のことをじっと観察しているかのような考えに襲われた。
「と、とにかく人を探さなきゃ」
出口に向かい、私は足早に歩いた。リュックのキーホルダーをギュッと握り、気持ちを落ち着ける。
不安に駆られ走って出口まで来てしまったが、それでも人は見つからない。ここはどうやら無人駅のようで、改札口がぽつんと一つあるだけだった。
「嘘でしょ……」
駅を隅々まで見るが、『桃源郷』という表示板以外、時刻表はおろか時計すら見当たらない。
リュックの横ポケットからスマホを取り出して確認しようとしても、スマホは電源すらつかなかった。
どうすれば良いのかわからず、私が頭を抱えて絶望していると、「大丈夫?」という声が上から聞こえた。
私が上を見ると、狐のお面を被った少年がこちらに向かって手を差し伸べている。服装はパーカーにジーンズといういたって普通のものなのに、お面があることで異質な雰囲気を醸し出していた。
不審な少年に対する警戒心よりも自分以外の人間に出会えたという安心感が勝り、思わずその少年の手を取る。
「ありがとう。ところで、ここがどこか知らない?」
少年は抑揚のない声で「ここは桃源郷、朽ちない桜と終わらない夢を見るところ」 と返した。
見た目のわりに、妙に大人びた話し方をする子だ。私は得体の知れない何かを感じ、少年の手をパッと離した。
それに対し少年は特に反応することもなく、鳥居が立っている道の先を指さす。
「こっち」
すると、私の足が勝手に動いた。本人の意思とは関係なく、少年に続いて奥へと歩いていく。
「あれ?」
私は小さく驚きの声をあげた。少年は狐のお面をつけているというのに、お面を固定するための紐がどこにも見当たらない。
当の少年は、まるで私が後をついてくるのが当然だというように、どんどん進んでいく。
私は、もう完全に開き直ることにした。というよりも、脳がキャパオーバーを起こしてしまったのかもしれない。
だって、現実でこのようなことがあるはずがない。これは、私が電車で寝てしまった結果見ている夢なのだろう。夢だと気づいても覚めないなんてことはよくある話だし、これだけ桜が散っているのにも関わらず何の匂いもしないのはここが現実世界ではないからだ。
だが、心の底にある一抹の不安が消えない。
その不安をかきたてるかのように、遠くから祭囃子の音が聞こえてきた。その音はどんどん近くなる。向こうが移動している様子は無いので、私たちがその音のする方に近づいていっているのだろう。
「もうすぐ」
少年の声が聞こえる。どこかでこの声を聞いたことがあるような気がするのだが、どうしても思い出せない。
夢だとわかって少し余裕が出てきた私は、歩きながらぐるりと周囲を見渡した。今歩いているところは山道のようで、山の頂上から桜の巨木が生えているらしい。石でできた階段を歩いているが、桜が下に積もっているからか足音は響かない。道沿いのところには杖のような物が点々と設置されていて、その先端についている鈴が鈍い銀色の光を放っている。
後ろを振り返ると、私が通った道は彩度を失い、セピア色に変色していた。
ますます現実味がない。少し前に京都の神社に行ったので、その記憶に影響されているのかもしれない。
前を行く少年が足を止めると、私の足も歩くのをやめた。桜の巨木まではまだ距離があるので、山の中腹あたりだろう。
私の目の前には開けた場所が広がっており、そこで何人かが和楽器を演奏している。先ほどから聞こえていた祭囃子は、彼らによって出された音ということで間違いないようだ。
私たちが来たことに気づいたらしく、彼らは演奏をぱたりと止める。にやりと笑った顔をしている狐のお面が一斉にこちらを向いた。
「夢」
少年が短くそう言うと、奥から真っ黒な狐のお面を被った人が出てきて、私の前に立った。そして、無言のまま私のことをじっとりと眺める。目を逸らすと負けるような気がして、私はお面の目を見返した。そういえばこのお面、目の部分に穴が開いていない。彼らはどうやって前を見ているのだろうか。
私の様子に満足したのか、お面に描かれた朱色の口がにやりと口角を上げる。
「オマエの願い、話せ」
突拍子もなく放たれた言葉に、私はぽかんと口を開けた。思わず、「願い?」とオウム返しをしてしまう。
お面の口角がますます上がった。
「願い。オマエの願い。話せ。夢、見せてやる」
夢を見せる? 何を言っているのだ。
「そんなこと言われても、ここは夢の中でしょ」
私の言葉に、周囲の人間が喉の奥を鳴らして笑った。獲物を見つけた肉食獣の鳴き声のようで、嫌な笑い方だ。
「ここは桃源郷、朽ちない桜と終わらない夢を見るところ」
周囲の狐のお面たちが、同時に口を開く。あまりにも抑揚がないせいで、御経を聞いているような気分になる。
夢、そうだ夢だ。
私はごくりと喉を鳴らした。どうせここが夢の中だというのなら、願いを口にしたって良いだろう。
私の見てる夢なんだから、どうせ誰にも知られることなんてない。
それなら、
「海くん。海くんが欲しい。胡桃ちゃんさえいなければ、海くんは私のものになってくれたかもしれないのに」
胡桃ちゃんは良い子だ。けれど、海くんから好意を向けられているのは心底妬ましかった。私だって、胡桃ちゃんみたいに海くんから好意を寄せられてみたい。それには胡桃ちゃんが邪魔だ。
胡桃ちゃんなんて、いなくなっちゃえ。
私の願いを聞いた彼らは、いきなり変な舞を踊り始めた。何語かもわからない意味不明な言葉を発しながら、くるくると私の周囲を回る。
その時、私は奇妙なことに気づいた。
地面には桜が降り積もっており、私が歩いたところには足跡ができているのに、彼らがどれほど動こうと地面は綺麗なままだ。
試しに片足を上げてみるが、そこにはしっかりと私の足跡がついている。
ふと、狐のお面たちの動きが止まった。
黒色のお面をつけた者が、私にぬっと顔を近づける。
「願い、承った。終わらない夢を見ろ」
そして、彼らはゆっくりとお面を外す。
そこには、この世のものとは思えないほどに綺麗な顔立ちが、コピーしたかのように皆同じ顔立ちが、何の表情も浮かべずに並んでいた。
「固陋駅に到着しました。お降りの際はお足元にお気をつけください」
いつものアナウンスが聞こえ、私はハッと目を開ける。
見慣れた車内が視界に映り、私は小さく笑った。
全く、奇妙な夢を見た。最初から最後まで意味がわからなかったし、不気味すぎて二度と見たくない。
けれど、失恋の痛みを紛らわすには少しだけ効果的だったかもしれない。
電車のドアが開き、何事も無かったかのように私は家に帰った。
次の日私が学校に行くと、下駄箱のところで海くんに声をかけられた。
「おはよう、優月。前に優月が行きたいって言っていた水族館のチケットが取れたから、一緒に行かないか?」
赤い顔をした海くんにそう言われ、私は思い切り面食らった。
私は昨日海くんに振られたばかりだし、海くんは昨日私を振ったばかりだ。それなのに、どうして水族館に行こうなどということが言えるのだ。
嬉しさと気まずさが半々の複雑な気持ちで、私は「え? 人を間違えてない?」と返す。
すると、海くんは「間違えてないよ。俺は優月を誘ってるんだ」と力強く頷いた。
「だって、優月、この前ペンギンショーが有名な御園港水族館に行きたいって言ってただろ?」
「え?」
私たちが住んでいる県には水族館が二つある。片方はクラゲがメインに展示されている小さな水族館で、もう片方は御園港水族館といってクラゲが一切展示されていない。クラゲがいる方の水族館には、一年生の終わりの頃、私と海くんで一緒に行っている。
「御園港水族館はクラゲがいないでしょ?」
「けど、優月の好きなペンギンはいるだろ?」
私はますます意味がわからなくなった。私が好きなのはクラゲだ。そもそもクラゲがきっかけで話すようになったのだから、今更海くんが間違えるはずがない。それに、ペンギンが好きなのは胡桃ちゃんの方ではないか。
「ペンギンが好きなのは胡桃ちゃんでしょ?」
戸惑いながら私がそう言うと、海くんは不思議そうな顔をした。
「胡桃ちゃん? 誰のことを言ってるんだ?」
「え? 海くんの好きな人のことじゃないの?」
自分で言っていて、涙が溢れそうになる。
半泣きの私とは対照的に、海くんは顔をますます赤らめた。
「胡桃ちゃんっていう人は知らないよ。それに、俺の好きな人は優月だし」
胡桃ちゃんのことを知らない? 昨日、胡桃ちゃんのことが好きだと言っていたのに?
私は混乱してきた。もしかして、まだ夢の中なのかもしれない。
私が軽く頭を振ると、視界の隅にひらひらと桜の花びらが舞った。思わず差し伸べた手のひらの上にその花びらが落ちた瞬間、昨日の記憶が鮮明に蘇る。
――願い、承った。
頭の中に例の声が響き、私は目を見開いた。手のひらの桜の花びらを凝視する。
もし、昨日のことが夢ではないとしたら。
もし、本当に海くんが私のものになったのだとしたら。
私は目の前の海くんに視線を戻した。私に向けたことのない、照れたような表情をしている。
もしかして、もしかして、海くんは私のことを、
私は自分の胸が高まるのを感じた。こんなに幸せな気持ちになったことがあるだろうか。
私は海くんににっこりと笑いかけた。
「チケットありがとう、海くん。私、クラゲがいる方の水族館ももう一度行きたいから、そっちは私がチケットを予約しておくね」
今度は海くんが「え?」と声を漏らした。
「俺、優月とそこに行ったことないよ?」
「え? ほら、一年生の終わりに私たちで行ったじゃん」
私がそう言うと、海くんは少し傷ついた顔をする。
「知らないよ、俺じゃない誰かと勘違いしてるんじゃない?」
「え?」
海くんとの大切な思い出を本人に否定され、私は固まった。
嫌な予感がする。
「ごめん、話変わるんだけど、私の好きな食べ物って知ってる?」
海くんは少し驚いた顔をした後、「もちろん知ってる。メロンだよな?」と答えた。
違う、メロンが好きなのは私じゃなくて胡桃ちゃんだ。
「私たち、クラゲがきっかけで仲良くなったんだよね?」
「クラゲ? 俺たちが仲良くなったきっかけは、高校の入学式で席が隣だったからだろ?」
私じゃない。入学式で海くんの隣の席だったのは胡桃ちゃんだ。
「答えにくかったら良いんだけど、私のどこを好きになってくれたの?」
直球な質問をすると、海くんは顔を真っ赤にした。耳まで真っ赤になりながらも、視線は真っすぐに私をとらえている。
「言い切れないほどたくさんあるけど、一番は天真爛漫で無邪気なところかな。優月は自分の気持ちを素直に相手に伝えることができるし、何より一緒にいると幸せな気分になれるんだ」
間違いない、それは胡桃ちゃんの長所だ。私はお世辞にも素直だとは言えないし、自分の気持ちを相手に伝えることが極端に苦手だ。
もしかすると、海くんは、
「ごめん、海くん」
そう言って、私は弾かれたように走り出した。先ほどまでの幸せな気持ちが一転し、心に暗雲が立ち込める。
急いで教室に向かい、前の黒板に貼られている出席簿を見る。
「無い、無い、無い」
そこには、昨日まではあったはずの胡桃ちゃんの名前が無かった。それに、胡桃ちゃんが所属していた委員会のところには私の名前が書かれている。
「そんなはず、」
私はリュックのポケットからスマホを取り出し、SNSを開いた。複数あるSNSを全て確認する。
「ここにも無い」
胡桃ちゃんのアカウントが存在しない。
急いでカメラロールを確認する。思った通り、胡桃ちゃんの写真は一枚も無かった。胡桃ちゃんと一緒に撮った写真は、胡桃ちゃんではない誰かに置き換わっている。
「優月! 急にどうしたんだ?」
私を追いかけてきた海くんに声をかけられ、私は後ろを振り返った。この質問で全てがわかる。
リュックのクラゲをぎゅっと握ろうと思った手が空を切り、血の気が引くのを感じた。
無い。海くんとの思い出のクラゲのキーホルダーが、無い。昨日は確かにあったはずだし、どこかに落とした記憶もない。
代わりに制服の裾を強く握りしめ、私は絞り出すように声を出した。
「ねぇ海くん。海くんが好きな生き物って何?」
「クラゲだよ。クラゲが好きって優月に言うのは初めてだと思うけど」
全身の力が抜け、私は思わず地面にうずくまった。
間違いない、海くんは胡桃ちゃんに向けていた好意そのものを今の私に向けている。
胡桃ちゃんはこの世界から消えた。そして、私が胡桃ちゃんに取って代わった。胡桃ちゃんの立場や思い出は全て、私のものとなっているのだ。
じゃあ、私は?
海くんは、私との思い出は全て忘れていた。きっと、昨日告白したことも無かったことになっているのだろう。
胡桃ちゃんは実体的な存在が消え、私は概念的な存在が消えた。
「優月!? 大丈夫か!?」
心配そうな顔をして私に手を差し出してくれる海くんの瞳には、昨日と何ら変わらない私が映っている。
海くん、好きな生き物はクラゲでしょ。それを見れなくても、胡桃ちゃんが行きたい水族館のチケットを取ってたんだね。
それに、さっきのいろんな表情は、私に向けてくれたことがないでしょ。胡桃ちゃんと二人のときはずっとあんな感じだったんだね。
そして何より、私との思い出は何一つとして覚えてくれてないんだね。私からしたら宝物だった時間は、海くんにとっては何でもなかったんだね。
海くんの、私への偽りの好意を感じるほどに、それが自分に向けられていないということを全身で実感する。
海くんが私を見ることはないというのが、痛いほどにわかってしまった。
海くんは私のものになるだろう。けど、海くんが好きなのは私じゃない。私のことは一生好きにならない。
私はハッとした。
そうだ、私は、海くんに好きになってほしいとは願っていない。海くんが欲しいということと、胡桃ちゃんがいなくなればということしか口にしていない。
こんなの、私が望んだものじゃない。
泣き叫ぶ私をあざ笑うかのように、狐のお面たちの笑い声が脳裏をよぎる。
私は教室を飛び出した。
何としてでも、もう一度あそこに行かなければ。
無我夢中で駅まで走り、電車に飛び乗る。
「何で、何で、何でッ」
何度電車に乗っても、どれだけやり方を変えても、昨日の場所にたどり着けない。
「夢なら早く冷めてよ! 夢じゃないのなら、もう一度桃源郷に行かせてよ!」
人目すら気にならず、私は大声で叫ぶ。近くを通り過ぎたおじさんに舌打ちをされたが、そんなことすら気にならない。
ふとスマホが鳴り、私は反射的に画面に目をやった。通知は海くんからのメッセージで、『大丈夫? 今どこにいるんだ? 優月の好きなメロンのお菓子を買ったから、この後一緒に食べて気分転換でもしよう』と表示されている。
海くんが好きなのは胡桃ちゃんの存在を借りた私であって、本当の私じゃない。
クラゲのキーホルダーも無くなり、私にとっての海くんが消えてしまった。
ふと、海くんと一緒に行った水族館に書いてあったクラゲの説明文が頭をよぎる。
『海月は死んだら水に溶けて消えてしまいます』
溶けるようにして消えてしまったのは胡桃ちゃんの方ではなく、
「うわああああああああッ」
私は絶叫した。視界がぐらりと揺れ、何が何だかわからなくなる。
頬からこぼれる涙は桜の花びらとなり、終わらない悪夢を突き付けるかのようにひらひらと舞い踊った。
桃源郷
世俗を離れた別世界。再訪することは不可能な場所。
海月 星降 @hoshi_hurihuri
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