第27話 暗い森と朝日

 私はあなたが好きだった。今でもずっとそれは変わらない。


 宗君は私に何を求めているのか分からない。でも私が行かなければ、きっとあなたを傷つける。私はもう戻ってこれない気が薄々している。僅かな時間だったけど、私は幸せで、きっとこれからもずっとそんな思いだけで満たされていく。


 お気に入りのブルーグレーのワンピースをあなたの実家に置いてきたことを思い出して悔やんだりしたけれど、今となっては良かったな、と思ってる。それを見て、いつか私のことを思い出す日が来るかもしれない。

 私のことを恨むかもしれない。

 それでもそのワンピースを着た私は心からあなたを愛してたことを思い出して欲しい。


「紫帆…。具合悪いの?」

 心配そうに私の顔を覗き込む。練習を辞めた桜木君がいつの間にか側に来ていた。宗君のメールは冬までのカウントダウンを始めた。もう私は蜘蛛の巣にかかった小虫の気分になっていた。

「あ…。ちょっと夜が長くなると…落ち込んでしまうみたい」

「え?」

「ドイツの冬は…夜が長くて」と言うと、優しく抱きしめてくれる。

「ごめん。家を空けることも多いから」

 私の精神はもう崩壊寸前だった。メールボックスを開けるのも怖くて、でも内容を確認して完璧に削除するのが日課だった。でもぎりぎりのところで正常を保てたのは桜木君の存在だった。彼を傷つけたくない。冬までは彼の側にいたい。そんな私のエゴが、自分を苦しめ、そして精神を保った。

「辛い?」

「今年は…夏が楽しかったから、余計かな」

「じゃあ、南半球行こう。それでまた三月になったら戻ってきたらいい」

 桜木君は本気でそんなことを言う。

「それならずっと常夏のハワイに行ってぼんやりしたい」

「そうだね」と慰めるように私の頭を撫でてくれる。

 あなたがハワイでのんびりなんてできないことを知っていて、私は言った。もし桜木君がピアニストでなければ、どこかに二人で逃げることができたかもしれない――、なんて考えて軽く息を吐く。

「でも桜木君は頑張ってピアノ弾かなきゃ」

「…紫帆?」

「私が常夏のハワイでのんびりしてても、ドイツでしっかり稼いで」と冗談を言うと、笑ってくれた。

 私がどこで何をしていても、あなたはちゃんとピアノを弾いて欲しい。

 舞台に上がり、スポットライトに照らされて、演奏を続けて欲しい。

 堂々と、これまでと変わらずに誰もが惹かれる音を紡いで欲しい。

「ハワイはともかく、一度、日本に帰ろうかなって思ってるの。手紙を書いたのにお母さんから連絡がないの。…だから」

「そっか。たまには顔を見せてあげないとね」

 頷いて、桜木君を見る。大好きだったあなたの顔をずっと忘れないように。

 大きな胸。温かさが伝わってくる。

「すぐ帰ってくるから」

 離れたくない。

「うん。待ってる」

 待たなくていい。

「なるべく早く戻るから」

 きっと私は帰ってこない。

 あなたの胸の中で私はどれだけ叫びたかったか。恐怖を打ち明けたかったか。でも全てを飲み込んででもあなたの側に今はいたかった。

「雪…」と桜木君が窓の外を見て言う。

「積もったら、雪だるま作る?」

「そうだな。雪玉でも投げる?」

「絶対負けるじゃない」と私は頭を温かな胸に擦りつける。

「どうして?」

「大きな手だから」

「じゃあ、片手で作るってハンデ付でどう?」

「それなら勝てそう」

 私達は年甲斐もなく、アパートの中庭で声を上げて雪玉を作って投げ合った。笑いながら、私の玉を受けている姿を見ると、視界が涙で歪みそうになる。幸せなあなたの笑顔を収めておきたい。片手で作る雪玉は大きい手とはいえ、緩く握られて当たっても少しも痛くない。

「もうハンデなくていいよ」と私が言うと、大きな雪玉を作り始める。

 それが当たるとかなり痛そうだ。

 でももしその雪玉を当てられたら、私の罪が消えるなら当ててもらいたい。

 そんなことはないのだけれど。

 私は両手を広げて、瞳を閉じて雪玉を当ててもらうように立つ。

 いつまでたっても雪玉は当たらない。そっと目を開けると、桜木君が近くにいて、私の頭の上で雪玉を両手で抱えている。

 不思議に思っていると、頭上で雪玉が割れて、私は雪まみれになる。

「もう」と私が雪を払うと、桜木君は私を抱きしめた。

「紫帆はどうして…」

 それ以上、桜木君は言葉を紡がなかった。

 私は地面の雪を両手で掬って、桜木君に放り投げた。二人とも雪まみれて、すっかり冷えてしまった。

 それでも私は赤い鼻で笑うあなたの笑顔を忘れることはできない。


 出発の前日に私は桜木君にショパンのワルツ第四番をリクエストした。遠い春を想って、あなたを想って、踊る。

 好きだった。

 あなたのピアノの音で目が覚める朝。

 一日が眩しく見えた青春。

 エトワールになりたくて、練習していた日々。

 壁につまずいて、自身で足を傷つけて、引退してからの日々。

 あなたのことを愛していた時間と苦悩に満ちた選択への後悔。

 いろんなことが思い返されるけれど、今は何よりあなたを愛したこと。あなたがこれから先、幸せであることが私の希望だったから、踊りながら、あなたを想った。

 いつか私のことを想い出す日は今日のこのダンスを思い出して欲しい。ジャンプはできないけれど、私のことを綺麗だと言ってくれた踊る姿を。


 桜木君は快く私を送り出してくれた。空港まで見送ってくれる。

 航空会社のカウンターで預けた私のスーツケースにはプレゼントされたスカーフが全部詰め込まれている。彼が私にくれた愛だから。今日はスカーフを首に巻いている。

「体に気を付けて」と私は彼の頬に唇を当てた。

「紫帆も」

 そう言って抱きしめられる。いっぱいの桜木君のぬくもりと匂い。

「ありがとう」

「え?」

「ありがとう。愛してくれて」

 不思議な顔をする。

「紫帆?」

「愛してる。ずっと」

 そう言って、私なぬくもりと匂いから距離を置く。

「どうかした?」

「伝えておきたくて。たまにはね」

 不信な表情を納得させるような顔で覆う彼に私は背一杯の嘘を吐く。

「来年、夏はどこに連れて行ってくれるの? 海も山も一緒に行きたいから」

「そうだね。じゃあ、考えて置く。ちゃんと休み取れるように」

「私は水着用意するから」

 そう言いながら、私は出国ゲートに向かう。

 冬の日は低い位置に上るから、遠くまで光が差し込む。振り返りたい気持ちを私は押さえて、ゲートに出た。二度と会えなくなることを分っていた。


 帰国して、私は宗君を説得できなかった。だから桜木君を守りたくて、彼と深い森へ入った。生きて出ることはないと分かっていながら――。


 離婚できなくてごめんなさい。

 こんな形でしかあなたを解放できなくてごめんなさい。

 最後までわがままな私でごめんなさい。

 私が最後の瞬間に思い出したのはあなたのピアノだから。

 どうか弾き続けて。

 私のことは忘れて。

 でももし思い出すことがあれば、踊っている姿を。

 あなたを愛した私を。

 心から愛してた。


 森は暗くて、朝日が届かない。

 だけど、私の耳にはいつまでもあなたのピアノが聴こえた。

 あの朝のように。

 だから幸せな気持ちで微笑みながら消えていった。

 世界の果てを感じた海を思い出しながら。


 ~終わり~

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ラストワルツ かにりよ @caniliyo

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