とびっきりのお洒落をして

新田漣@ファンタジア文庫より書籍発売中

1

 だっ、と背後から轟音が迫ってきた。


 振り向くと、雨の境目がアスファルトを侵食し、こちらへ押し寄せてくるところだった。蒸し暑い夏の時期はゲリラ豪雨が多い。俺は仕方なく商店のひさしの下に逃げ込み、小雨になるのを待った。ここ数年は温暖化の影響もあり、予報外れの雨も珍しくない。だからこのときも、日常から足を踏み外したような感覚はなかった。


 けれど、目の前にある二階建てのアパートに視線を奪われた瞬間、呼吸さえ覚束なくなった。


 ひび割れた外壁を覆う蔦。外へ突き出すように歪んだ手摺。どことなくゆるやかな死の気配が滲み出す外観は、世界から切り取られ、激しい雨粒で色が剥がれ落ちたみたいだ。そんな荒廃したアパートの二階から、長身の女が俺を見下ろしていたのだ。


 遠目に見ても脂ぎった黒髪が、すだれのように顔を覆っていて、視線は辿れない。けれど、間違いなくこちらを向いている。俺以外にも誰かいるのかと周りを見渡してみたが、ただ激しい雨がアスファルトを鳴らすばかりだ。


 視線を戻すと、女の服に違和感を覚える。こんな蒸し暑い夏の日に、真っ赤なロングコートを着ているのだ。裾からぬらりと覗く足首は青白く、深海で暮らす生物を彷彿とさせる。そんな異様ともいうべき存在が、むりやり明度を調整したみたいに風景から浮いていた。


 俺はホストという職業柄、変な女と接する機会が多い。意思疎通ができる相手ならまだマシなほうで、なかには会話が噛み合わない女だって居る。具体的に言えば、好きな芸能人を質問しても厳格な父親に育てられたと返されてしまう。


 根気よく話を紐解いていけば、幼い頃からテレビを禁止されていたので芸能人に疎いという真相に辿り着くのだが、そこに至るまでの道のりが迂遠すぎて、思考回路が理解できないくらいにずれているのだ。


 この手の女は、ファッションもどこかずれている。


 トレンドから外れているのではなく、キャラクターだったり、色だったり、本人の強いこだわりがコンセプトとして現れるパターンが多い。その結果、サイズや季節感といった本来気にすべき要素が無視されて、違和感を運んでくるのだ。


 厳格な父親に育てられた女も例に漏れず、なぜか猫に拘りを持っていた。キーホルダーや服の柄だけでなく、猫耳の帽子など、何から何まで徹底していた。もちろんファッションは自由だが、周囲がどう受け取るかも自由だ。俺はそう結論付けて、ファッションが妙な女には警戒心を抱くようになっていた。


 だが、いま俺を睨んでいる女は違う。


 警戒心といった生易しいものではなく、一瞥しただけで危険信号が点滅するような恐怖が押し寄せてくるのだ。


 逃げるように下を向く。だが、眉間に指を近づけられたように、女の視線が迫ってくる感覚に襲われる。確認することさえ怖くなった俺は、濡れることさえ厭わずに雨の中を一心不乱に駆け出した。 


 ◆


 とはいえ、ただ怯えるだけではホストの仕事なんて勤まらない。俺はその夜の出勤から、赤いロングコートの女を会話の手札に加えることにした。怖い話は人を選ぶが、好きな女は途端に食いついてくる。


 実際、頭に浮かぶだけで五人くらいの客はホラー好きを公言しているし、同伴でホラー映画を観にいった客もいる。そしていま接客についている那美夏なみかは、筋金入りのホラーマニアを公言していた。


 俺が昼間の出来事を過不足なく伝えると、那美夏はトレードマークでもある派手な暖色のリップが塗られた唇をにっと開き、興味津々といった様子で問いかけてくる。


「その女ってさ、幽霊なの?」

「わかんない。でも、なんか雰囲気は違ったかな」


 わざと馬鹿っぽい口調を作り、俺は考えるふりをする。那美夏もつられるようにして、うむむと小さな唸り声を出しはじめる。


「……じゃあヘンな女か地縛霊の二択だね。ジュキヤ的にはどっちがいいの?」

「えー、どっちでもいいよ。もう会うこともないだろうし」


 那美夏の金髪を撫でながら、ため息まじりに呟く。話のネタになるのは有難いが、赤いロングコートの女の正体を掘り下げる気はさらさらない。だけど那美夏は納得しなかったらしく、唇を尖らせてみせた。


「なんだよその顔」

「いや、今のままじゃつまんないなーって。せめて幽霊なのか人間なのかはハッキリしたくない?」

「インタビューでもしろってか? 無理無理、話が通じるタイプじゃなかったよ」


 あの風貌で流暢に応じられてもそれはそれで怖いのだが、それはともかく。


 俺はもう赤いロングコートの女を見たくなかったし、あの道だって通りたくなかった。しかし那美夏は引き下がらす、手をぱんと鳴らして異常な提案を持ちかけてきた。


「じゃあさ、ジュキヤがその女の正体を突き止めたら、このお店で一番高いお酒を注文したげる」

「はぁ?」


 思わず食い気味に返事してしまう。この店で一番高いお酒といえば三百万円のロマネ・コンティだ。那美夏は金払いが悪いわけではないが、一般職の人間で、身体を売ってホストに貢ぐタイプではない。扱いやすいので気に入ってはいるが、決して太客とは呼べないのだ。


 そんな那美夏が、たかが怖い話ひとつに三百万円を支払うと言っている。正気の沙汰とは思えなかった。


「冗談だよな? バースデーイベントならともかく……」

「え、冗談言ってる顔に見える?」


 化粧品の匂いが鼻に届くほど、那美夏の顔が間近に迫った。嘘を生業とする俺に、くだらない嘘を吐くほど那美夏は馬鹿じゃない。だからこそ、嬉しさよりも恐怖が勝ってしまった。

 何がそこまでさせるのだろうか。そう考えたところで、俺は那美夏を見誤っていたことに気がつく。


 この女もきっと厄介で、どこかずれているのだろう。


 ◆


 件のアパートは自宅からほど近いが、毎日使う道沿いではなく、郵便局を利用するときにだけ折れる道にある。それでも五年ほど暮らす町なので通った回数はかなりのものだが、あんな不気味な女を目にしたのはあの日が初めてだった。動き始めた歯車が止まらないように、一度見てしまうと何度も遭遇してしまいそうで、あの女の正体を突き止めるなんて行為は気乗りはしなかった。


 それでもこうしてアパートへ向かっているのは、どこまでいってもホストは金で動く生き物だからだ。


 適当にそれっぽい嘘を並べ、怪異をでっちあげる選択肢もあったが、那美夏には通用しない気がした。腹を括るしかない。


「はぁ、嫌だな」


 気分が重すぎて独り言が漏れてしまう。何も知らずに見てしまうより、居るかもしれないと思いながら確認するほうがよっぽど怖い。アパートに近づけば近づくほど、足が前に進まなくなる。


 どこにでもある何の変哲もない住宅街の細い道に、猛烈な日差しが降り注ぎ自分の影が伸びていく。今日は雲ひとつない快晴で、雨は降らないらしい。やがて商店の庇が見えてくる。件のアパートが近い。アブラゼミの声に混ざって、自分の心音が聞こえそうだ。


 俺はできるだけ商店側に身を寄せながら、雨だれで筋状に汚れた石塀を視線でなぞっていく。そのまま上を向けばアパートの二階が見える位置だ。深い呼吸を繰り返し、薄目を維持して顔を上げる。


 すっかり色素を失った蔦に、傾いた手摺。赤いロングコートを着た女はそこにはおらず、時代に取り残されたアパートがただ西日に耐えていた。陰鬱な雰囲気は未だ漂っているものの、寒気を覚えるほどではなかった。


 念の為に数分ほど立ち止まり、アパートの二階を眺めていたが何も起こらない。だんだんと恐怖心は冷め、アパートの写真を撮る余裕まで生まれた。スマホが切り取ったアパートにも異変は写っておらず、俺は心の中で「なめんなよ」と悪態をつきながら踵を返した。


 それなら二ヶ月ほど経った頃、アパートは工事のフェンスで囲まれ、あっという間に取り壊されてしまった。聞くところによると、以前から老朽化が問題視されていたが、ついに行政の手が入ったらしい。


 那美夏は来店するたびに進捗をせがんでくるが、あの日以来、赤いロングコートの女をまったく目にしていない。もちろん存在を遠ざけているわけではなく、週に三日ほどアパートがあった道を通ってみるのだが、ただこじんまりとした空き地と看板が残されているだけだ。


 もしかすると赤いロングコートの女は幽霊ではなく、どこかへ引越してしまったのかもしれない。


 そう思ってしまうほど、拍子抜けする幕切れだった。


 ◆


 残暑も陰りを見せはじめた十月のある日。俺は出勤前にラーメンでも食べようと店舗近くの繁華街に少しだけ早く出向き、目当ての店へと歩いていた。


 中途半端な気温のせいか、街ゆく人々の服装は四季をごちゃ混ぜにしたようで、半袖の中年男性とライダースジャケットを着た風俗嬢が腕を組んでホテル街へと消えていくのが妙におかしかった。


 そんな愉しさをひとり味わいつつ交差点で信号待ちをしていると、空から雨粒が落ちてきた。さっきまで晴れていたのに妙だなと思った瞬間、なんとなく隣が気になった。


 狭い車道を挟んだ向かい側の歩道に、やけに長い女が立っていた。


 そいつは脂ぎった髪を振り回しながら、あちこちに視線を飛ばしている。不自然なほど短い黄色のレインコートからは骨が浮いた脚が覗き、コンパスみたいに地面に突き刺さっていた。いや、そう見えたのは、レインコートとまったく同じ色をしたハイヒールのせいだろう。


 服装こそ違うが、間違いなく赤いロングコートを着ていた女だ。


 心音が加速するのを感じつつも、俺は近くの薬局へ潜り込む。歩道へはみ出した商品棚の隙間から、女の様子を窺うことにした。


 信号が変わっても、女はその場で立ち止まり、ぎこちなく首を動かして何かを探している。待ち合わせの雰囲気ではなく、一方的な待ち伏せにも見える。まるで、今すぐ飛びかかりたいのに、ぐっと堪えているような。


 そんな姿を眺めているうちに、あるひとつの疑念が胸の中で根を張り巡らせた。


 あの女が探しているのは、俺じゃないのか。


 理由はわからない。けれど、あの女はたしかにアパートの二階から俺を睨んでいた。職業柄、女の恨みを買うことは少なくない。売掛というツケ払いのような仕組みで多額の借金を背負い、風俗に流れた客だって居る。


 もしかすると、あの女は過去に俺を指名していた客なのだろうか。だが、どう捉えても生きている人間の姿とは思えないし、あの女に見覚えもない。あれだけ特徴的な人物を忘れるはずがなかった。


 ふと、女の顔がずれるように動く。

 目が合った気がして、思考が遮られる。


 商品棚であの女の視線を切っているので、俺の姿はおそらく見えていない。仮に気配を察しても、俺だとは特定できないだろう。そのはずなのに、あの女と視線が絡み合い、しっかりと結ばれるイメージが頭から離れなかった。


 その悪い予感をなぞるように、女はこちらに顔を向けたまま動かない。長い身体を小刻みに震わせ、拳をかたく握りしめている。


 見てはいけない。そう理解しているのに視線が外せない。やがて女の顔を覆う髪の隙間から、大きくて真っ赤なものが覗く。叩きつけたザクロから飛び散った果実のような色。その鮮烈な色がぐにゃりと歪み、黄ばんだ歯が見えた瞬間、俺はようやくあの女が笑っているのだと気がついた。


 その瞬間、俺は弾かれるように駆け出していた。薬局の奥へと進む。あの女に見つからないよう、反対側の出入口から逃走しなければならない。急がなければ、長い四肢を蜘蛛のように使って、あの女が追いかけてくるかもしれない。そんな恐怖で頭が埋め尽くされ、脇目も振らずに繁華街を通り抜けた。


 空腹を訴えていた胃袋は得体の知れない緊張感で満たされてしまい、ラーメンどころではなかった。


 その夜、見計らったようなタイミングで那美夏が来店したので、俺はすぐにさっきの件を打ち明けた。改めて見ても、あの女はこの世のものじゃない。悪霊とよばれる類の幽霊だ。もはやロマネ・コンティなんてどうでもよく、助けを乞うような気持ちだった。


 俺の話を聞き終えた那美夏は薄い笑みを浮かべながら、ゆっくりと唇を開く。


「幽霊じゃないかもね、それ」


 はっきりした口調からは自信が満ち溢れていた。だが、俺にはあの女が人間だとはにわかに信じられない。


「見てないからそう言えるんだよ」

「でもさ、幽霊が着替えるなんてヘンじゃない? 普通、亡くなったときの姿で出てくるものだよ」

「それはそうかもしれないけど……」


 たしかに服装が変わる幽霊なんて聞いたことがない。超常的な存在に人間の常識を当てはめるのは無駄な気もするが、安心感を保つために縋る要素としては大きかった。


「じゃあ、なんで俺を探してるんだろ。あんな女と面識はないよ」

「その女がジュキヤのことを勘違いしてるとか。昔ヒドいことされた男に似てるんじゃない」

「ってことは、他人の空似で逆恨みされてるだけ……?」


 冷静になりつつある頭で考えれば、幽霊と言われるよりその可能性のほうが腑に落ちる。ホストは多少なりともメイクをするし、整形だって珍しくない。今の流行は韓流アイドルなので、目指すべき顔は自ずと似通ってくるものだ。


 こうして那美夏にひとつひとつ紐解いてもらえれば、あの女もただ様子がおかしい人間のひとりに過ぎなかった。恨まれるのは厄介だが、相手が人間なら警察に通報すればいいだけだ。


 すっかり安心した俺は、天井を見上げながら大きく息を吐く。気分を上げるためだけに流れるダサいリミックスも、今だけは心地よかった。


「ありがとな、那美夏」


 俺はへらりと笑いかける。


 応じるように那美夏も笑ったが、感情の質が俺とは異なる気がした。派手なリップを塗った唇は小さく震え、しきりに視線をさまよわせている。


「どうした? 寒い?」

「んーん。気づいちゃったら、ゾクゾクしちゃって」

「……何に?」

「いや、ジュキヤってさ、よく相手の服を見るじゃん。変な女は、変な拘りがあるとか……」

「ああ、それがどうしたの?」


 妙な胸騒ぎがする。 


「その女だって、服への拘りがめっちゃ強い可能性もあるよね」

「……で?」


 結論を急かすと、那美夏は瞳をかっと見開いて、興奮気味に語り始める。


「最初に会ったときは赤色のロングコートで、アパートの二階からじっとジュキヤを睨んでた。今日は黄色のレインコートで、周囲をぎょろぎょろ見渡して、走り出したい気持ちを抑えながら立ってたように見えたんだよね」

「何が言いたいんだよ」

「なんかさ、信号みたい」

「……は?」

「次はさ、青色の服でジュキヤの前に現れるんじゃない?」


 まさか、信号機を体現しているとでも言いたいのか。馬鹿らしい。そう笑い飛ばしたかったが、乾いた声が喉から押し出されるばかりだった。その手の厄介な女が異常な拘りを持つことを、嫌というほど知っているからだ。


 赤色は止まれ。黄色は原則的に止まれ。では、あの女の服が青色になったら俺はどうなるのだろうか。


 やけに赤く、大きな笑顔を思い出してしまう。疑問と不安を誤魔化すように那美夏から視線を逸らすと、入口近くのボックス席で脂ぎった黒髪が動く。思わず声を漏らすが、よく見ればなんてことのない、ただ入口を仕切る為のカーテンだった。


 結局その日から今に至るまで、あの女の姿は見ていない。幽霊なのか人間なのか、それすらわからない。けれど俺は、青い服を纏ったあの女が雑踏の中でこちらを睨んでいる気がして、まともに街を歩けなくなった。

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