地上の月(下)

 

 後に、隠居屋敷に戻った俺はアリステラさまに訊いてみた。

「アリステラさまは、偽のアリステラさまが用意されていたことをいつから知っていたのですか」

「最初から知っていました」

 アリステラさまはあっさり認めた。

「カルティウスシア姫が南の国に連れ去られたこともあり、マクセンスは、南の国から来る特務大使をひじょうに警戒していましたから」

 最初の頃、イグナツィオは隠居屋敷の外から窓ごしに姫の姿を眺めることしかゆるされなかったが、その頃から替え玉だったそうだ。

「あずまやに現れたあの方ですか」

「そうです。わたくしの替え玉になってくれたのは、ルジウス伯の親戚のご息女で、マクセンス王からも信頼されておられます」

 最初から愛していたのはあなただけです。イグナツィオは偽アリステラ姫にそう告げ、偽者の姫はイグナツィオのその気持ちを受け入れた。政治的な駆け引きと思惑ありきの中ではあったが、隠居屋敷で僅かな時間を過ごすうちに彼らが通い合わせてきた愛は本物だったからだ。

「このことを知っていたのは、わずかな警護の兵と、そして侍女頭のウーラだけです」

 特務大使が来る日、隠居屋敷に仕える俺たちは対面の場のある棟から遠ざけられていた。あれも、大使に応対するアリステラさまが偽物だとは知られない為の用心だったのだ。ウーラさんは時々、「見張りの者をお二人から遠ざけるように」と俺たちに工夫させていたが、その真意は、恋人たちを監視の眼からほどいて水入らずにする為だけではなく、イグナツィオの本音を訊き出すためにわざと隙を作っていたのだそうだ。

「逃亡計画を持ち掛けることこそありませんでしたが、隠居屋敷から出して差し上げたいといった趣旨のことは毎回、イグナツィオさまのお言葉にあったそうです」

 予想外だったのは、イグナツィオが偽の姫に寄せる気持ちが、年を重ねるごとに同情から想像以上に強いものに変わったことだった。海上で海賊に襲われている船の上にカティアの姿を見つけた瞬間から、大胆な人質交換を考えつくほどに。

「南国にいるイグナツィオさまに送る手紙はわたくしが代筆していましたが、その時には、彼へ寄せる彼女の精一杯の気持ちを反映するようにしていました」

 俺はちっとも気づかなかった。二人の仲を取り持つのだと伝書鳩のように書簡筒を届けていたが、実際は、アリステラさまが恋人たちの仲を取り持っていたのだ。

 イグナツィオ・リュ・ゼデミネンは、偽アリステラ姫にあらためて結婚を申し込んだ。二人は俺たちに祝福されながら、ゼデミネン家の船に乗って南の国に旅立って行った。

 

 隠居屋敷の庭に出ると、アリステラさまは、マクセンス王の話もしてくれた。

「人質となり供人とも引き離されて、こちらの隠居屋敷に閉ざされてから数年のあいだは、わたくしもまだ幼く、泣き暮らしておりました。その頃からマクセンスは秘密裡にわたくしを訪れてくれました。夜におしのびで、そこの裏から入ってくるのです」

 屋敷の裏門をアリステラさまは指した。

「侍女頭のウーラと同じく、隠居屋敷まわりの警護の兵のうち、夜警にあたる僅かな者だけが王の訪れを知っていました。マクセンスはいつもぶっきらぼうで、わたくしの顔を見るなり、元気かとか、今日は少し顔色が悪いがちゃんと食べているのかとかそんなことを云っては、すぐに帰ってしまうのです」

 その夜の訪問はいつも不意打ちだった。アリステラ姫は戸惑いながらも、マクセンス王がやって来るのを迎えては、「はい」または「いいえ」と短く王に返答していた。

「いつ頃からでしょう。そのうちわたくしは気がついたのです。マクセンス王は、お寂しいのだと」

 歳の近い兄王子は不慮の死を遂げ、幼いカルティウスシア姫まで父と母に連れ去られ、独りになってしまった青年王。

「或る夜、わたくしでよければカルティウスシア姫の代わりに妹になりましょうと申し上げました。マクセンスは愕いた顔をして、余が決めたこととはいえ、独りで化石の国に留め置かれたアリステラ姫こそ寂しいだろうと仰ったのです」

 マクセンス王も王なりに、アリステラ姫のことを気遣っていたというわけだ。孤独な二人は次第に惹かれ合った。マクセンス王の許嫁であった西の国の姫が結婚する前に逝去していたこともあり、本来ならば、第一王子に代わり王となったマクセンスと北の国の王女の結びつきは歓迎すべきことだった。しかし結婚は出来なかった。領民に祝福されて結婚するには、そこには大きな障壁、第一王子の死に北の国は関与しているのか否か、五ツ谷の洞穴で見つかった大量の武具は北の国が用意して、マクセンスを討とうとする霊視王に便乗して化石の国に攻め寄せる為のものだったのか否か。この二点が不明のままだったからだ。

「マクセンスは密約書は必ずあると信じてずっと探していました。それさえあれば、少々の障害はどうにか出来ると」

 アリステラさまのために。

「わたくしは毎日、この二日月湖に祈りました。もし密約書が見つからないままでも、マクセンスが何処かの国から后を迎えてもお傍にいられますように、この隠居屋敷にいつまでもいられますようにと。マクセンスは誰とも結婚しないとわたくしに誓ってくれましたが、一国の王が独身を通すわけにはいかないことは分かっておりました」

 アリステラさまはそのまなざしを湖に向けた。

「この湖に願いをかけ、北の国に戻ることも諦めました。最初からわたくしはその覚悟でマクセンスを愛したのです」

 月のかたちをした蒼い湖は、化石の国の王を愛する異国の姫の願いを叶えたのだ。



 全てが落ち着いた頃、マクセンス王とアリステラ姫の婚礼が化石の国を挙げて盛大に執り行われた。

 衣裳代が下された俺も礼装を新調した。弓矢海軍からはカザリクス船長、ホーランとセリニーロの両副長が城の庭宴に招かれた。さらにはケルヴィンとサロヴィン兄弟も王の結婚を祝うために街を訪れた。マベッケ他、南風の神の島にいた怪我人も、全員無事に帰国した。

 ユナの最期を俺の口から知らされたケルヴィンとサロヴィンは暗い顔をしたが、「覚悟はしていた」とだけ云い、それ以上は何も云わなかった。

 マクセンス王は弓矢海軍から脱走した者たちを含めて、五ツ谷の罪の一切を結婚の慶事にあわせて特赦した。約束の十年が過ぎても赦免を出さなかったことについては、「彼らの新しい邑の選定をしているうちに日が過ぎた」そうだ。政務に追われている王は日々、忙しいのだ。

 俺たちが勝手に海に行き、外洋に船出した後、マクセンス王からこっぴどく怒られた侍女のラターシャは相変わらずカティアに仕えている。以前とは違い、マクセンス王が現れるたびにラターシャはかなり距離を空けている。

 マクセンス王とアリステラ姫の結婚の祝宴は外国からの賓客を招いて城の大広間および離宮で行われた。国土全体が三日三晩、祝いに沸いた。

「マクセンス王、万歳」

「北の国のアリステラ姫、万歳」

 王と並んで手を振るアリステラさまの美しさは喩えようもなかった。無天蓋の馬車で街を通過する国王夫妻を祝福するために領民も浮かれ気分で誰もが新しい衣裳を買い求めた。街中の仕立て屋はここ数ヶ月の間、夜も寝る間もなかったことだろう。

 離宮の夕空に大輪の花のような花火があげられた。鮮やかな空の色を映し出す二日月湖にさざ波をたてて、隠居屋敷から回ってきた舟が湖に現れた。マクセンス王が妹姫の誕生日に贈った美しい舟だ。ザジとコロンバノが漕ぐその舟の舳先には花冠を頭に乗せたカティアがいた。

「スカイ」

 黄金に輝く二日月湖の波を分けて、俺のカティアがやって来る。ひらひらした衣裳をつけているのは、今夜の宴でカティアは愛の妖精役を余興で演じることになっているからだ。呼ばれた俺はいつものように片手を挙げてカティアに応えた。

「マクセンス兄上。アリステラさま。ご結婚おめでとうございます」

 よく澄んだカティアの声が湖面を渡る風にのる。俺とマクセンス王はカティアを迎えるために並んで離宮の庭に出た。影絵のようになっている森の中では、あの泉が、この夕空の色に染まっていることだろう。やがてそこには月と星のかがやきが青く落ちるのだ。

 俺の記憶にないお姫さま。

「朱い蜜蜂の邑のスカイよ」

 俺の顔も見もせずにマクセンス王が云い出した。

「カルティウスシアが望むならばお前たちを結婚させてやってもいい。王女に釣り合うだけの身分をお前にやろう」

「姫が望むなら、ですよね」

 変な汗が出てきた俺は、カティアを舟から降ろすために王のもとを離れた。




[完]

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俺の記憶にないお姫さまの話 朝吹 @asabuki

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