鵞ペンとインク

倉沢トモエ

鵞ペンとインク

 ひとりの書生がつまらなそうに鵞ペンの先を削っていた。


「おい」


 書生はもうひとりいた。こちらは裏庭を駆け回り、逃げた兎を捕まえてきたところだ。


「今日の先生のご用事はなんだったろうか」

「さてねえ」


 兎を捕まえてきた書生は、注意深く籠をあけて、兎を戻した。籠の中に兎はあと二羽いて、それも飛び出そうとうずうずしていたから、扉を閉めるのには少々難儀した。


「たしか、奇術の寄り合いだったよ」

「先生の凝り性にも困ったもんだな」


 この兎も鵞ペンも、奇術の道具である。本日の寄り合いにはまだ工夫中ということで置いていかれたが、そのうち新作奇術として披露されるだろう。


「こんな、租界のあやしい品まで手を出されてなあ」

「その鵞ペン、あやしいのか」


 兎の用事が済んだ書生は身を乗り出す。


「あやしいも何も、この干からびたインク瓶といっしょに売りつけられたのさ」


 深い青のインク瓶が書き物机に置かれている。

 読み解けぬ文字の商標が貼られている。


「あらあら!」


 玄関先で女中頭が声を上げた。


「先生ときたら、そそっかしい」


 原稿を受け取りに来た新聞記者も困惑している。

 先生が記者に渡すよう言いつけられていた風呂敷包みの中身は、本日寄り合いで披露する奇術の道具だった。


「じゃあ今ごろ寄り合いのほうでも騒ぎになっていらっしゃるでしょう。

 よござんす、私はこれからそちらに伺いますから」


 記者が急ぐのを、鵞ペンを持った書生が止めた。


「まあまあ。ここはこの先生のお道具を頼りましょう。

 これなる品は!」


 床に敷いた紙に、この鵞ペンと秘密のインクで丸を描きますと。


「たちまち意中の品を呼び出せるということですよ!」


 何をおっしゃる、おふざけでない、女中頭と記者があきれるところ、書生ふたりは年末の障子紙の余りを敷いて、くるりと丸く円を描く。


   ◆


「やや?」


 本日奇術の寄り合いは、物好きで知られる戸田山伯爵邸で行われていた。


「どうしました」


 文士の先生が風呂敷包みをひらいて赤面しているのを、お仲間一同がのぞき込んだ。


「いやはや、お恥ずかしいことで」


 その時だった。


 文士先生の風呂敷から、まず兎が三羽飛び出した。


「ありゃ」


 これは、と目を見張っていると、


「これは霊験あらたか。

 おっと、失敬」


 書生が二人飛び出して、伯爵に挨拶をした。


「先生、困りますわ」


 と、女中頭が飛び出して、


「先生、ひとつお約束のお原稿を」


 新聞記者が出て手を出したときには拍手喝采、


「いやはや、お恥ずかしい」


 文士先生は大いに恐縮したのだった。

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鵞ペンとインク 倉沢トモエ @kisaragi_01

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