とある一家の夕食時
昼星石夢
第1話とある一家の夕食時
あら、もうすぐ八時。ご飯も炊けているし、先に食べましょうか。
「お父さん、
「おお」
はたと間の抜けた顔を上げる父。はあ、いいご身分だこと。
台所に戻って、豆腐とワカメの味噌汁を温め直し、冷蔵庫からごぼうと人参のきんぴらを取り出し器に盛る。父が、壁や、棚をつたい、ダイニングテーブルに
「うぅ……ん……あーー取りにくいなあ。んん……駄目だ」
きゅうりの浅漬けを小皿に取り分けていると、父はこれ見よがしに、鯖の身が取りづらい、と暗に伝えてくる。箸は跳ね、身が飛び散り、指は油まみれだ。
「うちはデイサービスじゃありませんからね。手取り足取りサポートなんかしませんよ。まったく。女しかいないって、
お昼も用意しておかないといけないし……。箸の先で身をほぐしながら言う。
ガチャン、と玄関の扉の開閉音が聞こえた。茶碗を置いて玄関先に出る。
今日は二人とも遅いわね。どっちが帰ってきたのかしら。息子かな?
「あら、あなた。おかえりなさい」
「ふうう、疲れたぁ」
ただいま、ぐらい言いなさいよ。うわ、酒臭い。飲んできたのね。
台所に夫と戻ると、父の食べるスピードがさっきより格段に速まっている。
「ちょっと、ゆっくり食べてくださいよ。お医者さんに言われたでしょう。また前みたいに胃酸が逆流して胸やけ起こしますよ」
そう声を掛けてから、夫と奥の寝室に入る。ネクタイを
「あの子、まだ帰ってないんですよ。最近、帰りが遅いと思いませんか?」
「ああ?」
「いくら高校生だからって……塾もとっくに終わってる時間でしょう」
「おーー」
「ちょっと、聞いてます?」
クローゼットの鏡に映る夫の顔は、ぼんやり上の空だ。まったく……!
「あーー仕事が今ややこしくてな」
はっ、仕事? 本当かしら。スーツからダサい普段着に着替える夫を冷めた目で見つめる。先日の朝、台所の椅子に忘れていった角形封筒を思い出す。重要な会議があるからと、慌ただしく家を出ていったあの日。朝の家事が一段落したところで見つけた。大事な資料だったら大変だと、急いで夫のスマホに連絡したけど応答はなし。そこで会社に電話を入れたのだ。
「福井さんは今日、体調不良でお休みと聞いておりますが?」
電話の向こうで、若い声の女性事務員が言った。
「ああ、そうでした、病院に行くと言ってましたわ」
体調不良? あんなに勢いよく出掛けて? お休み? でも家にいないじゃない。
冗談でしょ……。
夫の行動が意味するところは、何となく想像がつく。ついてしまう。
――浮気だ。この人は浮気をしているのだ。
「ああ、そうだ。明後日、出張になったから」
意識の遠くから、夫の声が聞こえて我に返る。
「出張?」
「そ。工場にサンプルを届けないと」
「戻りはいつです」
「たぶん、
たぶんって……。本当に出張なんだろうか……。探偵、雇ったほうがいいかしら。
「なら用意しておきますね。替えの下着はどうします?」
不信感は顔に出さず、鏡に作り笑いを向ける。
「どちらでも構わない。必要ならコンビニで買えるし」
引き
「それより、さっきの話ですけど」
と、話を戻す。
「あの子、いじめにあっているんじゃないかしら……」
「ええ?」
二人して台所に戻り、横目で父の様子を確認する。コホンコホンと咳き込んでいるが、おおかた食べ終わっているので、父の向かいの椅子で足を組んだ夫に視線を移す。
「家に置いてあるお金が減っているんですよ」
「家に置いてあるお金? どれのことだ」
テレビから目をそらし、私に詰め寄る。お金のことになると真剣だ。夫には黙っておきたかったが、
「その、何かあったときのために、少し置いてあるんですよ、私の
「ヘソクリか」
感心しないな、というように腕を組む夫。自分のことを棚に上げて、よくそんな顔ができるものだ。ヘソクリの何が悪い? いやそれより……。
「カツアゲされてるんじゃ……」
「まさか……気のせいじゃないのか? 数え間違いとか」
「違いますよ。お金の数え間違いなんて、するわけ無いじゃないですか」
「なら――出来心だろ。お前が隠しているのを見つけて、
「一回や二回じゃないんですよ。かなり前から……」
父がまだ、ケホンケホン、とやっている。急いで食べるからそうなるのだ。
カチャン、と玄関から音がした。夫と、ハッとして振り返る。おずおずと台所へやってきた息子の姿に、
「どうしたの、それ!」
「お前……」
夫と同時に口を開き、同時に
「別に……何にもないよ」
と
「待て!」
声を荒げた夫に肩を捕まれ、息子はギクリと振り返る。
「お前、カツアゲされているのか!」
「……はあ?」
夫の肩越しに、きょとんとした息子と目が合う。
「ち……」
バツが悪そうに、夫の手を体を揺すって
「違うよ。そんなんじゃない」
「じゃあなんだ!」
「それは……」
言い
「彼女が出来たんだ」
「はぁ?」
間の抜けた声がまたもや夫と被る。息子はもじもじと、テーピングされた右手の包帯を
「今日は付き合ってから一か月の記念日で……特設のローラースケート場があって……彼女がやりたいって言って……」
「ローラースケートなんてやったことないでしょう」
私が言うと、「おい」と夫が眉をひそめた。黙ってろ、って? 私はヘソクリ盗られたのよ! それも、今の話だと、どこぞの小娘のために!
「その怪我は、ローラースケート場で?」
夫の問いに息子が
「後ろから別のカップルにぶつけられて転んだ。
「え? 保険証はどうしたの?」
違う、そんなことじゃなくて! 心の中で自分に文句を言う。
「定期入れにマイナンバーカード入れっぱなしにしてたから。初めて使ったな。診察代とかは彼女が払ってくれたんだ。無理やり連れてきたのは私だからって」
「いい子じゃないか」
夫の言葉に頷く息子。冗談じゃない! 高校生の
「ま、良かった、深刻な問題じゃなくて。な?」
夫が晴れやかに振り向く。
「あのね!」
――その時、一段と大きく、エッホン、エッホン、と父がえずくように咳き込みはじめた。苦しそうに胸を押さえ、口を大きく開けたり、閉じたりしている。
慌てて夫がコップに水を入れ、父に手渡した。息子は左手で背中をさする。父は数回に分けて水を飲み、何度か大きく深呼吸をすると、ようやく落ち着いたのか、はあああと息を吐いた。
「どうしたの? 大丈夫?」
顔を覗き込む私に、父は、ぶつぶつと小さな声で何か言った。
「え?」
「魚の骨が引っかかったんだ。さっきから、水をくれと言っていたのが聞こえなかったのか?」
そんなこと言われても……だって、ねえ?
とある一家の夕食時 昼星石夢 @novelist00
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