prac-kiss

南村知深

 

 耳に飛び込んできたその言葉が一瞬理解できず、あたしは思わず顔を上げて正面の女をまじまじと見つめていた。無意識にこわった右手に力が入っていたらしく、日誌に押し付けたシャーペンの芯がポキッと折れてどこかに飛んで行く。その音が静まり返った放課後の教室に大きく響いた――気がした。


「……意味わかんない」


 早々に理解することを放棄してそう返し、シャーペンをノックして学級日誌の記入に意識を戻す。日直の仕事なのでやらないわけにもいかず、かといって真面目に書くのも面倒なので内容は『特になし』を連発するだけだ。

 その様子をあたしの前の席に座っている女――萌々花ももかが不満そうに眉根を寄せながら見ていた。

 教室にいるのはあたしと萌々花だけ。放課後になって二時間近く経っているのに、教室に残っているような物好きなどいない。帰宅するか部活に行くか、そのどちらかだ。

 あたしは日直の面倒な仕事のために残っている。

 萌々花は――まあ、話し相手があたししかいないから残っているのだろう。いつものことだ。


「もう、なつちゃん。まじめに聞いてよ」


 萌々花は頬を膨らませながら言って、さっきの話を繰り返す。


「素敵な彼ができて、初めてキスするときに失敗したくないでしょ? だから夏葵ちゃんと練習したほうがいいと思うの」

「…………」


 聞き間違いでもないし、意味不明なことには変わりなかった。

 萌々花はわかりやすくいえば『夢見がち』だ。世界中の全員とオトモダチになれると信じているし、必ずわかり合えると考えている。そんな思考形態をしているせいか、恋愛に関しても甘くとろけるような恋ができると思っているらしい。高校生にもなってラブコメ漫画やロマンス小説のようなフィクションが現実でも起こると疑わない、しかもそれを堂々と公言してしまうだ。

 だから、初恋の彼とのキスは理想通りにしたい、と主張している。

 ……そんなことばかり言っているから、クラスで浮いてしまってハブられるんだ。残念なことに当人はそれに気づいていなくて、誰にでも話しかけていって無視されて、空気が読めないだのさかいなしだのと陰でバカにされていることにも気づかない。見ていると可哀想を通り越してムカついてくるくらい、脳内お花畑が満開だった。

 同じハブられの身でも、あたしとは全然違う。あたしは自分が不愛想で性格が悪いことを自覚していて、他人と関わると面倒ごとばかり起こしてしまうので避けるようにしている。萌々花みたいに他人を信じていないし、信じようと気を遣って頑張るより孤立しているほうが楽だと思うような人間だ。

 そんなクラスのハブられ者二人がなんとなく一緒にいる、というのがあたしと萌々花の関係。いつも一緒にいるけど、決してコイツは仲のいい友達なんてものじゃない。

 ……が、萌々花はあたしを話し相手になってくれる人と認識しているらしく、うんざりするくらい話しかけてくる。歩いているときに子犬がじゃれて足元にまとわりついてくるような感じが鬱陶うっとうしくて、ほとんど聞き流しているけれど。

 そんな塩対応でも、他の人と違って話を聞いてくれるからあたしは『良い人』なのだそうだ。本当に人を見る目のない子だと思う。


「自分で言ってることが変だと思わないの?」


 ただ、今回はいつも以上に言動がおかしいので聞き流しもできず、思わず反応してしまった。


「……? どこが?」

「練習であたしとキスしたら、彼とするのが初めてじゃなくなるし。あんた、本当に好きな人との初めてファーストキスが何より大事だってうるさいくらい言ってたのに」

「だから夏葵ちゃんに言ってるんだよ。女の子同士のキスは回数にカウントしないから、夏葵ちゃんと練習しても私の初めてはまだ見ぬ素敵な彼にとっておけるんだよ」

「そんなわけあるか」

「あるよー。だってこの漫画でそう言ってるもん」


 と萌々花はごそごそとカバンをあさり、ボロボロの漫画をあたしの眼前に突き出した。平成を通り越して昭和を感じさせる古い少女漫画で、何十回、何百回と読み返された萌々花の恋愛指南書バイブルらしい。そんなブッ飛んだ価値観で描かれたフィクションを真に受けているなんて正気を疑うが、それがこの女というものだ。


「……あんたがそう思うんなら、別にそれでいいけど」


 相手になるのが面倒になって、あたしは投げやりに返して日誌の備考欄に『何もなし』と書き込んで閉じた。

 キスの練習と言われてあたしが想像するのは、ぬいぐるみや人形相手だ。あたしが真っ先に思いつくくらいだから、そういう描写のある漫画は少なくないと思う。

 多分、萌々花も目にしているはずだけど……それを言ってみたところで何も変わらないだろう。今まで正論(とあたしは思っている)をぶつけても萌々花の考えは変わらなかった。思い込みが激しいからぬかくぎ暖簾のれんに腕押しだ。こっちが疲れるだけで意味がない。


「じゃあ、練習に付き合ってくれる?」

「いいよ。好きにすれば」

「ありがとー、夏葵ちゃん」


 嬉しそうに顔をほころばせ、萌々花はあたしの手を引いて椅子から立った。あたしのほうが少し背が高いからか、向かい合った萌々花が上目遣いで見上げてくる。冷め切ったあたしの視線にもひるまず、期待に満ちた瞳を輝かせていた。


「で? どうすんの?」

「キスは彼からしてほしいから、彼氏役の夏葵ちゃんからして? 私、目をつぶって待ってるから」

「……あのさあ、ほうならわかるけど、のに練習が要るの?」

「要るよ。だって本当に好きな人との初めては絶対に失敗したくないし、それだけ大事なことだから」

「……そう。まあ、どーでもいいや」


 面倒だ。さっさと終わらせよう。

 そう思って、あたしは雰囲気も何もなく、ただ機械的に萌々花の肩を引き寄せて唇を奪った。タイミングも焦らしもあったものじゃない、不意打ちのようなものだ。


「ん……っ」


 目を閉じた萌々花の口からくすぐったい吐息が漏れる。理想とは違う感覚に戸惑っているらしい。

 そのせいで湧き上がったぎゃくしんで、初めてのキスでは多分しないだろうと思いつつ舌をぐっとねじ込んでやると、萌々花の肩がびくんと跳ねて慌てたように離れた。


「な、夏葵ちゃん……?」

「何?」

「なに、じゃないよ……。は、初めてでこんなこと、普通はしないよ?」

「そんなこと知らないし」

「しないんだってば。練習だからいいけど、こんなの初めてですることじゃないよ」

「…………」


 顔を真っ赤にしながらぶつぶつと文句を垂れる。

 どこまで純粋ピュアで、どこまで夢を見れば気がすむんだろう、コイツは。

 初めて。初めて。初めて。

 初めてのファーストキスを大事にしたいと思うのはわからなくはないけど、そこまで神聖視するものなのか。すべてに優先するきんぎょくじょうだとでも思っているのだろうか。

 だったら、あたしがこう言ったらコイツはどんな顔をするんだろう?


「萌々花」

「ん? なあに、夏葵ちゃん」

「女の子同士の練習のキスは回数に入らないノーカンって言ったよね」

「漫画にそう書いてあったもん」

「そうだったね。ところで、あたしにとってさっきのキスは、

「えっ……」

「言ってる意味、わかるよね?」

「…………」


 二の句が継げない萌々花を、あたしはじっと見つめる。

 練習ではない本番の、初めてのキス。

 それが意味するところを理解したとき、コイツがどんな反応をするのかが楽しみで仕方がないというような、いびつな笑みを浮かべながら――言葉を待つ。



 萌々花は――





       終

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