喰う女~明美の薔薇色の夢~
ソコニ
第1話 明美の薔薇色の夢
正月の冷たい風が境内の紅白幕を揺らす中、佐藤誠は「薔薇神社」の石段を上っていた。高級スーツに身を包み、セリーヌの革靴を履いた彼の足取りは軽やかだった。しかし、その表情には微かな焦りが見え隠れする。今年は必ず、去年以上の成果を――その強迫的な思いが、彼の瞳の奥で渦巻いていた。
石段を一段一段上るたびに、何かがおかしいと感じ始めていた。階段の数が、上るたびに増えているような。振り返ると、既に地上は霞んで見えなくなっている。しかし彼の心は、目の前にちらつく札束の幻影に支配されていた。その幻影の中で、被害者たちの顔が一瞬だけ浮かび上がっては消えていく。
「今年も儲かりそうだな」
彼は昨年の"実績"を思い出し、薄く笑みを浮かべた。目を閉じると、次々と情景が蘇ってくる。
「合計で2億円...」
誠は心の中で金額を数え上げた。認知症の老婆から騙し取った3千万の遺産が最初の一歩。「お母さん、これはお父さんの借金の返済のためです」と嘘をつき、震える手で印鑑を押させた瞬間。老婆の娘が必死に止めようとする声も、冷たく無視した。
その成功が彼の中の何かを壊した。次は終末期患者から騙し取った5千万。「お父さんの治療費です」と泣く一人娘に、にこやかに「大丈夫、必ず良くなりますから」と約束して。翌日、患者は息を引き取った。
そして最後の大仕事。真夜中の民家に押し入り、金庫から奪った現金1億2千万。「子供の留学資金です」と書かれたメモが添えられていた封筒。泣き叫ぶ主婦の声を、金の音で掻き消した。
人々の悲鳴や涙は、彼の心には届かなかった。ただ、札束を数える指先の感触だけが、快感となって残っている。その感触を求めて、今年は更なる獲物を探していた。
その時、不思議な香りが漂ってきた。甘く、どこか懐かしい薔薇の香り。その香りに誘われるように、誠は最後の石段を上り切った。その瞬間、彼の影が異様に長く伸び、まるで無数の手が這い寄るような形に歪んでいた。
境内には、初詣の参拝客が所狭しと集まっていた。しかし、よく見ると、その人々の表情が妙に固い。まるで能面のように、感情を失った顔が並んでいる。そして、その顔の一つ一つが、誠が騙してきた被害者たちの顔に瞬時に変わっては元に戻る。その光景に気付かない誠の目には、ただ普通の参拝客にしか見えなかった。
その中で、ひときわ目を引く女性が佇んでいた。シャネルの和装に身を包んだ彼女は、まるで浮世絵から抜け出てきたかのような美しさだった。その着物の柄は、見る角度によって血のように赤く染まったり、深い闇のように黒く変化したりする。
「ようこそ、薔薇神社へ」
明美は微笑んだ。その瞳は、どこか深い闇を湛えているようにも見えた。瞳の奥で、無数の魂が苦しみもがいているような錯覚を覚える。しかし誠には、その恐ろしい光景は見えていなかった。
境内の空気が、徐々に重くなっていくのを感じた。参拝客たちの吐く息が、冷気の中で白く凍りついていく。その白い息は、まるで魂が抜け出ていくかのように見える。中には、かすかに人の形を成して漂うものもあった。
「昨年は大変お世話になりました」
誠は深々と頭を下げた。その姿勢で地面を見つめていると、自分の影が異様に長く伸びているのに気付いた。影は波打つように揺れ、まるで別の生命体のように蠢いている。そして、その影の中から、かすかな泣き声が聞こえてくる。
「子供の大切な貯金を...」
「母の介護費用を...」
「一生の思い出の品を...」
影の中で囁かれる声に、誠は耳を塞ごうとした。しかし、その声は直接、彼の意識に響いてくる。
「おかげさまで、目標の2億円を達成できました」
彼は声を張り上げるように言った。まるで、その声で罪の意識を掻き消そうとするかのように。
明美は静かに頷いた。彼女の表情からは何も読み取れない。ただ、その唇が僅かに歪んだように見えた。その歪みは、次第に大きくなり、まるで地獄の入り口のような形に変化していく。しかし、それもまた誠の目には映らなかった。
「今年は倍の4億円を」
誠は続けた。自分の声が、異様に反響して聞こえる。まるで地獄の底から響いてくるような音色に変わっていく。
「特殊詐欺と強盗、全て成功しますように」
その言葉が境内に響いた瞬間、世界が歪み始めた。空が、まるでキャンバスが溶けるように歪んでいく。鳥居の朱色が、血のように滴り落ち始める。その一滴一滴が地面に落ちると、小さな悲鳴を上げる。
最初は、音が消えていった。風鈴の音、人々の話し声、足音。全てが、まるで真空に吸い込まれるように消えていく。残されたのは、被害者たちの苦しみの声だけ。その声は、誠の心の中で徐々に大きくなっていく。
次に、色が失われていった。鮮やかな初詣の装飾も、人々の服の色も、全てがモノクロームに変わっていく。それは、まるで誠が奪った人々の人生から、希望という色が失われていくかのようだった。
そして、人々が消え始めた。
まるでスライドの映像が一枚一枚消されていくように、参拝客たちが次々と透明になっていく。消える直前、彼らの姿は一瞬だけ、誠の被害者たちの姿に変わる。老婆、若い母親、サラリーマン、それぞれが絶望的な表情を浮かべている。
誠は叫んだ。しかし、自分の声すら聞こえない。去っていく人々の背中には、彼の存在など最初からなかったかのような無関心さが漂っていた。それは、彼が被害者たちに向けていた、まさに同じ無関心さだった。
振り返る者は誰一人としていない。その背中には、どこか既視感があった。そう、彼が騙してきた人々の、最後の背中とそっくりだった。絶望と諦めに満ちた、生気のない背中。
やがて境内には、誠と明美、そして不気味な静寂だけが残された。空は灰色に染まり、かすかに赤い光が差し込んでいる。その光は、まるで血管のように地面を這っていった。光の通った跡には、小さな悲鳴の痕跡が残される。
「なんだこれは...」
誠の足元で、地面が揺らめき始めた。最初は小さな振動だった。しかし、それは次第に大きくなり、まるで生きているかのように地面全体が脈打ち始めた。その鼓動は、彼が奪った人々の心臓の鼓動と同期しているかのようだ。
土が砂となって彼の足首に絡みつく。その感触は、人の指のように生々しい。砂の一粒一粒が、彼が騙した時に使った言葉でできていた。「大丈夫です」「必ず儲かります」「信じてください」――その全ての嘘が、今、彼を地獄へと引きずり込もうとしている。
逃げようとしても、両足は既に砂の中に埋まっていた。砂の中では、無数の声が響いている。詐欺や強盗の被害者たちの悲鳴、涙声、怒りの叫び。全ての感情が、まるで業火のように彼を焼き尽くそうとする。
「助けて!」
彼は叫んだが、明美は静かに本を開いたまま、微動だにしない。彼女の手には、『蜘蛛の糸』が握られていた。その表紙が、かすかに脈打っているように見えた。本の中からは、血のような赤い糸が滴り落ちている。
砂の渦の中から、最初の手が現れた。それは老婆の手だった。しわだらけの手は、彼が最初に騙した被害者のものだ。その手首には、誠が騙し取った金額を示す札束が、まるで枷のように巻き付いていた。札束は血に染まり、その血は、老婆が流した涙でできていた。
次々と現れる手。若い女性の手、中年男性の手、子供の小さな手。全て、誠が過去に騙してきた人々のものだった。その手には、彼が奪った金の重みが、まるで業火のように燃えている。手の平には、それぞれの人生が刻まれていた。破壊された夢、失われた希望、壊れた家族の絆。
「俺の金を返せ!」
「私の人生を返して!」
「親の遺産を騙し取った詐欺師!」
声は地底から響いてくる。それは単なる叫びではなかった。その声に触れた瞬間、被害者たちの記憶が誠の脳裏に流れ込んでくる。老婆が病床の夫のために必死に貯めた金。若い母親が子供の教育のために残しておいた資金。サラリーマンが一生を掛けて築いた退職金。
それらの記憶は、毒のように彼の意識を侵食していく。各々の記憶には、その人の人生が染み込んでいた。夢、希望、愛情。そして、それらが全て奪われた瞬間の絶望。その全てを、今、誠は追体験させられていた。
「待ってくれ!金なら返す!全部返すから!」
必死の叫びも、既に遅かった。砂地獄は、既に彼の腰まで達している。そして、その砂の一粒一粒が、彼が使った嘘の言葉で出来ていることに気付く。その言葉は、全て彼の声で再生される。永遠に続く懺悔のように。
砂地獄は、巨大な蜘蛛の巣のように彼を包み込んでいく。その糸は、彼が紡いできた欺瞞の数だけ存在した。一本一本が、それぞれの被害者への裏切りを表している。
その中で誠は、自分の人生を振り返っていた。全ては、最初の一つの嘘から始まった。小さな嘘、小さな誘惑。しかし、その一つの嘘を守るために、更なる嘘を重ねていった。それは雪だるまのように大きくなり、やがて彼の人生そのものを飲み込んでいった。
今、その全ての嘘が実体化し、彼を引きずり込もうとしている。砂の一粒一粒が、彼の罪の記録だった。その数があまりに多すぎて、もはや数えることすらできない。砂は彼の体を包み込みながら、その皮膚に罪の記録を刻んでいく。痛みとともに、被害者たちの苦しみが彼の体に刻まれていく。
最後に見たのは、本を閉じる明美の満足げな微笑みだった。その表情には、どこか慈悲深いものがある。まるで、この懲罰さえも、一つの救いのように。彼女の姿は、次第に無数の薔薇の花びらとなって、空間を埋め尽くしていく。
「これも、因果の摂理」
明美の声が、遠く、そして近く響く。その声は、まるで永遠の時を超えてきたかのような重みを持っていた。
「あなたの欲望は、次の糧となるでしょう」
誠が完全に消えた後、神社全体が不気味な輝きを放った。新たな力を得たかのように、空気が生命を帯びて蠢いている。その輝きの中には、無数の魂が渦を巻いているのが見える。全ては、明美の力の源となっていく。
明美は静かに『蜘蛛の糸』を閉じた。その表紙には、先ほどまでなかった新しい一編が加わっている。「現代の因果」と題された、誠の物語。表紙からは血のような赤い糸が滴り、それは床に落ちた瞬間に黒い薔薇となって咲き誇る。
「欲が欲を呼び、その果てに待つものは...」
彼女は本を棚に戻しながら、静かに呟いた。本の背表紙には無数の小さな顔が浮かび上がっては消えていく。全て、彼女が集めてきた魂たちだ。
「結局、全ては私の糧となるのね」
彼女の背後で、一輪の薔薇が咲き誇った。その花びらは漆黒で、中心には金色の糸が光っている。よく見ると、その糸は人々の欲望で編まれた蜘蛛の糸のようだ。花の中心からは、かすかに悲鳴が聞こえる。その声は誠のものだった。永遠に続く懺悔の声が、花の芯から響いている。
「今年も、素敵な薔薇色の一年になりそう」
明美は優雅に微笑んだ。その瞳の奥で、無数の魂が永遠の業火に焼かれ続けていた。その炎は、次々と新たな薔薇を咲かせていく。一輪、また一輪。それぞれの花には、彼女が収集してきた魂が封じ込められている。
彼女の周りには、新たな欲望に満ちた参拝客たちが集まり始めている。その目には強い欲望の炎が灯され、既に明美の薔薇の虜となっていた。彼らの影は既に黒く歪み、魂を失う運命を暗示していた。
神社の入り口には、新しい看板が立てられていた。
『ご利益あらたか 薔薇神社』
その文字は、まるで生きているかのように蠢いている。文字の隙間からは、時折、苦しむ魂の表情が覗く。
石段を上ってくる人々の中に、新たな「獲物」の姿があった。
高級外車から降り立った男が、携帯で指示を飛ばしている。「ああ、老人ホームの土地だ。安く買い叩いて、住人は追い出せ。俺の代わりに何人かを騙して回れ」。その男の影は既に黒く歪み、薔薇の形に変容し始めていた。周りには、彼が追い出そうとしている老人たちの悲しみが、目に見えない靄となって漂っている。
その後ろには、若い女性が続く。「株で必ず儲けて見返してやる。借金なんて簡単よ。どうせ騙された方が悪いんだから」。彼女の周りには、既に見えない蜘蛛の糸が張り巡らされ、未来の被害者たちの影が薄く揺らめいていた。
次々と上ってくる人々。強欲な不動産開発者、詐欺まがいの投資家、人の不幸を餌食にする者たち。その瞳の奥には強い欲望の炎が灯され、既に明美の薔薇の虜となっていた。彼らは皆、自分たちが新たな犠牲者となることも、その欲望が何人もの人生を狂わせることも知らない。
神社の影響力は、既に都内の各所に広がっていた。新聞の片隅には、不可解な失踪事件の記事が並ぶ。「老人ホーム閉鎖に踏み切った実業家が失踪」「投資詐欺グループのリーダー、忽然と姿を消す」。その全てが、この神社に通じているのだ。
記事の傍らには、新たな犯罪の予兆が並ぶ。「老人ホーム買収計画が進行」「新たな投資話が広がる」。終わりなき欲望の連鎖が、また新たな犠牲者を生み出そうとしていた。
明美は、そんな人々を見つめながら、静かに本を開き直した。次の物語を待つように。その指先には、既に新たな犠牲者の運命が見えているかのようだ。
薔薇の花びらが、また一枚、漆黒に染まっていく。その中に、新たな魂が吸い込まれていくのを、誰も気付かない。花びらの上には、細かな文字で無数の罪が刻まれている。それは、この神社が集めてきた全ての魂の記録だった。
ただ、境内に漂う薔薇の香りだけが、甘く、そして不気味に、人々の魂を誘い続けていた。その香りは、欲望に満ちた魂を確実に見分け、そして誘い込んでいく。
明美の瞳に映る世界は、全てが薔薇色に染まっていた。それは血の色なのか、欲望の色なのか、それとも地獄の色なのか。答えを知るものは、もう誰もいない。
ただ、神社の闇の中で、無数の薔薇が永遠に咲き続けるのだった。
喰う女~明美の薔薇色の夢~ ソコニ @mi33x
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