エピローグ 唯だひとすじの矢のように

『第一レーン、一番ヶ瀬唯矢くん、朝河東高校』

 五月三十日——IH男子陸上400m県予選、当日。決勝戦のトラックで、俺の名前を呼ぶアナウンスに、大きく手を挙げて一礼する。

「唯矢先輩! ファイトです!」

「イッチー! ブチかませーっ!」

 うちの陸上部員に混じって、観客席から声援を送ってくる梓沙と渡会。自分の部活を休んでまで応援に駆けつけてくれた、馬鹿馬鹿しい俺の自縄自縛を解いてくれたふたりに報いられるだけの走りを、果たして俺は見せられるだろうか。

「ああ……楽しみだ」

 小さく呟いて、その言葉に嘘がないことを確かめる。そうだ。俺は、走るのが楽しい。競うのが、勝つのが楽しい。痛みさえ、苦しみさえ、俺にとっては掛け値なしの歓びだ。

 これまで、スタートラインに立ってなお、この胸の高鳴りなど知らないふりをしていた。平常心を装っていた。今にして思えば、それは弓道における美徳だ。水鏡めいて静かに凪いだ精神を、あの世界では善と定義する。弓を置いてなお、俺は〝善なるもの〟に固執していた。あの人の教えを、いまだに守ろうとしていたのだ。……土台、無理な話だったのに。

 北村梓沙と、初めて出会った日を思い出す。的を見据える彼女の、怜悧で透徹した眼光——それを善美と呼ぶとして、俺の瞳には一生宿らないだろう。走りに付随する熱のすべてが、この青い心を躍らせてしまうから。

 だが、それでいい。たとえ善美に背いたとしても、終わりが約束されているとしても——俺の走る姿が好きだと、一番ケ瀬静位に並びうると、彼女は言ってくれた——それだけは、未来永劫揺るがない真実だ。ならば俺は今この瞬間、あの日の憧れと同じ位地に立っている——不遜にも、そう言い張ってやる。寝ぼけたどっかのジジイも飛び起きる程の走りを、あまねく天下に見せつけてやる。

『オンユアマーク』

 スターティングブロックに足を掛けると、凛と張った弓弦に似た心地良い緊張が行き渡る。

初夏の風が、汗ばんだ肌からさわやかに熱をさらっていった。

逸る衝動をうちに秘め、静かに撃発の時を待つこの身体は……ああ、確かに、さながら。

『セット』

……本当に、君にはかなわないな、梓沙。

あの美しく高潔な瞳を想い、番えた体を引き絞る。


——かぁん。


 くぐもった号砲に、彼女の澄み渡る弦音を重ねて。

 唯だひとすじの矢のように、俺は自分のレーンを往く。

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