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「それでも、毎朝五時に目が覚めるんだ。走らなきゃ、俺が俺じゃないみたいで。強豪校からの推薦も全部蹴って、必死で勉強してうちの高校に受かったのに、結局陸上部になんか入って、毎日くたくたになるまで走って……馬鹿みたいだよな、笑える」
すべてを明かした彼は項垂れて、まるで年端も行かない子どものように頼りなく見えた。皮肉げに歪んだ唇と言葉とは裏腹に、虚ろな瞳は今にも泣き出してしまいそうに脆い。
「わからないよ。本当に、もう痛くないのに。じいちゃんはあの頃のまま幸せに生きていて、あの人のいない家は安らかで、だからもう走る理由なんてないはずなのに、どうして、俺は」
「……それ、は……」
言いかけた台詞は、喉の奥で霧散する。私がこの人と過ごした時間は、交わした言葉は、あまりにも少ない。その程度の人間が、数えきれない程重ねただろうその苦悩をほどこうなんて——
「そんなの、わかりきってんだろ」
迷う私を置いて、なんの気負いもない調子で、渡会先輩が言い放つ。
「好きなんだよ、お前は。走ることが」
……ああ。私が、言いたかったのに。
ずるい、だなんてお門違いな思いが、泡のように浮かんで、弾ける。
なんの躊躇いもなく、至極当然のように、相手の内心を言葉に起こせる——もしかしたら、私が手に入れられるかもしれなかった、無二のつながり。
「言っとくけどな。中学の頃からそうだったよ、お前は。本当に、キツそうに、苦しそうに……楽しそうに、走ってんの。俺には到底理解できねえけど、お前はそういうやつなんだよ。わかったかこのドM野郎」
「……そう、か」
「つか、実際自覚してたろそんなこと。わからないなんて意地張ってんなよ、陸上バカの癖に」
積み重ねた日々に裏打ちされたそのあけすけな言葉に、静かに唯矢先輩は耳を傾けている。私の介在しない場所で、その懊悩が溶かされていくのが、寂しかった。
この人は、唯矢先輩の友達なんだ——わかっていたことが、今はどうしようもなく、痛い。
「……そうだ。そう、なんだよ」
震える唇の隙間から、ひとさじの勇気を与えられたように、その走者は語りだす。
「確かに、俺は……走るのが、好きだ。風が、流れる景色が、遠い空が、全身の痛みが、苦しみが……世界との境界を、俺自身の輪郭を、鮮明にしてくれて……生きてるって、感じがする。
陸上も、好きだ。あの、独特の緊張感のなかで、鍛えてきた奴らと肩を並べて、限界を超えて競り合って……最後の最後に、みんな抜かしてやるのが、たまらなく気持ちいいんだ」
手探りで言葉を見つけながら、彼は自らの想いを語る。それは知らないふりをしていた恋心を明かすのにも似た、いたいけな告白——だけど、その顔に、さっと影が差す。
「……でも、やっぱり駄目だよ」
瞳の奥でどろどろと渦巻く、綴った想いのすべてを否定するような、どす黒い闇。
「結局、すべての始まりは俺が逃げたことだ。弓を捨てて、じいちゃんから目を背けて、その結果として今の俺がある。俺にとって、走ることは悲しみから逃げる手段に過ぎなかったんだ」
——だって俺は、あの時、逃げ出したんだから。
あの日の言葉が、リフレインする。
「……だから」
崩れそうな声で、壊れそうな瞳で。
「俺の走りに、価値なんて——」
「そんなことありませんっ!」
気がつけば、叫んでいた。自分如きがおこがましい、なんて遠慮を彼方に消し飛ばして。
「走ってる先輩はっ、速くてっ、力強くてっ、美しくてっ……まさに、ひとすじの矢のようで」
「っ……だから、俺は、そんなんじゃ」
「いえ、先輩のご意見は知りません」
「なっ……」我ながらあまりに無体な言い様に、彼は絶句してしまった。
「私が、そう感じたんです。あの人の射と同じように、あなたの走りに魅せられたんです」
あの神社での奉納演武を見て、私はすぐさまその射手、静じいに教えを乞うた。彼が指導しているという道場は家から遠く、仕事の都合もあった両親はなかなか首を縦に振ってくれなかったけれど、一週間以上口をきかなかった私に根負けして、ついにはバスで通わせてくれた。
「覚悟してください。私、こう見えて執念深いんですよ」
私に才能と呼べるものがあるとすれば、この執拗なまでの愚直さをおいてほかにない。何度突き放されても、何度否定されても、けして折れないこの一念をもってこの頑固者と向き合おう。
あなたのことは、悔しい程に知らないけれど。
私のことなら、余すところなくわかっている。
「何度だって言います——唯矢先輩、私はあなたの走りが好きです。走るあなたに、惹かれたんです」
「梓沙……」
——いつかは失われる美しさに縋って、いったいなんの意味があるんだ?
ずっと、その答えを考えていた。静じいの弓を継いだとしても、いつかは私もそれを手放す。老いて、枯れて、誰かに託して、ついには滅び去ってしまう。結局のところ、人の営みはその繰り返しだ。であれば、そこに意味などないのか——そんな虚しい結論は、断じて認めない。
「ただ美しいだけだとしても、いつかは失われるとしても……誰かが、それを愛している。その一点において、紛れもない意味が、価値が、確かに在るんです。静じいの射にも、あなたの走りにも……きっと、私の射にも」
傲慢にも、そう言い張ろう。私の放つ矢もまた、誰かの心を射貫いていると信じよう。たとえそうでなかったとしても、弓の道を往くこの身体を、ただひとりでも愛し抜く覚悟——それだけは、永遠を誓ったっていい。
「……イッチー、もう観念しようぜ。お前じ.ゃこの子を言い負かせねえよ」
渡会先輩の勧告にも、唯矢先輩は目を伏せたままだ。やれやれ世話が焼ける、といった風に、その友達は肩を竦める。
「だいたい、きっかけなんてそんな大事か? 俺が剣道始めたのは、この鬼ジジイに無理やり道場にぶち込まれたからだ。あのカオルンなんて、いじめてきた奴らをぶちのめすためにキック始めたんだってよ。始まりがそんなんでも、俺たちゃ毎日必死こいて練習して、今じゃ結構イイ線行ってんだ。それで十分だろ、唯矢」
「…………でもっ!」
声を震わせながら、彼は私たちに背を向けた。決壊してしまいそうななにかを、必死で堰き止めているようだった。
「俺は、じいちゃんの期待を裏切った……弓道を、やめた。弓から逃げて、道を外れたんだ……矢のようだなんて、とても言えない。唯矢、なんて名前……あの人はきっと、ずっとずっと、俺に弓引きを続けてほしいって、そう願っていたはずでっ」
「それは違うぞ、坊主」
穏やかに、しかしきっぱりと、仁一郎さんが断言した。サングラスを外した深みのあるまなざしが、揺らぐ背中をじっと見つめている。
「初孫が——お前さんが産まれようって時、やつがよく話しとったよ。別に、必ずしも弓道である必要はない、と」
遠くを見るような瞳で、そう述懐する。
「剣道、柔道、空手道……なにかと人格形成が謳われるが、ワシに言わせりゃあ、そんなもんはただのお題目よ。武道家が皆人格者であるわけがなし、むしろゴロツキ同然の輩も腐る程おる。当然、武道でなければ人格が育たないなんてこたぁもちろんない……ま、うちの京平は
恨みがましい目で見る孫かつ弟子をよそに、仁一郎さんは唯矢先輩の背中に優しく語りかける。
「弓の道でなくても
「っ……!」
広い背中が、ゆれる。
その名前が呪いではなく祝福だったと知って、彼は何を思っているのだろう。偉大な弓道家としての呪縛や押しつけなんかじゃない。孫がひとりの人間として、自分の人生を歩んでいけるようにという、あたたかな祈りを、真なる愛を……どう、噛みしめているのだろう。
「楽しくて、愛しくて、たまらんのだろう、走るのが。ならば、
そう言って、仁一郎さんは、静じいの友達は、にかっと笑った。
「さあ、立ち話にも飽いたろう。何処へなりとも、往くがいい」
「…………」
唯矢先輩は、少しの間天を仰いで。
やがて後ろ姿のままに、袖でぐいと目元を拭って。
「……ありがとう、ございます」
かすかに濡れた、そんな言葉を残して。
一歩、二歩、足を進める。三歩、小さく体が浮く。四歩、重心が投げ出される。五、六、七——力強く大地を踏み締めて、その長躯は加速する。瞬く間に、はるか遠くへ、日の昇る空へと駆けていく。
「あーあ、また始まったよ、あの陸上バカ。しかもこんなイイ子を置いてっちゃってさ。ほんとろくな
楽しそうに、嬉しそうに、渡会先輩はその遠い背中を見つめている。きっと私も、似たような顔をしているんだろう。
「ってことで北村ちゃん、一旦お試しで俺と」
「ありがとうございましたっ!」
色んな意味を込めてふたりに深々と一礼したあと、私は踵を返して彼を追う。走りださずにはいられない。有限なればこそ熱い時間が、凍りつくことを許してくれない。
フラれちゃった、とへらへら笑う声が聞こえた。その軽薄な冗談も、今はそう嫌いじゃない。こう見えてちゃんと芯のある人だとわかっているし、私と同じようにあの走りを愛している。
——唯矢先輩、私はあなたの走りが好きです。
同じように……本当に、そうなのかな——走りながら、ふとそんな違和感を覚える。
自分の言葉を思い出して、心に立ったさざ波のかたちを思い出して、私に合わせた小さな歩幅を、目尻を下げたやさしい笑顔を、梓沙って呼ぶ低い声を、思い出して、思い出して、思い出して——ああ、やっぱり全然違う。
きっと私なんかより、渡会先輩の方が、ずっと純粋にあの人の走りを見てる。
「……ほんと、〝善なるもの〟には、遠いなあ」
あまりにも不純で、世俗的で、はしたなくて……でも、どうしようもない。
だって私は、嘘が苦手だ。
——走るあなたに、惹かれたんです。
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