7

 それは、ずっとずっと胸の奥底にしまっていた記憶。



 じいちゃんが目を覚ましたという一報を、幼かった俺は喜ぶよりも先に疑ってしまった。白目を剥いて、痙攣して、訳の分からないことを口走るじいちゃんを、俺はもはや同じ人間とは思えなかったから。

 壊れた、と思った。小三の頃、部屋で遊び回ってテレビをぶっ壊して、じいちゃんから拳骨を落とされたことを思い出した。穴が空いて、液晶が割れて、目に優しくない模様のオブジェと化した精密機械が〝直った〟と言われても、到底信じられない。

 しかし、じいちゃんは実際ほとんど変わりなく戻ってきた。倒れた時にちょうど母が帰宅していたことが不幸中の幸いで、医者によればもう数分搬送が遅れていたら重篤な後遺症は避けられなかったらしい。退院したじいちゃんは、舌が回らないことも、記憶が曖昧になることも、上手く食事がとれないこともなかった。

 唯一満足に行かなくなったことといえば——静止、くらいだった。

 足踏み、胴造り、弓構え、打起し、引分け——一連の流れは以前となんら変わりなくても、肝心要の会で馬手(みぎて)が震えて、止まらない。静かな位を、あの絶対の静止を、保てない——些細でも、弓引きとしては致命的な後遺症。

 こうして、弓道家・一番ヶ瀬静位は死んだ。見かけは正常でも映らないテレビが壊れているように、弓を射られなくなったじいちゃんもまた、壊れていた。自分自身のメンテナンスを怠るようになっていった。弓道家の範として自身に課していた立ち居振る舞いを捨て、毎朝丁寧に整えていた髭は伸びるに任せるようになり、きっちりと撫でつけていた髪は散らかり、ろくに食事もとらずぼうっと垂れ流しのテレビを眺めているばかりになった。

 俺が弓道を辞めて、代わりに走りを始めたのはこの頃からだ。弓なんて見たくもないうえ、何もせずあの人と家にいるなんて、堪えられなかった。かといって、弓道以外のスポーツなんか知らない。意味もなく、目標もなく、ただ走るしかなかった。肺の苦しみ、手足の軋み、脇腹の痛み——目の前の現実すべてを忘れさせてくれるその苦痛を求めた。いつも順位が下の方で憂鬱だったマラソン大会では、全校で一桁台になっていた。

 部活が強制だった中学では陸上部に入った。弓道部なんてなかったし、あったとしても入るわけがない。当初、周りには小学校からクラブで走ってる奴らもいたけれど、どうでもよかった。俺が走るのは苦痛のためだ。現実の肉体を痛めつけて、より重大な、触れえない場所の痛みをごまかすためだ。周りの人間なんて、そもそも眼中になかった。

 走り込みやウエイトなど、誰もが避けたがるキツい練習を、体の耐え得る限界まで求めた。トレーニングの高負荷を受け止められるように、食事や睡眠など、練習以外の生活習慣にも徹底して気を配った——部内で俺より速い奴がいなくなったのは、必然といっていいかもしれない。専門に選んだ一番キツい種目とされる400mでは、中三の時に関東大会まで進んだ。

 そんな成果も結局は、なんの意味もなさない——はず、だったのに。

 俺は、その結果を何故か喜んでしまった。じいちゃんに伝えたいと思ってしまった。俺が中二の頃から県外の介護施設に預けられたじいちゃんとは、もう一年も会っていなかった。それでも、弓道を辞めた先で頑張っていることを認めてほしいだなんて、そうすれば少しはじいちゃんも張り合いを持ってくれるんじゃないかなんて、虫のいいことを考えてしまった。

 久々に見たじいちゃんは、意外にも身綺麗な格好をしていて、外見上は倒れる前となんら変わらないように見えた。昔のようにしゃんと伸びた広い背中に、俺は緊張しながら声をかけて——




「ん、どこの子かな、君は。ああ、私の孫を知らないか。このくらいの背丈の男の子だ。今日は弓を教える約束をしていてね——」




 精神性の前向性健忘、という診断だった。

 施設に入ってから、じいちゃんは弓を引けなくなって以降の記憶を一切失って、毎日自分の孫と弓矢を探していた。

 ——ところで、私の弓と矢はどこかね。

 ——修理に出してます。明日になったら届きますよ。

 ——そうか、よろしく頼むよ。あれがないと教えるものも教えられない。

 そんなやりとりを毎日行なって、翌日にはそのすべてを忘れている。お陰でじいちゃんは、もう弓を引けない自分に気づかないでいられるらしい。関東大会入賞の賞状をぐしゃぐしゃに握りしめたまま、俺はそんな説明を聞いていた。

 じいちゃんは一番大事なものを失って、代わりに永遠の静止を手に入れた。あの人の心は、弓引きのまま死ぬことを選んだ——有限の世界に、俺を置き去って。

 だから、俺もじいちゃんをいないことにした。忘れたことにした。。そうすることで苦痛は薄れて、俺は走る理由を失った。


 ……失った、はずなのに。


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