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 ほのかな白檀の香りに目が覚める。スマホの画面で確認した時刻は午前五時と少し。家主の祖母よりも早い時間に目が覚めてしまった。

 金曜日は、両親とも仕事の都合で夜が遅い。そして私の父方の祖母の家は、偶然にも高校近くにあった。どうせ土曜日は部活だからということで、入学してから毎週末は祖母の家でご飯を食べて、そのまま泊めてもらうことになっている。

部活が始まるのは午前九時からだ。もうひと眠りしよう——そう、微睡みへと戻りかけて。

 ——朝は、毎日五時起きで走ってるかな。

 数日前のバス停で、唯矢先輩がそんなことを言っていたのを思い出した。

 ……これまで、私がこの生温い安寧のなかで過ごしてきたわずかな時間で、あの人はいったいどれ程のものを積み上げてきたんだろうか。

「……うぅんっ」

 もぞもぞと十秒程悶えたあと、決然として布団を勢いよく跳ね上げた。我ながら素晴らしい自制心と向上心だ。ひと通りの身支度を済ませた後、この家に置きっぱなしの古いスニーカーをつっかけて外に出る。

「……綺麗」

 日の出前、蒼く、淡くも澄みわたる薄明の空に、思わず嘆息が漏れた。あの人は、毎日この景色を——四季折々にうつろう遥か遠景のすべてを、見てきたんだろう。

 胸の底から湧き上がるものが、抑えられない。屈伸、伸脚もそこそこに、私は地面を蹴りだした。一歩ごとに、体は加速して、覚醒していく。今の私に心地良い速度を見つけたら、慣性に任せてキープする。脱力した上半身を乗せてひとりでに回転する脚が、自分のものではないようだった。

 薄闇のなか、いまだ寝ぼけた街は静かで、家々も、自販機も、街路樹も、電信柱も、すべて所有している気さえした。流れ過ぎ去ってゆく何もかもが、今は私の速度を証明するためにある。

「すっ、はっ、すっ、はっ——ははっ!」

 住宅街を抜け、川沿いの堤防へと駆け上がり、一本道を走る、走る、走る。あの人は、この感覚をいつも味わっているんだろうか。なるほど、これは楽しく、心地よく、好ましい。

「はははっ!あはははっ! は——」

 ——風が、強く吹いた。十分なスピードに乗っているこの体を、それでもなお強く推す風。

 それが風圧であることに、数瞬遅れて気づく。軽やかで、でも確かに存在する質量が、走る私さえも流体の風景にして、駆け抜けていった後の残滓だと知る。

 白みはじめた空を背に、長く、しなやかで、かつ力強い四肢を持つその人影が振り返る。

「……梓沙?」

 すっかり板についた呼び捨て。唯矢先輩が、そこに立っていた。

「あ……おはよう、ございます」

 前髪、乱れてないかな。まだ、大して汗をかく程走ってはないよね——どうしてか、そんなことばっかりが頭のなかを埋め尽くしている。

「驚いたよ。いつもこの辺走ってるのか? あ、でも、家はもっと遠くだよな?」

「家の事情で、週末だけ学校近くの祖母の家に泊まってて……走ったのは今日が初めてです。ほんの、思いつきで」

「へえ、それにしてはいいフォームしてるよ」

「そ、そんなこと……」

 照れくさいやら畏れ多いやらで、まともに先輩の顔を見られないでいると、背後からちりんちりんと鈴の音が聞こえた。振り返ると、首に鈴をつけた犬に引かれるサングラスの老人……の後ろに、見知った顔があった。

「……渡会先輩?」

「はぁ、はぁ、ふぅ……よう、おふたりさん。仲良く朝トレか?」

 それなりの距離を走ってきたのか、だいぶ息の上がった様子の彼は、私たちの姿を認めて、例によってへらっと笑った。一方の唯矢先輩は、私よりもさらに困惑した様子だった。

「渡会、なんでお前がここに……それに、その人は」

「ああ……IH予選が近いからって、朝っぱらから叩き起こされたんだよ。で、三十分くらい走らされてるとこ。まったく、少しは年寄りらしく体を労われっての、このジジイはよ」

「お前こそ、若ぇもんがこの程度で音を上げて情けない。ちったあ坊主を見習えってんだ、毎朝見とるがこんなたらたらしたもんじゃねえぞ」

「無茶言うなよ……こいつ陸上でIH行けるレベルなんだぜ? なあ、イッチー?」

「……つくづく狭いもんだな、世間って」

 空を仰いで瞑目する唯矢先輩。何か深い納得に至ったらしい。私は遠慮がちに手を挙げた。

「あの……すみません、まったく話が見えないんですが」


 唯矢先輩が毎朝すれ違っていたというサングラスの老人——渡会仁一郎さんは、実は渡会先輩の祖父かつ剣道の師範で、さらに静じいとも昔から親交が深かった、とのことだった。

「うちのバカ孫がいつも世話になっとるようで、すまんねぇ」

 バカとはなんだバカとは、と抗議する孫をよそに、老人はにっと笑った。綺麗に揃った歯は、どうやらすべて自前らしい。

 にしても、と渡会先輩が言う。

「考えてみればすげえよな、この状況。陸上のイッチー、弓道の北村ちゃん、そして剣道の俺……うちの高校の体育会系エースが三人も。ここにカオルンが加わりゃ、もう完全に揃い踏みだ」

「はん、この自惚れが。総体くらい出てから言わんか、去年はつまらん負け方しよってから」

「ああん? 今年は絶対出るから老眼かっぴらいとけよジジイ」

「お前の馬鹿正直な技を見切るにゃ、この老いぼれの目で十分よ」

 祖父と孫の掛け合いを、どこか眩しそうに見つめる唯矢先輩。胸が締め付けられるようで、堪えきれなかった私は半ば無理やり口を開く。

「……せ、先輩方に名前を連ねるなんて、畏れ多いです」

「そんなことはない。むしろ実績でいえば、君が一番じゃないかな、梓沙」

 そんな言葉に、恐縮した私を——サングラス越しの老いた瞳が、ひたりと捉えていた。

「今……〝あずさ〟と言ったか、坊主」

「……え?」

 それは私と唯矢先輩、どちらの声だったのか。

「弓道……〝あずさ〟……うむ、年の頃も……」

「えっと……なんの話、ですか?」

 口元に手を当ててぶつぶつと何やら呟いている老人に、恐る恐る声をかける。

「いや、人違いかもしれんがね」

 仁一郎さんが、迷いながらも口を開く。

 



「あいつが……、ずっと孫と……〝あずさ〟って教え子の話をしていてな。、見舞いに行った時も……お嬢ちゃん、何か心当たりはないかね?」




 ——瞬間、世界が静止する。

「………………………………………」

 その言葉を、ひとつひとつ分解して、確実に吟味して、間違いのないように解釈して。

 覆しようのない結論をつけた私は、無言のまま、彼を見据えた。

「……ごめんな、梓沙。騙すようなことをして。だけど……君には、あの人の今を知ってほしくはなかった」

 彼は——唯矢先輩は、初めて会った時のような暗く澱んだ瞳をしている。


「じいちゃんは、今も生きている。でも、あの人は、もう——」

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