5

 


「お疲れ様でした、先輩」

 午後七時半、彼は校門に姿を現した。私の姿を認めると、束の間作る表情に迷って、結局口の端をぎこちなく上げた。

「……俺の走りなんか見て、何か良いことあったかな」

「はい、とても」

「そ、そうか。……北村さん、どうやって学校に来てる?」

「今日は、バスで」

「なら……その、バス停まで一緒に歩こうか」

「……はい」

 そのまま、エナメルバッグを担いだ広い背中に導かれて帰り路を歩く。彼の通った後からは、制汗剤のシトラスの匂いがした。陽が落ちて間もない西空のあわいに、かすかな星が瞬いている。黙々と歩くふたりの足音だけが、しばらく響いた。

「……すまなかった。この前は」

 先に沈黙を破ったのは、彼の方だった。立ち止まって振り返り、頭を下げられる。

「眩しかったんだ。じいちゃんの生き写しみたいな、君の射が。弓道を捨てた俺の弱さを、暴かれたみたいで……だから、腹いせに酷いことを言った。本当に、ごめん」

「……顔、上げてください。私の方こそ、知らなかったとはいえ、無神経に過ぎました」

 あなたは何故、弓を置いてしまったんですか——あまりに酷で、無知で、愚かな質問だった。年端も行かない子どもにとって、愛する祖父と師を一度に喪ったことは、道を閉ざすに十分すぎる理由だっただろうに。

「本当に、申し訳ありません」深々と頭を下げた。

「驕っていたんです。あの人の弓を継いだのは、この私だって。道半ばで弓を置いたその孫に、私の射を見せつけてやろう、なんて……本当に未熟で、浅はかでした」

 小さく、下唇を噛む。

「〝善〟の境地には、程遠い」

 そんな私の呟きに、彼は奥まった目をぱちりと瞬いた。

「〝善なるものも美しい〟、か?」

「……ご存知なんですね」

「そりゃ、まあ」

「〝上の句〟は?」

「〝真なるものは美しく〟だろ。俺を誰の孫だと思ってる?」

 そんなやりとりの後、顔を見合わせて——可笑しくなって、「ぷっ」互いに吹き出してしまう。

「あははっ! やっぱり言われましたよね、耳にたこが出来るかと思うくらい」

「あと〝センシャバンセンコトゴトクミナアラタ〟もだよな」

「ああ、それ! あんまり繰り返すから、意味はわからなくても呪文みたいに覚えちゃいました」

 千射万箭悉皆新せんしゃばんせんことごとくみなあらた——何射目であれ、常に第一矢と同じ心置きで臨め、という格言だ。

「今にして思えば、一桁の子どもにわかるわけないだろって感じだよな、ははっ」

「ふふっ、ほんとに!」

 在りし日の師の思い出話に花が咲く。今だけは、同じ弓引きの弟子同士に戻っている気がして——ここに静じいがいたら。なんて、けして叶わない幻想を描いてしまう。

 ひとしきり盛り上がった後で、ぽつりと呟く。

「……本当は、ずっとこうなりたかったんです。弓道を続けていれば、静じいが言ってたお孫さんに—— 〝唯矢くん〟にいつか会えるんじゃないかって、仲良くなれるんじゃないかって、楽しみにしてました。うちの高校、弓道強いから。静じいの孫なら、静じいの弟子なら、きっと来てくれるはずだって」

 なんとなく勝手に同い年だと思っていたし……勝手に、弓道を続けていると思っていた。

「だから、その。初対面はあんなだったけど、今からでも……唯矢、先輩」

 緊張しながらも、勇気を出して下の名前で呼んだ。一番ヶ瀬なんて長ったらしい苗字のお陰で、そう不自然でもない、はずだ。

 一拍、胸に手を当てて。

「梓沙って、呼んでくれますか。そして、お友達になってくれませんか。……き、きっと、静じいも、喜ぶから」

 とってつけたような一言が決め手となったようで、彼は——唯矢先輩は、照れた様子で日に焼けた首筋を掻いた。

「……ああ、わかったよ、梓沙」

 よく通る低い声の、そんな響きがむず痒くて、思わずきゅっと肩をすくめる。だけど決して不快じゃない、心地よいくすぐったさだった。

ゆっくりと歩いていたせいか、バス停が見えた頃には、ちょうど乗ろうとしていたバスが遠ざかっていくところだった——残念そうな顔、ちゃんとできているかな。

次のバスを待つ間、二人きりのベンチで、色んな話をした。静じいのこと、学校のこと、弓道のこと、陸上のこと——私と唯矢先輩の、これまでのこと。あり得たかもしれない五年間を、取り戻すように。私も先輩も、たくさん笑った。目尻を下げた笑顔には、確かに静じいの面影があって——私は笑いながら、滲んだ涙を可笑しさのせいにした。

 憎たらしくも、バスは定刻通りにやってくる。三十分なんてあっという間だった。名残惜しさを振り切って、私はベンチから立ち上がる。

「夜遅くまで、ありがとうございました。私、今日、先輩の走る姿を見に来て本当によかった」

「今日はちょうど、試合前最後の全力走の日だったんだ。不甲斐ない走りを、見せていないといいんだけど」

「とんでもないです。特に、最後の直線なんか」

 持てる力をすべて振り絞ったあの疾走は、まさに——

「まさに、ひとすじの矢のようで」

 それは、掛け値なしの賞賛。私からこの人に捧げられる、最大限の敬意。

「……そう、か」

 にもかかわらず、彼のはにかみは粗布で拭い去ったように失われてしまった。陰影の深い顔に、さらなる翳りが差しているようにすら見える。

「……先輩?」

「いや、嬉しいよ、そう言ってもらえて。……でも、駄目なんだ。俺は、そんな風にはなれない。絶対に」

「……それ、って」

 自嘲に満ちたその言葉の真意を問いただそうにも、既にバスの昇降口は開いてしまっている。

 後ろ髪を引かれる思いで乗り込んで、私は彼を振り返った。

「だって俺は、あの時」

 ドアのガラス越しに、色の薄い唇が動く。その端は、自己嫌悪に歪んでいる。

 声は聞こえなくても、何を言っているかわかってしまった。

 ——〝逃げ出したんだから〟。



 その日から、私たちはよく話すようになった。昼休み、放課後、LINEの画面上でも。

 毎日の帰り道、バス停までの数百m——先輩がこれまで走ってきた距離と比べれば話にならない程短い道のりを、くだらない話をしながらゆったり歩いた。緩慢に、冗長に、だけど大切に。

 唯矢先輩は、その走りや周囲の評判のような機械的な人ではなかった。納豆が大の苦手で、でも体づくりのために泣く泣く週一で食生活に取り入れていること。マイナーなガールズバンドが好きで、でも声域が合わなくて歌えないから、ライブに行ってみたいけれど尻込みしていること。渡会先輩から度々合コンに誘われて辟易していて、でもなんだかんだで大切な友達なんだろうということ——ひとつ知るたびに、小さな優越感が胸を暖めた。けれどすぐに、うそ寒い風がその温度を奪ってしまう。

 ——私は、この人の一番大事な部分に触れられない。

 あの日、別れ際に彼が漏らした言葉。その所以を、私は問い質せずにいた。あの時の、黒々とした虚ろな瞳が怖かった。たわいない話をして、この人の輪郭を少し触った気になって、でもその芯には掠りもしないでいる。……掠めることさえ、恐れている。

 がらがらのバスの中でヘッドホンを着けて、先輩が好きなバンドの、特に歌詞が良いんだという曲を再生した。サビに入って、誰にも聞こえないように口ずさむ。

「——〝永遠なんていらないなんて 飛べもしないカラダで言い張って それでも僕ら呼吸を止められないの〟」

 私の喉なら、原曲キーをそのままなぞることができる。澄んだ綺麗な歌声だと、先輩は褒めてくれたけれど——あの人がこの詞に惹かれた理由を、託した祈りを、私はいまだ知り得ない。だからこのカバーは、ただの無意味ながらんどうだ。

 上手くなくてもいい。先輩が歌うのを、聴きたかった。

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