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「あの陸上サイボーグの見学ね……まあ、ほかでもない一年エースのアズだからね。いいよ、リフレッシュしてきな」
走る姿見れば、色々わかるよ——渡会先輩の言葉に従うことにした私に、あかり先輩は苦笑いしつつも翌日の休みの許可を出してくれた。
グラウンドの際、防球ネットを支える太い灰色の柱の陰に隠れて、グラウンドの様子を窺う。
「……あっ」
すぐに、彼は見つかった。短く刈り上げた髪。岩を彫ったような陰影のはっきりした顔立ち。青い練習着の、遠目に見てもよく鍛えられていることがわかる長身。
ステップワークの練習でのびのびと躍動する様は、この姿こそが本来の自分だと主張するかのようだった。
——弓道着では、あんな動きはできないだろうな。
そんな、意味のないことを考えた。本当に、なんの意味もないことを。
程なくして、400mトラックのスタートラインに立つ。ブザーが鳴って、彼は駆け出した。一歩、二歩、三歩——みるみるうちに加速して、瞬く間に私なんかでは到底追いつけないスピードに到達する。洗練されたフォームの、羽が生えたように軽い走りに、思わず息を呑む。
22秒98、と計測係の声。あっという間に半周して、歩いてこっち側まで戻ってくる。
「あ」
目が、合った。知らず知らずのうちに、柱から身を乗り出してしまっていたらしい。彼はばつが悪そうに目を逸らしてスタートラインに戻った。
再びのブザー。最初の200mの疲労をものともしない様子で、快調に飛ばしていく。ゴール——23秒27。
「やっべえ……」「バケモンだわ、これ400で48秒台余裕だろ」「南関東決勝は固いな」「IH行くんじゃねこれ」口々に驚愕と賞賛の声が上がるあたり、同じ陸上部からしてもあの人は別格らしい。
同じく2セット目、3セット目が終わり、先輩もだいぶ息が上がっていた。疲労物質が全身に回っているのが遠目にも見てとれる歩調だ。セット間の10分のレストは傍から見れば長いけれど、きっとここまで走った当人にとって、その時間はあまりにも短く感じたに違いない。
ブザーが鳴る。彼が飛び出す。その加速は、最初に比べて幾分緩い。唇が引き結ばれる。眉根が歪む。超人なんかじゃない、当たり前に苦しみ悶える生身の人間の姿がそこにあった。
……でも、何故だろう。今の彼の走りにこそ、むしろ強く惹かれるような。
疲労のなか、それでもそのフォームは崩れない。違うとわかっているのに、サイボーグなんて比喩が、ふと脳裏をよぎる。
そのままトラックを半周して——止まらない。400m、通しで走るつもりだ。
〝男子陸上400m南関東大会出場 一番ヶ瀬唯矢〟そんな看板の文字を思い出す。
——ここが、あの人の走る場所。ここが、あの人の生きる場所。命を燃やして、すべてを捧げて、焦がれるように駆ける舞台。
最後のコーナーを回って、直線コースに入る。既に限界を超えた肉体を、それでも前へと押し上げる推進力。とはいえ終盤も終盤、単純なスピードでいえば確実に前半の方が速かったはずだ……それでも。
苦しみを真っ向から受け止めながら走るその姿は確かに、私の心を震わせる。静かなれど熱くたちのぼるその感情を、私は既に知っている。
……いつか、両親に連れられて訪れた新緑の神社。そこで奉納神事の一環として弓を引いていたのが、ほかならぬ一番ヶ瀬静位範士だった。
——すべての感情を削ぎ落とし、あらゆる雑念を振り払った一射。
己と的とを結ぶ空想の線を、具象化する為の機構と化す一身。
静謐を極めた緊張をやぶる、澄み切った弦音と飛翔する一矢。
私の短い半生で最も美しく、きっとこの先も色褪せない一瞬——
ひるがえって、今の彼はどうか。苦悶に歪む表情。きっとその心境は、明鏡止水の善美には程遠い。それでも、そこには意志がある。想像だにしたくない苦しみのなか、それでも正しい走りを、最速でのゴールを捨てない強靭な意志が、瞳の奥で燃え盛っている。弓道にはありえない苛烈な肉体的負荷があってなお、灼熱のなかに〝真なるもの〟を追い求めて地を駆ける体の美しさは、けして宙を翔ける矢に劣りはしない。
選んだ道は違っても、あの人は紛れもなくかの名手と同じ領域にいる。
「かっはぁっ、はぁっ、はぁっ、はっ……」
ゴールラインを突っ切って、彼は思い出したように大きく肩で息をする。本当に命を使い切ってしまったかのような全力疾走と、驚くべき計測タイムに、周囲の部員からは歓声が上がる。
「……熱い」
射貫かれたように立ち尽くしているだけなのに、胸の鼓動がやけにうわずって、戻らない。
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