3
——君の射はとても綺麗だよ。美しく、完成されている——だが、それだけだ。
錆びたようにざらついた声が、頭のなかを反響し続けている。
——じいちゃんの射を完璧に模倣して、その先に何がある? いつかは失われる美しさに縋って、いったいなんの意味があるんだ?
朝の鏡台に映る自分は、酷い顔をしていた。赤く染まった目元、鼻先。腫れぼったい瞼が開かなくて、熱い濡れタオルで何度も温めた。そうやって、どうにかいつもの自分を装おうとした。
「アズ、今日どうしたの?」
もちろん、虫の良すぎる考えだった。外見だけ繕っても何の意味もない。中学から一緒で、面倒見のいいあかり先輩は、朝練での私の不甲斐ない射から簡単に私の異変を看破してしまった。
「あっ、この前、五組の一番ヶ瀬とふたりきりで会うって言ってたよね……もしかして、あいつに何かされたの?」
「いや、その……」
どう説明すべきか言い淀んでいると、それを図星と取ったあかり先輩は練習が終わりざま彼の教室へと向かっていった。失礼ながらスペインの闘牛めいて怒り狂う彼女を、どうにか宥めて教室を去る。……背中にかけられた言葉には、応えられなかった。
「それ、絶対あいつが悪いって! デリカシーなさすぎ!」
女子トイレで苦心しながらも事情の説明をすると、またしてもあかり先輩は怒りだした。再度教室に突撃しないか、ちょっと焦る。
「だいたいなによ『綺麗なだけ』って! こちとらその『綺麗なだけ』の射を目指してどんだけ四苦八苦してることか……アズがやってることの凄さが、あの陸上バカにはわかってないっ!」
「……あの人は、陸上にストイックなんですね」
「ストイックってか、もはやドMよドM。なんでうちみたいな一応進学校なんかに入ってきたのか疑問なくらい……そのくせ成績はそれなりに上の方なのもムカつく。ま、そんな奴なだけに、アズに変なことしたりはしないだろうとは思ってたけどね」
……その割には二階の窓から寄り切る勢いで詰め寄ってましたよね、とは言わないでおく。
「この学校じゃ、うち以外の運動部は大抵弱いけど、あたしらの代には個人で結果残してる変わり種が三人も揃ってるの」あかり先輩は、丸っこい指を三本立てた。
「陸上の一番ヶ瀬、剣道の渡会、あとキックボクシング?のカオルくん。渡会はさっき教室にいた茶髪で、いつも一番ヶ瀬とつるんでて、カオルくんとも意外と仲良いみたい。でも見た目通りチャラいから、くれぐれも近寄らないよーに。アズはこんな可愛いんだから、あっという間に毒牙にかかっちゃうよ?」
「あ、あはは……」
可愛い——あかり先輩はいつも、私のことをそう褒めてくれる。小中の友達も、こぞってその賛辞を口にした。嬉しい、と思う。傲慢かもしれないけれど、高一にもなると、自分自身に対してもある程度客観的なものさしをあてられるようになる。いずれもお断りしたけれど、中学時代には数人の男子から告白されたこともあった。
——いつかは失われる美しさに縋って、いったいなんの意味があるんだ?
ふと、あの人の言葉を思い出していた。意味は、特にないけれど。
「——で、カオルくんは色白美形でカッコよくてね? 女子の間じゃ密かにファンクラブも……ってアズ? ちゃんと聞いてる?」
聞いてなかった。
ガタガタだった射は、翌日の午後練の時点でだいぶ持ち直していた。六十本射って五十本的中、といったところか。
「すごいじゃんアズ! 流石我が部のスーパールーキー、やっぱあいつの言うことなんて気にしなくて正解だね!」
私の復調を自分ごとのように喜んでくれるあかり先輩の存在をありがたく思いつつ、あの日の言葉はまだ脳内を巡っていた。
中るのはただの当然、前提だ。私はいやしくもかの一番ヶ瀬静位の射を継承しているのだから。中らないとすれば、それはただただ私個人の技量が拙いということを意味する。万全とは言い難いメンタルでも一定の的中率を保っていられるのは、その技術が多少とも体に染みついているからだ。
……では、その体が万全でなくなったら?
全身に意識を向けてみる。可もなく不可もなく、特段の不調はない——きっとそれ自体が、若者の特権なのだろう。今はまだ想像も及ばない数十年後、五体のどこかしらの機能不全がデフォルトになってしまった私は、それでも同じように弓が引けるのだろうか。
……静じいでさえ、老いには勝てなかったというのに。
最も間近で、かの名手の終わりを目の当たりにしたあの人は、どんな答えを出したんだろうか。どんな結論に辿り着いた結果、弓を置いて、シューズを履いたんだろうか。
やっぱり、ちゃんと知りたい。知りたいし、話さなければならない。胸当ての向こうの心臓が、確かに脈打っているうちに。
「イッチーがどんな奴か、ねえ」
翌週、月曜日の昼休み。中庭で待つ私の前に現れたのは、件の渡会先輩だった。その手には、コロッケパンとスプライト。
「他ならぬ北村ちゃんのお呼び出しだから張り切って来たのに、他の男の話されたらちょっと凹んじゃうなー」
まさしく〝軽薄〟の手本のような振る舞いに、いっそ拍手でも贈りたい。念のため、場所を人目の多い中庭に指定しておいたことに、早くも安堵を感じ始めていた。
「てかさ、本人と直接会って話せばいいじゃんね。今からでも呼び出したげよっか?」
「……今はまだ、心の準備が」
「そか。つかいちいち後輩経由で連絡すんのもダルいしさ、これ俺のLINEね。あとインスタやってる?」
「やってます。けど、どちらも遠慮しておきます」
やってないなんて見え透いた嘘は好かないので、はっきりと断る。……まさについさっき、その剣道部の後輩の女の子から「キョウ先輩、どうせアズちゃんの連絡先とか聞いてくるだろうけど、絶対教えちゃダメだよ?」と忠告を受けたところだ。
「うはっ、ガード固ぇ〜」とへらっと笑う顔もまた軽薄で、あの人はなんでこんな人と——とつい思ってしまう。すると、その茶色がかった瞳の奥で、きろりと光るものがあった。
「あ、今……先輩はなんでこんなチャラついた奴と仲良いんだろ、とか思ってんな?」
「っ……なんで、わかったんですか」
思考の内容を寸分違わず言い当てられ、思わず硬直してしまう。正直、この人を侮っていた。
「へへっ、さて何故でしょう。……あと、ちょっとは否定してくれてもいいんじゃない?」
「すみません……私、嘘や方便が苦手なんです」
「そ、そう……まあ無理ないよ、俺とあいつ相当タイプ違うし。俺は見ての通りこんなタチだから、人付き合いもそれなりに広い方だけどさ。本当に深く付き合う相手は、結構選んでんだ」
「その、基準は」
「ガチな奴、だよ」
もちろん北村ちゃんもね、というウインクを受け流しつつ、〝ガチ〟を〝真摯〟や〝真剣〟に置き換えた。
「口で説明するより、走る姿見れば、色々わかるよ。……あいつが、ただ弓道を捨てたわけじゃないってことも」
「……あの人から、聞いたんですか」
その口ぶりは、私と彼のいきさつを知らなければ有り得ないものだ。
「まあ、大体ね。あ、もちろんあいつも悪い、なんなら九割方悪いって思ってるけどね? 女の子の気持ちに寄り添わない、男の風上にも置けない野郎だよまったく……と、それはそれとして」
へらへら笑いはそのままに、油断のならない光がその瞳に宿る。
「弓道ってさ、カラダを追い込む練習しないでしょ。意識がトぶ一歩手前、もう死ぬってくらい、こんなキツいならもういっそ殺してってくらい、限界の限界の限界をぶっ叩くような、さ」
「それは……そう、ですね」
「だろ? ……ああ、これはだから悪いとかって話じゃないよ。君がヌルいことやってるなんて口が裂けても言わない。ただ、陸上にあって弓道にないのはそれだってこと」
鍛え上げられた鋼が、炎に
「あいつはむしろそれを味わうために、陸上をやってる節がある。じいさんのことがあってだろうが、確かなことはわかんねえけど、ともかく……誰だってできることなら避けたい、でも本気で勝つためには泣く泣く潜るしかない、だから仲間同士でケツ叩きあってどうにか乗り切ってる、そんな地獄みてえなプロセスを、あろうことかあいつは愉しんでいる。そりゃ上に行くわな、どんな弱小校からでもさ」
とんだドM野郎だよ、と奇しくもあかり先輩と同じ表現で評した渡会先輩は、しかし楽しそうに頬を緩めた。
「でも、好きなんだよね。あいつのそういうとこ……俺には、ないもんだから。だから北村ちゃんも、認めるかどうかは別として、まずそこを見てやってくれると嬉しいね、へへ」
その笑顔は、今までと違ってさっぱりとして衒いがなくて——ああ、この人は彼の友達なんだな、と今さらながらに納得した。
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